第75回 旧仮名遣いの詩は現代仮名遣いに改めるべきか
久しぶりの、文芸コラムの更新です。
今回は、以前から書きたいと思いながら、自分の意見がまとまらずに書けずにいたテーマについて、ようやく考えを整理する事ができたので、採り上げてみようと思います。
それは、旧仮名遣い、もしくは、歴史的仮名遣いと呼ばれる言葉の表記法についてです。
ちなみに、旧仮名遣いとはどんなものか、ご存じですか?
例として、戦前の短詩の代表的詩人、八木重吉の作品で見てみましょう。
『夢』
ぐったりとおもひ疲れたので
小さくてうつくしい夢をみたいとおもふ
(ちくま文庫「八木重吉全詩集2」より)
わずか二行の中に、真心と詩情が込められています。
八木重吉は、こういった短詩の傑作を、数多く残しています。
この詩の、「おもひ」と、「おもふ」が、旧仮名遣いです。現代仮名遣いだと、「おもい」「おもう」ですね。
旧仮名遣いとは、はるか昔の言葉の表記法の名残として、第二次世界大戦終結直後まで日本で一般的に用いられて来た表記法です。
戦後、国語の簡略化が図られた際に、旧仮名遣いは教育の場から退けられ、現代仮名遣いが推奨されたことで、世間一般からも旧仮名遣いが無くなって行きました。
逆に言うと、戦前の文芸作品は、本来はみな、旧仮名遣いで書かれていた、という事です。
例えば、夏目漱石の作品で言うと、今書籍になって私たちが目にするバージョンは、戦後になって出版社の手で現代仮名遣いに改められたものです。
もちろん、生活の中で現代仮名遣いしか用いない私たち現代人にしてみれば、旧仮名遣いの小説を現代仮名遣いに改変してくれたのは、非常にありがたい事なのですが、一方で、文芸の全てのジャンルで、旧仮名遣いが改められるべきなのか、と問われると、私は、否、と答えます。
特に、私が旧仮名遣いから現代仮名遣いに改変すべきでないと思う分野は、『詩』です。
上記の、八木重吉の短詩を、もう一度読み返してみて下さい。
「ひ」と「ふ」の、柔らかな印象が、いかに詩全体の雰囲気を定義している事か。
声に出して読む際には、旧仮名遣いも、現代仮名遣いと同じ「おもい」と「おもう」なんです。
でも、目で文字を追う時、旧仮名遣いは頭の中での音読のニュアンスを変化させる効果を発揮します。
試しに、上記の詩を、現代仮名遣いに改変してみます。
ぐったりとおもい疲れたので
小さくてうつくしい夢をみたいとおもう
読み心地として、初めから最後まで、スッと抜け過ぎて、引っかかりがないので、ただの文章に近くなっている事に、気が付くでしょう。それに、詩情が薄れたことで、若干固く淡白な印象にもなっています。
おそらく、詩の作者も、旧仮名遣いの味わい深さを熟知しており、それを考慮に入れて、詩を構成しています。
だから、他人が勝手に現代仮名遣いに改めると、その作者の思慮が失われて、詩の魅力が損なわれるという問題が生じてしまうのです。
小説に比べて、詩は、言葉の「音」の響きを効果的に用いた、音楽的な要素の強い分野です。
ですから、小説で歓迎されたからといって、現代仮名遣いを戦前の詩にまで導入するのは、慎重にならないといけないと、私は出版関係者の皆さんに指摘したいのです。
実を言うと、この話題を取り上げたのは、筑摩書房が近年新たに編纂した宮沢賢治の最新の全集、『宮沢賢治コレクション』が、全ての巻で現代仮名遣いへの改変を行なっているのを目にしたからです。
賢治の童話に関しては、もちろん現代仮名遣いに改めてもらって、何の問題もないですし、むしろ現代の読者の利便性を考えて、そうすべきだと思うのですが、詩が全て現代仮名遣いに改められている点に関しては、どうしても賛成する事ができません。
ただし、念のために言い添えますが、この新全集は、画期的に優れたものです。
どこが凄いかというと、今までの賢治の全集では、ほとんどの漢字にルビを振っておらず、読みづらさがあったのですが、この新全集では、漢字の多くにルビが振ってあり、難読漢字好きの賢治の作品を、すらすら読める心地良さを体験できるのです。
この特徴だけでも、賢治好きなら購買意欲をそそられるはずです。
しかし、編者は、あまりにも読みやすさに気を配り過ぎて、サービス過剰になってしまったようです。
詩だけは、旧仮名遣いで留めておくべきでした。
もし、旧仮名遣いでルビを充実させた仕様であったなら、この新全集の詩の巻は、真に賢治の詩集の決定版になっていた事でしょう。
と、こんな風に、断定的に、詩における旧仮名遣いの非改変を肯定している私ですが、実はそんな考え方を、ずっと前から持っていたのではなくて、つい先ごろまでは、旧仮名遣いを良しとするのはあくまでも私の好みの問題であって、時代が求めるなら、現代仮名遣いに改められて行くのも仕方がないのではないか、と思っていました。
しかし、美というのは、個人的な好みを越えて、普遍的な基準があって、そこをおざなりにすると、せっかく先人が作り上げた美を、感知できずに壊してしまう場合もある、という事を、実例として見る機会がこのところ多くて、やはり、自分が良いと思うものは、積極的に擁護しなければいけないのだ、という考え方を持つように変わって来ました。
だから、戦前の詩の旧仮名遣いを改めるべきではない、という考え方は、私の好みの問題ではなく、過去の素晴らしい遺産を、できるだけ良い形で未来に引き継いで行くために、必要な事なんだと、確信をもって皆さんにお伝えしたいのです。




