第69回 リアルとリアリズムの違い。
みなさん、こんにちは。
今回も、語り手はKobitoです。
本来であれば、猫子さんのレギュラー回をお送りする予定だったんですが、当の本猫から相変わらず音沙汰がない状態です。
先日、様子を見に、尾曲町のアパートに寄ってみたんですが(言い忘れていましたが、猫子さんは今では私の家での居候をやめて、近所のアパート『ハイパー尾曲』の一室(285号室)を借りて一匹暮らしです)、玄関の扉に『面会謝絶、かんづめ中』と貼り紙がしてあって、やっぱり、創作か何かに取り組んでいるみたいです。
普段かしましい猫子さんが、急に静かになると、少々気味が悪……、いや、心配になりますが、まあ、執筆に時間がかかった時は、お互い様なので、連絡があるまで、気長に待つ事にしましょうね。
という事で、今回は、このコラム連載の本旨である、真面目な文芸のお話をしたいと思います。
テーマは、『リアルとリアリズムの違い。』です。
『リアル』と『リアリズム』はどちらも英語で、『リアル』とは現実や現実的な様を指した用語であり、『リアリズム』とは、芸術とか文芸とかで用いられる、『写実主義・現実主義』といった表現手法を指す言葉、という事になります。
『リアル』は、現実そのものを指すだけでなく、現実的なものも含めて指せる言葉なので、『リアリズム』と同じように用いる事が可能です。
例文
・これはリアルな作品だ。
・これはリアリズムの作品だ。
では、『リアリズム』とは、具体的に言うとどういう表現手法なのでしょう。
これは、簡単に言うと、「現実味を感じさせる写実的な描写」という事になります。
絵画で言えば、写真のように人や物や風景を目で見ているかのような精度で写し取る、という姿勢が、リアリズムです。
文芸で言うと、人の心理、会話、風俗、地理、専門知識、社会制度などを、現実に照らして違和感なく描く、というのが、リアリズムになります。
大事なのは、『現実』という意味を持つリアルとは異なって、リアリズムは、『現実ではないが現実のような』創作(製作)物に対して用いられる用語である、という事です。
「リアルな私の日常」という言葉には馴染みがあっても、「リアリズムな私の日常」という言葉には違和感を覚えるでしょう?これが、リアルとリアリズムの違いです。
では、リアリズムを追及した作家で、思い浮かぶ有名どころは、誰でしょう?
日本の近代文学の発展期の作家で言えば、リアリズムな作品に取り組んだのは、夏目漱石です。
夏目漱石の処女作『吾輩は猫である』が発表されたのは1905年の事です。
この軽妙洒脱な冗談文学が大評判となった事から、漱石は翌年の1906年に早くも次作の『坊っちゃん』を発表し、わずか2作目にして揺るぎない人気作家の地位を獲得するにいたります。
しかし、リアリズムの観点で言うと、この2作はまだ、娯楽小説としての創作的な面が強く、特に人間の内面を描くというリアリズムにとって重要な部分で、物足りなさを感じる事が多いです。
それもあってか、今でこそ押しも押されもせぬ日本を代表する文豪、漱石ですが、存命中は文壇の中で、彼の作品が少なからぬ批判の的にもなったそうです。
批判者の主張の一つに、「漱石の作品は作り物の物語であることが目に付き、現実から見れば不自然だ。」というのがあります。
こういう主張をしていたのは、現実をありのままに描写する事に価値を置く、いわゆる『自然主義』を掲げた作家たちです。(ちなみに、この、自然主義文学者からの漱石批判は、わりと有名なエピソードらしいんですが、批判者の名前が書いてある資料やネット記事は、なかなか見つかりません。私が見つけた記事では、批判者として田山花袋、岩野泡鳴の名前が挙げられていました。)
現代人の私が、漱石の絶頂期の作品、『それから』(1909年)、『門』(1910年)、『こころ』(1914年)などの作品を読むとき、その人間観察の透徹さに、驚かされる事しきりですが、漱石批判を行なっていた作家たちは、これらの作品も踏まえて批判していたのでしょうか?
もちろん、『吾輩は猫である』とか、『坊っちゃん』といった初期の娯楽作品や、『虞美人草』(1907年)、『三四郎』(1908年)あたりの、作り物の物語であることが明白な、演劇的な小説であれば、リアリズムの観点から物足りなさを指摘されてもやむを得ないと思いますが、絶頂期から円熟期にかけての作品については、人間の自己さえ思うままにならない危うさを描き出した、写実的な作風に属する作品が多いと思いますし、漱石以外の作家には達しえない、磨き上げた文体の美しさを味わえるという点で、日本の文学史上の至宝と言っても過言ではないほど優れた作品群である、というのが私の揺るぎない評価です。
ただ、逆に言えば、たとえ文豪漱石といえども、全ての作品で最上作と同じ水準の高みを達成する事は難しかったでしょうし、しかも、娯楽作家から内面的な作風へと発展した作家であり、『夢十夜』(1908年)のような実験的な作風にも折々挑戦していた人なので、時期や作品の方向性によっては、批評者の批判が的を射ていた場合もある、という事は、いち漱石ファンの私としても素直に認めないわけにはいきません。
それも踏まえて言えることは、「彼の数多い作品の中には、リアリズムの傑作がいくつか含まれている。」という事です。
もし、私が最も高く評価している『こころ』についても、自然主義の立場から批判する向きがあるとしたら、私はこう答えます。
あなた方がリアリズムに必要だという「露骨な性描写」や「人間の嫌な面を根掘り葉掘り描く姿勢」は、優れたリアリズム文学には必ずしも必須なものではないと思う、と。
なぜなら、リアリズムとは現実そのものを描写する事を目的とするのではなく、あくまでも創作(製作)物のリアルさを演出する一手段として用いて、作品の質を高める事を目的とすべきではないか、と思うからです。
そして、漱石の作風の良さは、生々しい出来事よりも品格ある文体の面に現れるので、それを活かすという点でも、「露骨な性描写」や「人間の嫌な面を根掘り葉掘り描く姿勢」は、抑え気味にした方が、かえって作品の質を高め、読み手を漱石らしい品のあるリアリズムの世界にひたらせる事ができるので、効果的ではないか、と問いかけたいのです。




