第65回 私小説とは何か
今回のコラムは、『私小説』というジャンルについて語っていますが、これが以前から予告している、『ある特殊な文芸の様式』のコラムというわけではありません。
『ある特殊な文芸の様式』のコラムはまだ執筆中です。
あんまり日にちがかかるので、また別のコラムを先に書いて投稿することにした、という事です。
しなければいけない事があると、別の事がぐんぐんはかどる事って、皆さんも経験がありませんか?
今の私がまさしくそれです。
小説の一分野で、『私小説』というのがありますが、皆さんは、この形式で作品を書いた事がありますか?
ここなろうにも、ジャンルの選択肢の中に、私小説があって、数多くの投稿作品があるようですから、文芸のジャンルの中では、書き手にとっても読み手にとっても、比較的馴染み深い分野になるのだろうと思います。
私小説の定義は、作者が体験した事実をほぼそのまま書いた小説、という事です。
空想を基礎にした創作文学とは、対極にあるジャンル、と、一見すると言える位置付けです。
過去の文豪の中で、私小説の名手といえば、志賀直哉が挙げられます。
誇張や大げさな言葉を排した、それでいて気品と情緒に満ちた文章が、彼の私小説の魅力を支える屋台骨になっています。
言うまでもなく、私小説は、事実に基づいた話、というところに醍醐味があります。
読み手は書き手の作り話ではない本物の人生経験を追体験することで、作家の記憶の中の悲喜こもごもを共有し、人柄や考え方をより深く理解する事で、その人の人間性の魅力に共感したり、時には反発したりする事をも楽しみます。
逆に言うと、鋭い洞察力のある読み手は、書き手が自尊心や虚栄心を満たすために事実を脚色したり都合よく改変したりした場合、それを見抜く事ができますから、いかようにも自分を偽れる創作文学に比べると、私小説は、書き手の誠実さが試される分野でもある、という事が言えます。
しかし、一方で、私小説、というのはあくまでも『小説』という創作文化の一ジャンルです。
ですから、ノンフィクション(事実の記録)やルポルタージュ(現場取材の記事)、ドキュメンタリー(記録映像)と全く同じ「事実のみで構成される事を求められる」性質を持つ、というわけでもありません。
矛盾するようですが、私小説は事実そのものの記録が主目的の分野ではないのです。
では、どこからこの矛盾が生じているのか。
それは、私小説というものが、書き手の『主観』に基づいた作品だからです。
主観というのは、自分が見た感じ、という意味です。
つまり、私小説は、客観的な物の見方ではなく、自分にはどう見えたか、という、個人的な意見を基にして書かれているのです。
ですから、客観的に見れば事実と異なる事でも、作者本人が真実だと感じていれば、それが作中に記述される事になります。
ノンフィクションやルポルタージュ、ドキュメンタリーでも、そういった書き手の主観が入り込む余地があるではないか、という方もいるでしょう。確かにそうです。
客観的視点で物事を把握するのは難しいですから、「事実のみで構成される事を求められる」ジャンルでも、どうしても主観的な物の見方が入り込む余地は生じてしまいます。
しかし、基本は、「事実のみで構成される事を求められる」という規則に縛られた分野ですから、それを逸脱すると批判の対象になり、修正を求められることで、本来のあるべき姿に正される、という外的な監視機能が働きます。
ところが、私小説では、そのような事は起こりません。
なぜなら、私小説は、「主観に基づく内容なので、必ずしも客観的事実にこだわらなくても良い」、という基準の緩さがあるからです。
つまり、極端なたとえ話をすると、客観的に見てたいていの人が美人だと感じる女性がいたとして、作者がその人をあまり美しくないと感じるのであれば、作中に現れるその女性は美しくない容姿として記述される事になるわけです。
そして、その記述は、礼儀の観点からは苦情の対象になりこそすれ、虚偽の記述として批評者から批判の対象に挙げられることにはならない、という事です。
この、私小説のジャンルが持つ特殊な特徴は、ある意味、どのように書いても『主観視点』という理屈で弁護できる、という、素晴らしい自由を与えられているとも解釈できます。
では、私小説と銘打って、全くの創作に基づいて話を書き、それを私小説だと主張する事は、許されるのか。
それは、さすがに無理がありますね。
主観視点という自由が与えられた私小説にも、「作者が体験した事実をほぼそのまま書いた小説」という縛りはありますから、作り話だけで作品を構成したものを私小説と呼ぶことは、さすがにできそうにありません。
可能なのは、本当に作者がそれを事実だと思っていれば、他者から見れば創作としか思えない事でも、事実として記述する事ができる、という事です。
つまり、空想と現実が入り混じった世界であっても、それが作者の実際に感じた世界であれば、私小説の範疇として許容される、というわけです。
こんな事を書くと、「私小説というジャンルに信頼がおけなくなるじゃないか!」、と憤慨される方もいるかもしれませんが、これは極端な例ですから、通常、私小説と呼ばれるジャンルは、そんなに心配しなくとも、「作者が体験した事実をほぼそのまま書いた小説」という言葉から連想される、常識的な範囲内で、体験談が書かれている事が多いです。(そうでないと、あまりに主観が奇抜だと、ついて来れない読者が大勢生じてしまいますからね。)
ただ、客観的事実そのものとも違う場合がある、という事は、念頭に置きながら読んだ方が良い、という事は、これで理解してもらえたのではないでしょうか?
もちろん、「主観に基づく内容なので、必ずしも客観的事実にこだわらなくても良い」という私小説の特権を行使して、物語としてより魅力的になるように、事実を改変する創作を加える、という手法も、古今の私小説上、珍しい事ではありませんから、そう杓子定規に私小説に真実性を求めるのも、頭でっかちで面白くないように思います。(よく、創作物を鑑賞する際に、「この場面は史実と異なる」なんて、指摘するのが癖になっている人がいるでしょう?重要なのは、史実通りかではなく、作品として魅力的かどうかなのに、間違い探しみたいなことをやる事に喜びを見いだしているわけです。それは、客観的に見ると創作物に対する退屈な向き合い方だと私は思うのですが……、いや、これは主観に基づく意見かな。)
実際、私もここなろうで私小説のジャンルを選択して投稿した作品には、必ずと言っていいほど創作を織り込んでいるので、それを読者に客観的事実そのものとして受け止められると困る、という事情があります。
私にとっては、私小説における事実とは、作品に真実味を持たせるための一つの素材に過ぎないという認識で、それが最重要のものだとは思っていないからです。
この辺は、作者の性格や好み、作品の方向性によって、様々な意見が出そうですね。
ただ、それもまた、それぞれの作者の個性、という事ですから、こうでなければいけない、というジャンルとしての明確な基準があるとは言えない、という事です。
事実を改変した作品や、ファンタジックな内容を含む作品が、私小説と銘打っていたって、大いに構わない、というのが、私のスタンスです。
それがその人の内面的事実を明らかにする内容であれば、それは私小説になり得る、いや、なってほしいと、私は願っているからです。




