第49回 『読みやすい文章』と『読みにくい文章』
第47回のコラムでは、私たちが普段、文章を読むときに、『言葉の流れ』というものを、意識的にせよ無意識にせよ、感じている、という事を述べましたが、今回は、その言葉の流れが主に作用して起こる、文章の読みやすさ、読みにくさ、について、考察してみたいと思います。
まず、考察のたたき台として、第47回で例示した、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』からの一節を、再び引用してみます。
〝それはだんだん数を増して来てもういまは列のように崖と線路との間にならび思わずジョバンニが窓から顔を引っ込めて向う側の窓を見ましたときは美しいそらの野原の地平線のはてまでその大きなとうもろこしの木がほとんどいちめんに植えられてさやさや風にゆらぎその立派なちぢれた葉のさきからはまるでひるの間にいっぱい日光を吸った金剛石のように露がいっぱいについて赤や緑やきらきら燃えて光っているのでした。〟
長い一文の中で、読点(「、」の事)が一つもない、という、特徴的で大胆な文章です。
私は、この一文を説明する時に、『読点を用いないで、これほど流麗な、響きのよい言葉を連ねた(しかも説明的でなく情緒的な)、リズムの良い文章を書くのは、並大抵のことではありません。』と褒めました。ところが、感想を寄せてくれた読み手さんの中には、この文章を読み難いと感じた方も居ました。
これは、『文章の読みやすさ、読みにくさ』について、理解するのにちょうど良い出来事ではないかと思います。
では、その理解に至るために、試しに、この例文に読点を加えることで、読みやすくなるかどうかを、確認してみましょう。
〝それはだんだん数を増して来て、もういまは、列のように、崖と線路との間にならび、思わずジョバンニが窓から顔を引っ込めて、向う側の窓を見ましたときは、美しいそらの野原の地平線のはてまで、その大きなとうもろこしの木が、ほとんどいちめんに植えられて、さやさや風にゆらぎ、その立派なちぢれた葉のさきからは、まるで、ひるの間にいっぱい日光を吸った金剛石のように、露がいっぱいについて、赤や緑や、きらきら燃えて、光っているのでした。〟
読点を程よい位置に入れることで、語られている内容の意味が把握しやすくなったのが分かります。長い一文に区切りが無いと、どこからどこまでが一つの意味のかたまりなのかが分からず、読み手が理解しづらさを感じたり、スムーズに情景を思い描くことが難しくなる、という弊害が生じます。
逆に言うと、こういった長い一文に関しては、読点を適度に入れることで、その弊害を簡単に解消でき、読者にスムーズに理解してもらえる文章にする事ができる、という事です。
ですから、「読みやすい文章」はどちらか、と言えば、それは、私が読点を加えた文章の方、という事になるでしょう。
では、なぜ、賢治はわざわざ、読みにくくなる弊害を犯してまで、一文に読点を用いないという選択をしたのでしょうか?
ここで大事なのは、「読みやすさ」というのが、文芸作品にとって、最も大事な事ではない、という事です。
もちろん、支離滅裂な文章だったり、意味不明な文章では、読む楽しみがあまりないという事になりかねませんが、少なくとも、意味が分かり、また理解する意義を持った文章であれば、どんな文体であれ、面白さや読む楽しみを、大なり小なり読者に提供することができるのではないか、と私は思うのです。
特に、「読み応え」という、読書好きが文芸作品に求める手ごたえを生み出したい時、「読みやすさ」ばかりを追求しているようでは、深みのある味わいは生み出せないのではないかと思います。
第47回のコラムでも述べたとおり、賢治は、この一文で、景色が短時間で移り変わって大きく変化した刹那に受けた印象を、読者に伝えようと試みています。
その鮮烈な感覚は、読点を用いた一文よりも、用いない一文の方に、よりリアルに表れています。
読点を用いた一文は、理解しやすさこそあれ、情景の変化が短い時間の中での出来事である事や、一連の感覚が一つの切れ目のない連続した体験である事から来る、押し寄せるような勢いを、読点を用いない一文に比べて如実には表わせていません。
ただし、読点を用いない一文のタイム感覚や、印象の鮮やかな変化の感覚を深く味わうには、賢治の文章の特徴である、文章が刻む乗りの良いリズムを感じながら読む事が望ましくなって来ます。
文章が持つ心地良いリズム(流れ)を感じる事ができれば、読点が無くとも文章の区切りや息継ぎの場所が自然と分かるようになり、意味を理解し、情景を思い浮かべながら、読むことができるようになります。
それは、誰にでも最初からすぐにできることではなく、慣れが必要な部分でもあります。
クラシックなど複雑な音楽作品に最初に接した時に、よく分からないと感じても、何度も聴いているうちに、流れが分かって来て、楽しめるようになるのと、同じです。
これが、文芸作品の「読み応え」と呼ばれる部分の一端です。
こういった読み応えを求める読者というのは、ある程度深みのある読書経験を積んだ、文学作品好きの方に多いかもしれません。
一方で、分かりやすい文章、気軽に読める文章を求める傾向にある、ライトノベルや大衆向けの小説、軽めのエッセイなどを愛読する方は、読み下す技能や力を求められる作品を、敬遠する傾向があるのではないでしょうか。
読書というのは、音楽の好き嫌いと同様に、それぞれの好みで自由に選択できる点が良いわけですから、一概に、『読みやすい文章』と『読みにくい文章』のどちらがいいか、という事は言えません。
ただし、『読みにくい文章』には、それ相応の意味と意義がある、という事は、『読みやすい文章』を好む人たちも、知っておくべきではないかと思います。
音楽の好みと同じで、いつ、あなたが、『読みにくい』と思っていた文章に、親しみと美点を見いだすか、それは、他者はもちろん、あなた自身にも、きっとわからない事でしょうからね。




