第29話 影しかない男(10)
「ぐぅっ! 見る前に、鼻がひん曲がりそうだっ……大丈夫ですか、検屍官」
周囲に飛び回る蠅を片手で払いながら、レストラードがもう一方の手で鼻から下を覆う。木立に囲まれた茂み一帯に、遺体が放つ腐敗臭が漂っていた。
幸い、遺体を包んだ防水シートは軽くめくってすぐ戻されていたが、一度放たれた匂いは簡単には立ち消えない。
「一人分ですから」
気遣うレストラードにソフィアは答えた。血と腐臭にいまさら怯むことはない。
子供の頃に怖い人にたびたび連れて行かれた、鉄錆の匂いの染みついた塔の地下でも、王女として王宮から隣国へ送られた際に通った戦の跡地でもない。
胸が悪くなるような臭いだが、開放された外で、遺体もたった一つだ。
「一人分……って」
「僕と同郷で、ゲルマニアの侵攻から逃げてきている」
ソフィアに訝し気な目を向けたグラットン医師に、コンラートが話せる事実だけを伝える。それで十分だった。
グラットン医師はたちまち申し訳なさそうに目を伏せて、林の奥へ視線を移す。
ジェシカの親族への悪口めいた発言をたしなめた時も思ったが、見かけよりずっと良識のある人だ。
「優秀でも、何故、卿の弟子かと思っていたが……そういった事情なら納得だ」
同郷の亡命者をコンラートが庇護していると捉えたのだろう。グラットン医師の言葉は間違いではない。レストラードは物言いたげな表情で黙っていた。
ヤードの警部がたびたび現場で顔を合わせる、検屍官でも異例なソフィアが何者か確認しないわけがない。
エドワード同様、大公国経由で避難した元ルドルフシュタットの王族付使用人だった平民。ソフィア・レイアリングの経歴を彼も知っている。
「開けますよ」
地面に落ちていた、丁度いい長さと太さの枝を拾い、レストラードが遺体の上に被せさっている防水シートをめくっていく。シートの周りにたかっていた蝿や羽虫が散開し、遺体の全貌が露わになる。
ぐぅ、とグラットン医師が慌てて背を向け、十数歩離れて木の根元でしゃがみ込んだ。遺体が放つ臭いではなく、見た目のためだろう。
「し、失礼……私は、内科医だから……そういったのには慣れてない……」
言い訳のように、木の幹を頼って立ち上がりハンカチを口元にグラットン医師はバツが悪そうに言った。医師として情けない姿を見せたと思ったのかもしれない。
だが陰惨な遺体を見慣れているだろうレストラード、ソフィアも顔を顰めて目を背けたくなる遺体だった。
「これは、まさに異形だ……」
「やはり腐敗ガスで膨れ上がってますね。焼け焦げ、炭化して乾いた皮膚表面がガス圧でひび割れて、血液や体液が滲み出てます」
変化した血液成分の色で皮膚は緑がかり、血管が褐色の網目が浮かび上がっている様は黒焦げの怪物じみている。
だが、人間の遺体だ。焼かれた時の熱収縮で、拳闘士が構えるような肘や膝を曲げた体勢に凝固し、斜めに倒れていた。
「顔で誰か判別は難しそうです」
主に前面がひどく焼け焦げている。顔は焼け爛れているだけでなく腐敗ガスで膨張し、人物の判別は難しく思われた。困ったなとソフィアは思った。
「腐敗は止められませんが、痕跡の維持のため周囲一帯とご遺体にも保存結界を張りますね。解剖するにも、応援を待って慎重に運んだほうがいいと思います」
「……その……解剖って、誰が……」
ふらふらと戻ってきたグラットン医師が誰にともなく尋ね、レストラードが「そりゃあ」と、青い顔で口元をハンカチで覆う彼の顔を見る。
「この町に医者はあんたしかおらんのでしょう?」
「よしてくれ……州警察が来るなら、あっちの街には協力医だって……っ」
「この状態のご遺体は遠くまで運べません」
ソフィアは遺体の亀裂から流れ出た、防水シートの底に溜まる赤黒い腐敗液を差し示した。
「内部の腐敗がかなり進んでます。駅までの道は舗装もないので、振動で遺体が損壊してしまいます」
「どうせ切り刻むのだから、いいじゃないかっ……」
「でも中身がぐちゃぐちゃになったのを調べるのは、解剖医の方でも大変ですよ?」
司法解剖なんて慣れていないから気が引けるのかもしれないが、慣れた解剖医だって腐敗が進んだ遺体を調べるのは大変だ。
この場合、現地の医師ができるだけ早く、原形を止めた遺体を解剖する方が、死因の究明にはいい。
「私共としてもぜひ先生に協力願いたいですな、いまのままでは身元もわからん」
「身元なら、ロバート・クックだよ! 何度か彼を診てる……膨張してるが骨の変形が脚に見られるっ」
カルテも渡す、それで十分だろと言ったグラットン医師だが、ソフィアは、たぶんレストラードも、彼に解剖してほしい思いが強まっただけだった。
一見しただけで遺体の特徴をとらえ、過去の診療情報と一致するかしないか判断するなんてかなり注意深い医師だ。
田舎唯一の名医はあながち冗談でもないかもしれない。
「それに私は内科医で……そう、外科でもない! 死因究明だなんてとても」
「聖ナタナエルの医学教室出身なら、内科外科に関わらず解剖学は必修で、持ち込まれる司法解剖の見学もあったのでは?」
コンラートの静かな言葉に、協力に難色を示していたグラットン医師の表情が引きつった。
「えっ、聖ナタナエル病院?」
「サー・リチャードの寝室へ向かう際、開業前は勤務もしていたと仰ってたよ」
「あ……いや、まあ……」
こんな地方に、首都でも名門中の名門病院。最高水準の医療機関付属の医学校出身で、勤務もしていた医師がいるなんて。この遺体は幸運だ。ひどい状態でも適切に検体処理してくれるはずと、ソフィアはグラットン医師を見上げた。
「わたし、いつもあの病院の協力医に解剖をお願いしてるんです!」
「そんな期待できらきらした目で見ないでくれ!」
「医学の進歩に貢献し続ける、由緒ある王立救貧病院。初代の病院長からして当時の解剖学者だ。その出身というだけで、地域の医師には望めない知見をお持ちのはず」
涼やかに言ったコンラートと、「それはそれは」と頷いたレストラードに挟まれ、ソフィアも期待の目を向けたからか、グラットン医師は協力を了承した。
「はぁ、どうして私がこんなひどい焼死体を……ミス・レイアリング、君もよく平然としていられるよ……」
「ソフィアでいいですよ。グラットン先生、それに焼死かどうかは……」
「君! 無防備に近づいちゃ危険だ! 体液で汚れてなにかに感染したらっ」
遺体の側に屈み、遺体に顔を近づけたソフィアを慌てて咎めたグラットン医師の声に彼女は振り返った。少し遠巻きに背後から見ている彼はまるで指導医のようだ。
コンラートも含め、現場でそういった注意をする人はあまりいない。気をつけてもいるし、自分用にならソフィアはある程度危険に合わせた対策薬も調合できる。
他の人に使えるものかはわからないから、解剖準備が整うまではグラットン医師は離れていていいと思うけれど。
「大丈夫ですよ。ローブに汚れ避けの魔術加工もあるし、すぐ浄化の魔術も使います。危ないなら発症予防の薬も作れます」
「フィフィ、それは君だからだよ。グラットン医師の忠告はもっともだ」
「無茶苦茶だな……魔術職ってのは」
グラットン医師が嘆息するのをよそに、ソフィアはローブの中からピンセットと、短い棒状の魔導具を取り出した。
元から苦悶に開いていた遺体の口に、ピンセットの先を入れて舌を軽く抑え、魔導具で喉の奥を照らす。
「随分とお誂え向きな道具を……本当になんでも出てきますなそのローブは」
「師匠からの誕生日プレゼントなんです」
レストラードの言葉に、ソフィアは少し自慢げに答えた。
手に握って魔力を少し流すと、先端に嵌め込んだ小さな魔石が光る魔導具は、採取した鉱物の観察や、狭い隙間などを照らすのに丁度いい。
「女性に対する贈り物としてどうかですな、大魔導師殿も……」
「研究道具にと思ったら、色んな使い道を見出してくれてね」
「――気管があまり汚れていませんね。解剖で確認してみないとですが、鼻の奥もなら……死後に燃えた可能性が高いです」
「なんだとっ!?」
「……傷みに対して遺体に虫もほとんどいない。殺害後に焼いた後、すぐ防水シートに包んで遺棄された……あれ?」
遺体から顔を離したソフィアは、髪が焼けちぢれた頭部をじっと見つめて、榛色の瞳の目を細めた。つい眉間に力が入ってしまう。
保存結界を張って正解だった。けれどおかしい。
「どうして……時間が合わない……」
「フィフィ? なにか“視”えてる?」
「はい。頭部に微かに魔術の残滓が……ちぢれた髪の中に」
「魔術まで、厄介な……」
レストラードがうんざりした調子でぼやく。
ただでさえ怪奇事件の様相を呈している上に、捜査が困難なものと確定したも同然だからだろう。魔術のことは魔術職にしか見極められない。
「おかしいです、師匠。腐敗状況から、どう考えても二日は経過しています。そんなに長く魔術の残滓が遺体に留まるなんて……」
「防水シートのせいでは?」
「水分と違い、魔力を構成する魔素は金属すら通り抜ける。魔力を有する人や鉱物の発生は、魔素を溜める資質的なものか、雄大な自然の力や時間をかけた凝集で……」
「大魔導師様の講義は結構です。つまり防水シートだろうが漏れて消える」
「まあね、警部は理解がいい」
コンラートの話を途中で遮って、レストラードが本来起きることだけまとめる。
グラットン医師は静かだった。気になったので立ち上がってソフィアが振り返れば、彼は信じられないものを見る目でソフィア達を眺めていた。
元大陸貴族、それも侯爵家の人間だったコンラートに、ソフィアだけでなくレストラードも対等もしくは職権で上に立つような会話が成立しているからだろう。
「でもそうだね……考えられるとすれば、髪と燃焼と残滓が重なった作用かも」
「作用?」
「古来から髪には魔力が宿ると考えられ、理由はいまも不明だが実際蓄積しやすい。火はそれ自体が魔術においては力の放出であり、結合するものでもある」
「ひとまず、採取します」
ソフィアは、浄化をかけたピンセットや魔導具をローブにしまうと、代わりに水晶細工の容器を取り出した。採取用のガラス管に似ているが違う。
魔力を流せば燐光に似た光を帯び、その口を残滓に近づけると容器の中へと吸い取られる。人工魔石の粉を練り込んだ糊が塗られた封印紙で蓋をして、採取完了だ。
「フィフィの仕事は、ひとまず終わりかな」
「そうですね。焼けているのもあって、目立った外傷も表面にはなさそうです」
グラットン医師の解剖でなにか見つかればいいが、とレストラードにも期待の目を向けられて、いやいやと彼は首を振った。
「おいおい、場数も踏まない素人も同然だ。勘弁してくれ……!」
「グラットン先生、深部に外傷の跡がないかと、検体を分けてください」
「君も、容赦ないね……毒物分析かい? 肝臓、胃の内容物と血液……臓器が腐り溶けていなければだけどね。そうでなくても分解が進んで検出は難しいよ」
「はい。それでもです!」
さすが聖ナタナエル病院の出身だ、話が早いとソフィアは頷く。
皆で現場から離れて全員に浄化をかけ、ひとまず検屍は終わりだ。
「警部、死因特定のために話を聞きたい人がいます。被害者が燃えているのを目撃したデイビッドさんと工場長。それから令息のミスター・トマス・ブランドル」
「令息のトマスは事件時首都にいた。社交に出ていた裏も州警察が取ってる」
「でも、監督室の真下にお花を供えているのを見かけました」
「トマスが? あの気位の高い甥が、工員崩れのロバートと交流なんて口をきくのだってあり得ない」
グラットン医師の否定に、ソフィアは首を横に振った。
「彼は、被害者がサー・リチャードを逆恨みしていることについても、“あの人はそんな人じゃない”と言いました。なにか関係があると思います」
「それは、なかなかに興味深い話ですな。検屍官」
まさかと驚くグラットン医師とは反対に、レストラードがまるで興味深い事象を前にしたコンラートのような言葉を口にし、いいでしょうと同意した。




