書籍化記念SS もしかしたらあったもう一つの物語
連休前に並んでいたところもありましたが、本日書籍発売です。
『さようなら、私の白すぎた結婚 「いい嫁」をやめたら本当の愛が待っているなんて聞いてません』
ベリーズファンタジースイートより発売。
「旦那様、私と離婚してください」
妻はしっかりと美しい新緑の目で私を見つめてそう言った。
まるで異国の言葉のように私の耳には聞こえ、理解するのに時間を要した。
リコン、リコン……リンゴではなく、どんな字を書くんだったか、あぁ離婚か。
離婚は最近ではとても馴染みのある言葉になっていたはずだった。私もこの短い期間で口にした。
彼女が離婚と言い出すのも仕方がないだろう。
いくらこちらが謝罪したとはいえ、これまでの日々が急に許されるわけではない。
彼女の家に圧力をかけるのは簡単であるし、借金の額をさらに膨らませることもできる。そうやって彼女を無理矢理つなぎとめようとするのは、カニンガム公爵家の力をもってすれば簡単だ。
でも、そんなことに何の意味が? そんな価値があるのか?
彼女に、ではなく自分に。そこまでして彼女に側にいてもらうほどの価値が私にあるのだろうか。
どうせ私は彼女をまた傷つける。父の重荷が取れたとしてもこれまでのように、そして母のようにしてしまう。
「分かった」
その言葉は心とは裏腹にいとも簡単に口から出た。
「書類を準備する」
「よろしくお願いします」
先ほど私に握られるのを避けた彼女の手が膝の上でぎゅっと拳を作っている。
彼女が私の前で自然体で笑顔だったのは、ケガをして記憶喪失だった時だ。私の記憶が戻ってから、彼女はまた笑顔を失ったではないか。リチャードがワインを渡してなんだかんだあったものの、以前の彼女のようではなかった。不自然に逸らされる視線だってそうであるし、お世話の時のようにグイグイは近付いてこない。今のように手を避けるよりも先に私に触れていたはずなのに。
こうなるのなら、記憶が戻っていない方が良かった。
「じゃ、じゃあ私はそろそろ部屋に戻りますね」
「あ、あぁ」
私が黙り込んだままでいると、彼女は居心地悪そうに自分の部屋に戻って行った。
離婚の書類を準備しなければいけないだろう。
全く手をつけていないから早く取り掛からなければ。
彼女が綺麗に飲み干した紅茶のカップをしばらく眺めていたが、風が冷たくなってきて私も執務室に戻ろうと視線を上げてビクリとする。
リチャードが部屋の中からじっとりとした視線を私に向けていた。
「どうした」
「なんでもございません……えぇ、目の訓練ですよ、目の訓練。最近目の疲れが酷くてですね」
目の訓練と言いながらリチャードの恨みがましい視線はそのままだ。
「言いたいことがあるなら言えばいい」
先ほどまではリチャード以外、庭に立ち入らないように言いつけてあったのだ。追加の紅茶のポットがテーブルに置いてあるので、これを持って来た時に妻との会話をどうせ聞いたのだろう。
「……旦那様はこれでよろしいのですか」
「あぁ。彼女にはこれが一番いい」
リチャードの方が苦悩しているかのような声だった。
でも、これでいい。また彼女が傷つくことがないようにしなければいけない。あんなに明るい彼女を泣かせて「離婚してください」とまで言わせてしまったのだから。
「私は、旦那様はこれでいいのかとお聞きしているのです」
「あぁ」
「左様でございますか」
リチャードはそれ以上何も言わなかった。
翌日、リチャードが旅行にでも行くような大きなトランクを運んでいた。私に外出の予定も、母の旅行の予定もない。もちろん、リチャードの休暇の予定もだ。
何だろうか、胸騒ぎがした。
「リチャード。それは?」
「あぁ、旦那様。奥様のお荷物です。旦那様がアレを承諾されましたので、奥様は先に実家に戻っておくとのことです。離婚に関する手続きの書類は送って欲しいと」
「聞いていない」
昨日とは違って可哀想なものを見るような目でこちらを見てくるリチャード。
「以前も離婚する云々で旦那様が書類をなかなかご準備されなかったからではないですか? 奥様もアレが決まったなら将来のことも早くお考えになりたいでしょうし」
なぜリチャードは廊下に誰もいないのに、妻が実家に帰ることは明言して離婚のことはアレなどと言っているのか。
「再婚もあるかもしれませんからね」
リチャードの言葉に少しだけ心臓が跳ねた。
いや、だがこの数年の白いどころか白すぎた結婚だったことはバレていないのだから、子供を生んで欲しい家は彼女に再婚の話は持っていかないはずだ。世間からは私との数年の結婚生活で妊娠しなかった女性と見られてしまうのだから。
契約結婚すると決めた時にそれは分かっていたはずだった。さすがの私でも知らなかったなんて言わない。だが、援助をするのだからいいと思っていた。対価は払うのだからと。
彼女を道具のように見て扱っていたことに他ならない。
「良い再婚話があればバートリ伯爵に回してほしい」
「かしこまりました」
リチャードは流れるように頭を下げ、トランクを持って歩いて行く。
その背中をまたぼんやり見送って、頭を軽く振った。昨日からよくぼんやりしてしまっている。
執務室に戻ったが、やはりぼんやりしてしまって離婚書類の作成さえままならない。もうリチャードに任せた方がいいだろうとそれを脇によけた時に馬のいななきが聞こえた。
まだビクリと体が震えてしまう。
窓に近付くと、馬車が停まっておりリチャードが先ほどのトランクを積み込んでいた。
普通はあんなことは他の使用人がやることだ。家令であるリチャードがする必要はないのだが、妻に関することだから率先して動いてくれているのだろう。
トランクをいくつか積み終わったリチャードは屋敷の中に戻って行く。おそらく、妻に準備ができたことを告げに行くのだろう。
彼女らしくない。彼女なら最後の挨拶は自分でしに来そうなものなのに。
いや、離婚するのだから昨日一通り話してもう十分だと思ったのか。私と顔を合わせるのさえもう嫌なのだろうか。
執務室の扉がノックされた。
返事をすると、入ってきたのは神妙な顔のリチャードだ。手紙を持っている。
「彼女からか?」
「はい」
リチャードから手紙を受け取って、なぜか開く前に考え込んだ。
このままこの手紙を開いてしまったらどうなるのだろう。彼女との関係がまだ離婚の手続きもしていないのにすでに終わってしまう気がする。
なぜか彼女がこの家にずっといるのだと思い込んでいた。離婚の話をしたにもかかわらず、すぐには出て行かないだろうと。
手紙がするりと手から落ちた。
まるでこの家から出て行こうとしている彼女のようだった。いいのだろうか、このまま彼女が出て行って。
「旦那様!」
床に落ちた手紙と声を上げたリチャードに見向きもせずに、私は執務室の扉を開けて廊下を走った。
私が走ることなど基本的にない。父の死を知って現場に向かう時と彼女が階段から突き落とされた時と彼女が王弟夫人に危害を加えられそうになっていた時にしか、私は人生で走っていない。
もう馬車に乗っているのだろうか。
彼女はちまちまとよく動く。食事とお茶を飲んでいる時以外は座ったら死ぬのかというくらいちまちま動いている。だから、言われた時間よりも早く行動しているだろう。
執務室が二階にあることを今日ほど恨んだことはない。そして今日ほど自分の長い銀髪を鬱陶しいと思ったこともない。
廊下を走って階段の手前で彼女が見えた。もうこの屋敷から出ようとしているところだった。いつも外出の時に着ているグリーンのデイドレスを着ている。
「エルシャ!」
階段の手すりに手をかけて彼女の名前を叫んだ。
彼女の名前を呼ぶのはいつ以来だろう。離婚とならないと彼女の名前を私は呼べないのだろうか。
彼女はキョロキョロした後で私に気付いた。首をかしげて「あれ、旦那様?」と唇が動く。
私は階段を駆け下りた。
「走ったら危ないですよ、旦那様! って、あ! わきゃああ!」
なんだろう、その「わきゃああ」という声は。
その瞬間、足元がふわりと浮いた。地面がなくなったかのような浮遊感。そのままバランスを崩して私はどうやら数段階段を転げ落ちたらしい。背中と咄嗟についた手が痛い。
「だ、旦那様!」
妻が駆け寄ってきて手を伸ばしてくる。
彼女の手は震えていて、涙目だった。
ひとまず、床にあお向けに倒れたまま彼女の手を掴む。
「痛い」
「え、旦那様、まさかまたお怪我を?」
彼女の手を掴んだ自身の手が痛みを訴えている。咄嗟についてひねったか、骨折したか。
「帰るのか?」
「え?」
「実家に帰るのか?」
「へ、実家?? リチャードが気晴らしに買い物にでも行ったらどうかって。予算も全然使っていないのだからとわざわざ馬車を出してくれて」
まさかのまたもリチャード。うっかり、めったにしない舌打ちをした。
「さすがにまだ帰りませんよ。片付けとかやることもいろいろありますし」
「あなたが実家に帰ると思って、走ったら階段から落ちてまた怪我をした」
「帰りませんってば。とりあえず手当てをしましょう、お買い物は乗り気でもなかったので中止です」
「あなたにそんな顔ばかり私はさせているから、離婚するつもりだったのに」
彼女の目が意外そうに見開かれる。拍子に、彼女の目からポロリと涙が落ちた。それを恥じるように彼女は顔を逸らして伏せる。
「私は、本当は離婚したくないらしい」
鼻をすすりながらこちらを向いた彼女は唇をぎゅっと引き結んでいた。
「……旦那様がまた死にかけるのかと思ってびっくりしました」
「あなたがいなくなろうとすると、私は怪我をするらしい」
彼女の目の前で手をひらひらと振るが、痛みで思わず顔をしかめた。でも、彼女は泣きながらちょっと笑ってくれた。
「じゃあ、私、ここからいなくなったらいけないじゃないですか。旦那様にはもっとお金持ちで高位貴族の賢いご令嬢がお似合いだからこのタイミングで離婚したらいいと思ったのに、出て行けないじゃないですか」
「そうだ。私に怪我をさせたいなら……もうあなたを引き止められないが」
妻はまた笑うと、鼻をすする。
「そんなわけないじゃないですか。私にとって旦那様は大切な人ですよ」
その言葉で私はようやく少しばかり安堵した。息を大きく吐くと、手の痛みが先ほどよりも強く襲ってくる。
リチャードがひょいと上からのぞき込んできた。
先ほど私が落とした手紙の封をゆっくり切って、中身を取り出す。まさかの中身は白紙だった。
「この老いぼれの首をかけた一手はいかがでしたか」
「あの思わせぶりなトランクはなんだ」
「リアリティでございますよ。迫真の演技にはリアリティが必要です。信じたでしょう」
「旦那様、ひとまず手当てしないと」
妻に手助けされて起き上がる。妻の手の温かさを感じて、私はやっと安心できた。




