第37話 青葉さんはキューピット
つまり、俺の日常は、いつの間にか青葉さんありきのものに変わっているのか?
あれ? 一蹴された混乱は転がって雪だるま式に膨れ上がり、大混乱に変わる。俺が必死に頭を抱えているうちに、柿井さんは軽く頭を下げた。
「日常っていえば、白沢さんには転職してすぐお世話になりましたね。会社はこういうもんなんだって話し、色々聞かせてもらって」
一年半前、事務所から来ました、と言われてあれこれ世間話ついでに会社の話はした覚えがある。柿井さんは興味深そうに「これがいわゆる社内政治ですね」と言っていた。
「ほら、うちの部長は事務所上がりで、そういうところ気が利かない、いかにも弁護士な感じで。正直、白沢さんからの情報がないと乗り切れなかったところ多かったです」
「……柿井さんにそう言ってもらえるのは光栄です」
「いえいえ本当に、すごく助かりました。今さらですけどありがとうございました。そういう白沢さんを紹介してくださった青葉さんにも感謝ですって話したんですけどね」
「青葉さん?」
ここでなぜ? 目を丸くすると、柿井さんは「あれ、話したことなかったですっけ」と逆に目を丸くした。
「セキュリティ部なら一番話しやすいのは白沢さんだって、最初に青葉さんが話してくれたんです。特に会社が初めてだってことで、偉ぶるでもなく“新しい人”にはいい意味で割り引いた接し方と説明の仕方をしてくれるって」
ま、お陰で白沢さんの仕事は増えちゃったかもしれませんね、と柿井さんは笑った。そこは申し訳ないです、と。
「要は青葉さんが僕と白沢さんのキューピットになってくれたというわけです。白沢さんは仕事増えたかもしれないですけど」
「いやあ、柿井さんは仕事できるので全然いいです」
口先ではそう言いつつ、少し背中が熱かった。
「じゃ、そういうわけで、こんな立ち話でのご挨拶になっちゃいましたけど、お世話になりました」
「あ……いえ、こちらこそ。柿井さんとは仕事しやすかったんで。とても残念ですけど、お疲れ様でした」
「ま、僕は根無し草みたいなところあるんで。またひょっこり別の会社にいたり、意外と弊社と繋がりある事務所に出現したりするかもしれないですけど。そのときはまた」
どこかつかみどころのない挨拶のまま、柿井さんは去って行った。
俺もデスクに戻った後、ふと、頭にはもう一度青葉さんが浮かんだ。
青葉さんが転職したら、この同居同盟はどうなるのだろう? そのまま続くのだろうか?
青葉さんだって柿井さんと同じく転職してきたくちだ。そうでなくとも転職なんて一大イベントでもなんでもない。それなのにどうして俺は、青葉さんとの同居同盟は安心安泰だと思っていたのだろう。基盤はいつだって急に崩れることがある。
実はそろそろ会計事務所に戻ろうと思ってるんだよね――なんて青葉さんが言い始めても、何も不思議じゃない。その転職先が日本橋や丸の内ならまだいい。でも千葉だったら、横浜だったら――青葉さんの地元の岡山だったら。
そのとき、同居同盟は自然に解消される。それだけじゃない、俺は青葉さんを引き留められる理由を持っていない。ただの良き友人が口を出せることじゃない。大学の友人が別の地で就職して離ればなれになるように、ただ別れを惜しんで、それで終わるだけだ。
俺は、それでいいのだろうか。
夕方になっても、そんな悩みは解決していなかった。飲み会があってよかったと思う、仕事は終わらなかったけれど手に着く状態でもなかった。
飲み会後、駅に向かいながらスマホのカレンダーを思い返す。年末にかけて仕事もイベントも目白押しだったせいで、今日の青葉さんは久しぶり……だと思ったら、一応先週の金曜に昼を一緒に食べていた。会社で顔を合わせる機会がなかったとはいえ、どうやら一週間も経っていなかったらしい。
柿井さんと話していて思ったとおり、青葉さんは俺の日常を侵食しまくっている。でもだからってどうすればいいんだ。
とりあえず、仕事納めの日は同居同盟をしたいんだけど、青葉さんはなんて言ってたっけな――。そんなことを思いながら、最寄駅の改札を通った。その数歩先で女性がもたついていた。ちょうど駅員がいるブースの前に立っているので、タッチをミスって精算したか何かに違いない。この時期だと定期圏外に飲みに行くこともあるもんな、と自分のことを考えながら通り過ぎようとしたそのとき、女性の手から財布が落ちた。
あ、やっちまったな――と思ったときには、薄暗いコンクリートの上に財布の中身がぶちまけられていた。金が散らばる鋭い音に、女性が、しまった、と言いたげに狼狽しながら屈みこみ、手袋も外す。途端にカバンも肩からずり落ち、不憫なほどに中身がぶちまけられた。
この寒いのに、気の毒に……。そう思いながら、足元に転がってきた100円玉を拾った。女性に近寄りながら10円玉も拾い上げる。
「こっちにも落ちましたよ」
「え?」
いやいや、そんな驚くことじゃないだろう、と思ったのだが、顔を上げた女性を見て、俺も驚いて言葉に詰まった。
「……直くん」
相原の見た目は、大学4年生当時から変わっていなかった。お陰ですぐに分かった。




