第30話 青葉さんと囚人のジレンマ
青葉さんの部屋に着いたのは、23時過ぎだった。風呂が出るまでだらっと喋り、俺が布団を敷いて、青葉さんが髪を乾かしてベッドに戻ってきたときは、0時半を回っていた。
電気を消すと、ふわ、と青葉さんは欠伸をした。
「いい加減夜更かしし過ぎてるかも」
「こんだけ毎週喋ってるのに、俺達一体何喋ってるんだろうな」
森川なんてユリさんとは会話が続かないと言っているというのに。
ふわ、と青葉さんはまた欠伸をした。こんなに欠伸を連発する青葉さんは見ないので、よほど眠いらしい。寝るか、と声をかける間もなく、青葉さんは続けた。
「なんか面白い話しよ」
「ヤベェこと言い出すじゃん」
「大丈夫、白沢くんにしか言わないから」
「俺相手でもそのフリは駄目だ」
「じゃあ代わりに私が面白い話をするんだけど」
「できるのかよ!」
「友達が彼氏と一緒にお笑い番組を見てたんだって。あるじゃん、観客が任意に数人選ばれて、その選ばれた観客が笑えばクリアってやつ」
「ああ、なんか昔見た覚えある。あれな」
「選ばれた観客の一人がどうしても笑わなかったんだって。で、あえなくタイムオーバ―」
「……うん」
「それを見た彼氏が『なんで終わった後に笑うんだろう、意味ないのに』ってコメントしたらしいよ」
「……それ怖い話じゃねえか」
「そう?」
「そうだよ」
「じゃ別の話をしよう」
「持ちネタ多いな」
「白沢くんの元カノの話でも」
「なんで俺の話を青葉さんがするんだ」
「語りたいの?」
「そんなことは一言も言ってない」
「でもこの間聞いてすごく納得したから、私にとっては最近聞いて一番価値ある話だったくらいある」
「何の話だよ」
「白沢くんはだから彼女がいないのかって」
「そんなその気になればできるみたいな」
「その気になればできるかは知らないけど、その気がない人にできるわけないでしょ。女性は自分に興味ない人に興味なんてないんだよ」
もしかして、最初の頃に俺なら襲ったりなんだりしないと断言されたのは、そういうことか? 俺が青葉さんにまるで興味ないとバレバレだったのだろうか。だったらなぜ同居同盟に誘うのだと、これまた謎である。
「……俺、そんなに興味なさそうだった? っていうかもしかして、青葉さんに何か失礼なことした?」
「いやあ、失礼なことは」
「なんだそのちょっと気になる言い方は」
「最初に私になんて言ったか覚えてる?」
ふふふ、と青葉さんがどこか怪しげに笑った。びしゃっと、俺の背に冷や汗が流れる。俺は実はコンプライアンス違反をしていたのでは。
「……最初って……最初だろ。二年くらい前だろ」
「そう。最初の最初」
「ぜんっぜん覚えてない」
青葉さんに初めて会ったのは、青葉さんが中途で入ってきてわりとすぐだ。コンプライアンス調査の担当になる、と紹介されることが決まって、メールで顔だけ先に知って、例によって「証明写真が真面目過ぎるだろ」と思った。で、実際会って喋り始めるのを聞いて「ああ、仕事できそうだな」と思って……それしか覚えてない、が……。
「青葉蘭香って芸名みたいですねって言った」
…………言われてみれば言った覚えがあるかもしれない。根本的に名前に「蘭」がついてるってスゲェなと思ったのだ。蘭ってなんか壮大な祝いの花らしいとは知ってたし。青葉さんが生まれたときの親御さんの喜びが伝わってきたというかなんというか。
「それは……何ハラですか?」
「青ハラかな」
「要らんボケを挟むな」
青葉さんは素でおかしなことを言う代わりに、捻ったつもりのボケは大体滑っている。一蹴すると、またクスクスと笑い声が聞こえた。
「さすがにそんなこと言ってきたのは白沢くんが初めてだった」
「……ちなみに皆さんはなんて言うんですか?」
「無難なコメントって意味なら何も言わないことじゃない? 現代のコンプライアンスのもとで一番簡単なベストプラクティスは、他人を構成する要素に言及しないことだから」
「確かにそれで傷付く人を減らせるってのは分かるけど、なんとなく味気なさも感じるな」
「ね。まあ正直、転職してきたばっかりでコンプラ意識とかなかったから、全然よかったんだけど。でもあの頃から知ってるよ」
何を、と訊ねる前に、青葉さんは続けた。
「白沢くんはちゃんと社会人をやってて、だから白沢くんなら同居同盟を結べるって」
首筋がじんわりと熱くなっていく。寒い部屋の中で、背中だけが熱を帯びていく。これは毛布のお陰だ、と自分に言い聞かせた。でも心臓が少し早く脈打っていた。そのせいで上手く喋ることができない気がして、黙った。
俺が口を噤んでいる間、青葉さんは何も喋らなかった。時計のない部屋の中では、他には何の音もしない。外から車の走る音が聞こえているだけだ。
青葉さんはまだ何も言わない。俺が相槌を打つのを待っているのだろうか。
「……ちゃんとしてる人、って最初に言ってたもんな」
でも何の相槌を打てばいいのか分からず、適当に返してしまった。
「……ああ」
返ってきた声はいつもより幾分柔らかかった。半分寝ようとしているのだと、そのときに気が付いた。
それからしばらく、青葉さんは黙っていた。寝てしまったのだろうかと思ったのだが、寝息は聞こえない。俺はどうにかまだ話していたくて、頭の中で必死に、青葉さんの興味を引けそうな話題を探した。
「森川は、あの婚活パーティーで会った人と、そこそこ続いてるらしい」
「ああ、あの、営業の」
俺達の徒然なる雑談の中で、森川の話は何度かしたことがあった。青葉さんは相変わらず森川の顔は知らないようだが、俺の仲の良い友達とは分かっている。
「アイツは、気遣いが上手いヤツだから。きっと上手くいくんだろうなと思うし、まあ上手くいってほしいなって思ってるんだけど」
青葉さんが眠ってしまわないように、少し早口になる。
青葉さんからの返事はしばらく止まっていた。でも少しして口を開く音がする。
「……それは恋愛?」
話が噛み合っているのかいないのか、絶妙に分からない返事だった。でも噛み合っていなくてもよかった。青葉さんがまだ話していてくれるなら。
「……青葉さんのいう恋愛が、琴線に触れることだっていう例のあれなら、森川のは恋愛じゃないのかも」
「……うん。……だって、それなら私もできるし……」
「それならって?」
「……適当などこかの、今は顔も知らず、その時になってもプロフィールに書く程度のことしか知らない誰かと、付き合うくらいできる」
思いがけない話の展開に、不意に胸には痛みが走った。青葉さんはその気になればいくらでも誰かと付き合える。今は顔も知らない、俺ではない適当などこかの誰かと。
でも、と反駁のための声を出すと掠れていた。寒いせいだ。そうに違いない。
「……でも、青葉さんは恋愛がしたいんだろ」
「……うん」
青葉さんの声はまだ半分寝ていた。もぞりと、布団の中で頷いた気配がする。
「私は、誰かと付き合いたいんじゃなくて、恋をしたい。……恋と、愛を、延長……なんらかの延長で捉える話は多い。……延長って言う人もいるけど……別。私は別だと思う」
ドカドカと要件をつきつけてくるようないつもの喋り方ではなかった。同居同盟は結んでしばらく経つが、こんな喋り方をする青葉さんを見るのは初めてだった。
「……私は……」
いや、見えていない。俺からは、青葉さんの表情は一ミリも見えていない。ようやく目が慣れてきたこの暗がりでも、青葉さんの顔はほとんど布団に隠れている。目だって閉じていた。
「……青葉さんは?」
まだ寝ないでくれ。そう懇願しながら続けた。今はまだ、眠らないでほしい。
「……もうひとつ……ある……」
寝惚けたような囁き声が、まるで呪いのように密かに、ベッドから床へと降りてくる。もう一つってなんだろう。恋と愛とは別にもう一つある?
それきり、沈黙が落ちた。外からは車の音が聞こえていた。
俺は、今すぐ青葉さんに手を伸ばしたかった。分厚い布団を剥いで、よく分からない薄っぺらいパジャマを着ている青葉さんに触れたかった。
でも、できるはずがなかった。
沈黙は、いつの間にか静寂に変わっていた。俺の中でばかり、緊張が膨らんでいく。
この同居同盟は“距離が縮まった結果、『コイツ、ナシだな』ってなるのも『アリ』である”もの。青葉さんは結婚がしたいのではなく恋愛がしたい――どちらか一方でも相手を好きになるのでなければ、この同居同盟は解消される。
「……囚人のジレンマじゃんか」
隣からは返事がなかった。代わりに寝息が聞こえていた。
朝、青葉さんに「もうひとつって何?」と聞いた。でも青葉さんは首を傾げるばかりで、その答えは分からないままになった。




