〈番外編〉ボンボンショコラを買って帰る朝
今回は、清坂 正吾様主催「くま祭り後夜祭」参加ということで、くろくまくん様にフライングでゲスト出演して頂きました。
旧大陸レグザゴーヌにおける上級ヴァンパイア討伐作戦で聖騎士団への補給支援を担当したオシアンは、一足先に、ヒルダの待つアーケイディア郊外へと帰って来た。但し魔力を使い過ぎたので、人間形態ではなく久し振りに猫の姿で。
「お帰り、オシアン」
出迎えてくれたヒルダが、いつもの五倍は嬉しそうな笑顔でオシアンを抱き上げ、彼の自慢のふわふわとした毛並みに顔を埋めた。
「……ヒルダ、情熱的に出迎えてくれるのは嬉しいのだが、ここは『黒き森の姫君』の邸宅だ。出来ればもう少し、節度を持ってほしいのだが」
オシアンはヒルダを窘めたが、残念ながら、その場にいた淑女たちは、ヒルダの行為を止めも窘めもしなかった。
「その、すみません。伯母上が伯父上を抱き上げるのを見ても、はしたないとは思わなかったものですから……」
ベッキーの屋敷のリビングで紅茶を入れながら、モリーがそう弁解した。それに続くベッキーの言葉は正直過ぎた。
「ちょうど、遠出していた飼い猫が戻って来た時の飼い主みたいな感じだったからね」
オシアンはむくれたが、ヒルダの膝の上で撫でられているこの姿では、威厳ある猫型妖精の王にも、連合帝国の公爵にも見えないだろうな、と自覚してはいた。
ベッキーの世話係兼護衛役も担っているシェーンがまだ帰って来ないので、ヒルダとモリーは護衛として、エズメとローラは世話係として、引き続き、ベッキーの屋敷に滞在する必要があった。
オシアンの部屋もヒルダの部屋の隣に用意されていたが、その夜はヒルダがオシアンを離そうとしなかった。……流石に、彼女はオシアンの魔力が人間形態に戻れるほど回復していないことに気付いていたのだ。
ヒルダの側にいるだけでも魔力は戻るが、直接触れ合っている方が回復は早い。
「ふわふわで温かい。……幸せだな」
オシアンを抱きしめたままベッドに入ったヒルダは、くつくつと笑っていたが、いつしか健やかな寝息をたて始めた。まるで少女のような無垢で無防備な寝顔で。
「……我は君の夫なのだが?」
いや、夫だから構わないのか?
オシアンは最愛の女性の腕の中で首を傾げたが、やがて彼も夢の中へと落ちていった。
翌朝、オシアンの姿は人間形態に戻っていた。魔力も既にいつも通りで、これならば東南亜大陸の神々のところへバターを仕入れに行くことも出来るし、そこから北国の小人のもとへ行って、「樅の木の蜂蜜」と東南亜大陸の胡椒を交換することも出来る。このままいつも通り、朝食を作りに厨房へ行っても良かったのだが。
眠っている彼女もとても綺麗だ、とヒルダの髪を撫でていた彼の心に、悪戯心が湧いた。
彼は最愛の女性の唇に自らのそれをそっと重ね――乱暴に跳ね除けられた後に悲鳴を上げられることとなった。
「……すまない、驚いてしまったものだから。その、大丈夫か、怪我は……?」
ヒルダは赤い顔でオシアンの様子を伺いはするのだが、彼としっかり目を合わせようとはしなかった。
「……身体の方は問題ない」
オシアンはそう呟き、指を一つ鳴らして、魔法で服装を整えた。
「久し振りに『黒熊亭』に行こうと思ったのでね。朝食は自分たちで用意してもらうことになるが」
「……ああ、大丈夫。ヴィーナスがいるから問題ない。ベア兄貴によろしく」
ヒルダの素っ気ない様子を見ているのも辛く寂しく、オシアンはすぐに港町セント・リチャードの『黒熊亭』に向かうべく、床の上に妖精の輪を出現させた。
* *
黒熊亭の主人ベア・ブラック氏は五十代後半と見える筋肉質の男性だが、何処か優しげな風貌をしている。彼はちょうど、店内のカウンター席の向こうにある厨房でケジャリーを仕込むため、大量の玉葱をバターとカレー粉で炒めているところだった。
そこへ、店の扉に付けているベルがカラカラとなった。
「おはようございます、いらっしゃい。ごめんね、まだ仕込み中なんだ。……って、マクユーアン先生?」
彼はフライパンから顔を上げて、その風貌通り、柔らかな声で相手に話しかけたが、それが旧知の人物、オシアン・マクユーアンだったので驚いた。
「すまない、しばらくここに居させてもらえないだろうか?」
五十代後半の外見ながら、女性なら皆悩殺されてしまいそうな美貌のオシアンにそう頼まれては、ブラック氏も頷かずにいられなかった。
「どうぞどうぞ、そこのカウンター席に座って。今玉葱を炒めているところだけど、あと少しでこれをお米と鱈の燻製と一緒に炊くところだからさ、そしたらコーヒーを出すよ」
ブラック氏は一切の妥協をすることなく玉葱を炒めると、それを一口大に切った鱈の燻製や新鮮なグリンピースと共に米と水が入っている深鍋に入れ、蓋をして炊き始めた。
「それで、マクユーアン先生。今朝はヒルダちゃんと喧嘩でもしたの?」
ブラック氏がドリップしたコーヒーを差し出すと、オシアンは、いや…、と首を振った。
「喧嘩というほどでもないのだよ。ただ、彼女よりも我の方が想いが強過ぎて、彼女に負担をかけているのではないか、とは思う」
それは朝から聞いて良い話なのだろうか、とブラック氏は心配したが、コーヒーを口に運びながらぽつりぽつりとオシアンが零す言葉に耳を傾けているうちに、少し安堵した。
彼はケジャリーを炊く火を止め、今度は鍋に四ダースの玉子と水を入れて火にかけた。
「ヒルダちゃんが、先生の猫の姿の方が好きで、人間の姿の方はそうでもないなんて、あり得ないよ」
「……そうだろうか?」
いつになく自信なさげなオシアンに、ブラック氏は頷いた。
「ヒルダちゃんは確かに若い頃から度を越した猫好きだけど。でも昨日、彼女が先生を抱きしめたのは、それだけ心配していたからだよ。ほら、先生も知ってるでしょ?」
ヒルダの前夫であり、エズメの兄でもあったロバートは、ブラック氏の親友の一人でもあった。彼は旧大陸での任務中に人狼に殺害されたのだ。
「先生の魔力が足りないのにも、すぐ気付いただろうし」
ブラック氏は棚の中からボンボンショコラの箱を出すと、中身を幾つか小皿に載せてオシアンに出した。
「どうぞ。これ、うちの店を出て左手の三軒目に出来たお店のなんだ」
それから、彼は穏やかな口調で言った。
「ヒルダちゃんもさ、朝から素敵な旦那様にキスされて、嬉しくない訳はなかったと思う。だけどきっと、とても恥ずかしくなっちゃったんだね。今頃は、先生のことを心配しているし、自分が悪かった、ってしょんぼりしてるよ」
オシアンはブラック氏を真顔で見つめた。
「『熊の神』の千里眼の力か?」
ブラック氏は苦笑した。
「ううん。僕にはもう、そこまでの力はないんだ。でも今の僕の目にもはっきり分かるよ、先生が着てるセーターを見れば」
彼はセーターから読み取れたことをオシアンに教えた。人間形態のオシアンの身長はかなり高い。だから手間がかかるだろうに、その一目一目にヒルダの膨大な魔力と祈りと愛情が込められている、と。
「そのボンボンショコラ、気に入ったらヒルダちゃんに買って帰ってあげて。お店はもう開いてるからさ」
* *
「……お帰り」
個室の暖炉前のソファに座るヒルダの膝の上には、手付かずのかぎ針と毛糸玉。最愛の女性の姿に、オシアンの心は痛んだ。彼女の繊細な心を誰より理解していると自負していたのに。
「ヒルダ、今朝は済まなかった」
ヒルダは少し不機嫌に頬を染めた。それから編み物道具をテーブルに置き、オシアンに抱き着いた。
「仲直りのキスをしたいけど、これじゃ届かない」
オシアンは騎士のように恭しく、ヒルダの前に跪いた。
――暖炉の前で二人の影が寄り添い、重なった。
オシアンとヒルダのすれ違いを書いてみたいとか、オシアンが気兼ねなく相談出来る相手とはどのような人物だろう、と考えているうちに、このようなお話になりました。




