中編
エズメはヒルダを優しく抱きしめ直し、母親が娘に言い聞かせるように言った。
「貴女はいつだって、奪われてばかりだったもの。お母様は貴女たちの成人前に魔女の呪いで。お父様は巨大魔魚の討伐中に。貴女の夫であり、私の兄であるロバートは人狼討伐の最中に。リディアはアイリーン・スターリングの手にかかって。それに、リディアの夫の母親からは、たった一人の姪のヴィーナス・モリーと自由に会うことも禁じられて。だから、これからは欲しいものは遠慮せずに掴むべきだと思うわよ。……まぁ、私と貴女は近くにいると、つまらない喧嘩ばかりしてしまうから、スープの冷めない距離で良いのかどうかはわからないけれどもね」
エズメが最後に付け加えた、茶目っ気たっぷりの一言に、ヒルダはくすっと笑った。
「私が安心して下らない口喧嘩が出来る相手なんて、エズメしかいないよ」
「あらまあ、光栄だこと」
エズメもふふっと笑い、それからヒルダの瞳を覗き込んだ。
「ねえ、聞かせて。正直なところ、貴女はオシアン公のことをどう思っているの?」
そのエズメの煌めく瞳が、数十年前と重なって見えて、ヒルダは苦笑した。
* *
ヒルダは旧大陸での戦いで夫を失い、北部連邦に帰国してから最初の冬を迎えた。
彼女は、妹のリディアに好物のチョコレートを贈ろうと思い立ち、アーケイディアの大通りに新しく出来た、評判のチョコレートショップに足を運んだ。フォスター家の姉妹は、どちらもチョコレートに目がなく、しかも味にうるさかった。評判のチョコレートが実際はどれほどの物か、リディアと二人で吟味してやろう、という気持ちもあったのだ。
「困るのだよ、誤魔化さずにきちんとした秤で目方を量ってくれなければ」
ヒルダが店内に足を踏み入れると、男がそう言っているのが聞こえた。低めで穏やかで、しかも耳が蕩けそうなほど艷やかな声だった。
声の主は、五十代半ばと見える顔立ちの整った長身の男で、どうやら若い男の店員に苦言を呈しているようだった。ヒルダは男を二度見し、そしてぎょっとした。随分と身なりの良い人間の姿をしてはいるが、男が人間ではないことに気付いてしまったからだ。
「君、こちらの先生はチョコレートの権威で、あちらこちらに影響力を持っている方だ。くれぐれも間違いのないように、念を入れてもう一度量り直したまえ」
ヒルダが機転を利かせて店員にそう囁くと、店員はびくりとして秤を調整し直し、もう一度測り直した。
なるほど、店員はどうやら量り売りのチョコレートの重さを少し誤魔化していたようだな、とヒルダにも分かった。
「申し訳ございませんでした」
「二度と間違いのないように気を付けたまえ」
頭を下げる店員に対して長身の男は鷹揚にそう答えると、ヒルダに向かってウインクして見せた。
――これが、オシアンとの出会いだった。
「先程はありがとう、麗しいお嬢さん」
チョコレートショップからの帰り道、先程出会った長身の男が道端のベンチから立ち上がって、優雅な所作でヒルダに一礼した。
「いえ。私は妖精と人との無用な諍いを防いだだけです。特に、お見受けしたところ貴方は高位の御方のようですし」
ヒルダがそう答えると、男はくくっと笑った。
「これは失礼した。貴女のような高貴な魂の持ち主が常人であるはずもない。改めて挨拶を。我が名はオシアン。当代の猫型妖精の王だ」
「これはどうもご丁寧に。親しい間柄でなければ妖精には名乗らぬのが人の習いですので、どうぞご容赦くださいませ」
そう答えながら、ヒルダは内心では緊張していた。相手は高位の妖精だろうと見当はついていたものの、まさか王たる存在が、人間の営むチョコレートショップで自ら買い物をしているとは思いも寄らなかったのだ。
オシアンは頷いた。
「賢明なお嬢さんだ。だが、我らは再び、会うべくして会う運命であるらしい。その時を、心から楽しみにしているよ」
オシアンは再びヒルダにウインクをすると、路上に妖精の輪を浮かび上がらせ、その中心に飛び込んだ。
(気障な仕草が何とも絵になる御仁だったな)
ヒルダはそう思い、父と妹の待つ屋敷に帰った。
その晩、夕食後に話題のチョコレートを口にした姉妹と父の意見は「評判ほどのことはない」ということで一致した。それが、姉妹と父が三人で笑い合った最後のひと時になるとは、思ってもいなかった。
第一沿海州のアンバーコーブという町に、少女の亡霊が彷徨うという屋敷があった。屋敷自体は非常に壮麗で状態も申し分なく、居住を希望する者は後を絶たなかったのだが、その屋敷に移り住んだ人々は例外なく一年以内に死亡してしまうというのだ。
ヒルダがエズメとその他八人の合計十名で、その少女の亡霊を浄化するという任務に回されたのは、父が聖騎士団精鋭部隊を率いて、州連合東南部沿岸へ巨大魔魚討伐に赴いている間のことだった。
「ヒルダ、顔色が悪いわよ」
エズメが気遣うようにヒルダの顔を覗き込んだ。
ヒルダは無言で首を振った。しかし、体調は確かに万全とは言い難かった。旧大陸での戦い以来、月のものが来る二週間前から決まって酷い体調不良に悩まされるようになったのだ。
「この任務が終わったら、早く帰りましょう」
エズメの言葉が、屋敷の玄関で嫌に大きく響いた。
結果を言えば、この時の任務は当初の想定よりもずっと厄介で、エズメの希望通りには行かなかった。
何故なら、この屋敷を支配する少女は亡霊ではなく、少女の姿をした魔女だったからだ。
少女の笑い声が、屋敷のダイニングに響いた。
「とぉっても素敵ねぇ。聖騎士団員の心臓がこんなに手に入るなんて。これで私もやっと『大人』になれるのかしらぁ」
言葉に旧大陸訛りのある少女は、ヒルダとエズメ以外の団員たちを捕らえ、ダイニングの壁に磔にしていた。あまりの光景に言葉を失ったヒルダとエズメに向かい、魔女はとくとくと語った。
団員たちが二人一組に分かれて屋敷内を探索している時に、迷い込んだ地元の子どものふりをして自ら呼び寄せた低級の魔物たちに襲われているように見せかけ、助けようとした団員の護り指輪に込められた魔力を使い切らせて捕らえたのだ、と。
「なんて騙し易いお馬鹿さんたちなんでしょう。おかげで今夜のお食事はご馳走だわぁ」
「ふざけるな!」
ヒルダは怒りに我を忘れ、槌矛に破魔の力を込めると魔女に殴りかかった。
エズメが、ヒルダを援護すべく使い魔にヒルダと自分を守る魔法障壁を張るように命じた。
しかし、エズメの使い魔は現れると同時にガラス細工に変わり、粉々に割れてしまった。少女の姿をした魔女は、エズメの使い魔よりも格上だったのだ。
「無駄よ、私の方が強いからぁ」
魔女は信じ難いほど俊敏にヒルダの槌矛を躱し、使い魔を失った反動で動けないエズメに向かって、その鋭い爪を向けた。
「待て!」
ヒルダは魔女を追うが、突然下腹部に鋭い痛みが走り、動けなくなった。
その気配に気付いてか、魔女が愉快そうに振り返った。
「あらぁ、随分無理をしていたのねぇ。本当は歩くのさえ辛かったんじゃない?」
魔女は余裕のある足取りで暖炉まで歩き、錆びた火かき棒を取り上げた。
「知ってるわよ。聖騎士団員の護り指輪も、武器による攻撃は防げないのですってねぇ」
無邪気な笑みでこちらに近付く魔女。身動き一つ取れないヒルダとエズメ。
――此処で終わりかと思った刹那。
魔女の右腕に、一本のナイフが刺さった。
「また会えて嬉しいよ、お嬢さん」
聞き覚えのある、低くて艷やかな声がした。




