前編
残酷な描写、女性の不妊についての話題などが出て来ます。ご注意ください。
フォスター家の人間の破魔の力は強い。ヒルダの父が結婚当初に望んでいたのは戦士として仕立てるのに相応しい男子だったが、実際に彼が得たのは、ヒルダとリディアの二人の娘だけだった。
だが、父は、娘たちを愛さなかった訳ではない。むしろ二人を溺愛していた。二人を呼ぶ時の愛称が「私の右肺と左肺」と、かなり独特ではあったが。そして娘二人はと言えば、母が「私の甘美な心臓」と呼ばれていたので、それが当たり前なのだと後々まで信じていた。
本心では危険なことなど何一つさせたくないと思いながら、それでも父がヒルダとリディアに身一つでも戦える術を教え込んだのは、そうしなければ魔物に狙われることを解っていたからだろう。魔物にも知能が高いものはいる。まだ破魔の力が弱い子どものうちに害してしまおうと企むものたちから、フォスター家の姉妹は身を守らなければならなかった。
ヒルダが聖騎士団入りを志願した時、当時の聖騎士団長だった父は猛反対した。ヒルダの意志が固いのを知ると、ならば前衛ではなく、せめて守護者になれと何度も言った。入団後も、何度も守護者に転向するように言われた。
何故、そこまで煩いのか、と若かりし頃のヒルダは半ばうんざりしていた。
親友の兄で同じ聖騎士団の仲間だった若者と結婚した後も、早いうちに引退するようにと父から勧告されたヒルダは、とうとう我慢が出来なくなった。
「私の人生を勝手に決めるな!」
そう叫んで、旧大陸に向かう船に飛び乗り、人狼が暴れている戦場へ向かった。
当時暴れていた人狼は一体だけではなく、しかも狡猾なものたちだった。一体は陽動のために分かりやすく暴れていたが、もう一体は協力者の神父のふりをして教会に入り込み、敬虔な信徒を密かに食い殺していた。そして、配下のヴァンパイアを食い殺した信徒と入れ替えていたのだ。
そして、その魔の手はヒルダの夫にも伸びた。
偽神父はある日の黄昏時、慌てた様子で、古井戸に信徒の子どもが落ちたので助けてほしい、と拠点の外で幾度も叫んだ。優しかった夫が、その頼みを無下に出来るはずがなかった。夫は夕食は帰ってから摂ると言い置いて、すぐさま駆け出して行った。
その後の詳細は分からない。だが、偽神父が夫の隙を突いて斧のようなもので、夫の護り指輪を嵌めた利き手を切断した後に殺害したのは確かだ。もしかするとそれは、夫がロープか梯子で井戸の底に降りる途中の、無防備な体勢の時を狙ったのかもしれない。ヒルダの夫は年齢こそ若かったが、ヒルダの父が次期団長にと考えるほどには強かったのだから。
その殺された夫の身体に、悪霊が取り憑いた。聖騎士団員の死体に悪霊が憑くと、並外れて強力なヴァンパイアになる。
結果として、その時任務に就いていた団員たちの半数はそこで殺された。残りの者たちで何とか敵を倒したが、この時に生涯残る傷を負い、引退せざるを得なくなった者も多かった。……そして、この時に負った傷が元で、ヒルダは子を望めない身体になっていた。
病院で目を覚ました時、滅多なことでは泣かない父が、ヒルダに取り縋って泣いていた。そしてその父の後ろでは、親友のエズメが青白い顔で立ったまま、静かに涙を流していた。
* *
ヒルダの戸籍上の名前はヒルダ・ロイドという。しかし結婚後も聖騎士団内では旧姓で通しているので、もしかすると、姪のモリーさえ、伯母に結婚歴があることは知らないかもしれない。
討伐任務中に負った大怪我のため、まだ復帰出来ないヒルダの元に、エズメ・ロイド教授が訪ねて来た。わざわざ北部連邦から妖精の輪を通って見舞いに来た彼女は、ヒルダのかつての夫の妹でもある。
「全く、貴女という人は、いつも無茶ばかりするのだから」
エズメは冷ややかにそう言ったかと思うと、やにわにヒルダを抱きしめた。
「……私の親友、私の義姉さん、報せを聞いて、どれほど恐ろしかったことか!」
「おいおい、落ち着いてくれよ、エズメ。こうして私は生きているじゃないか」
「結果論でしかないじゃないの。オシアン公から伺ったわ。今だって本調子ではないのだと」
エズメは聖騎士団の騎士として第一線から退いた今も、一般人よりはずっと握力が強い。それを引きはがすのはヒルダにも難しいことだった。
「……心配しすぎなんだよ、ボンボンショコラは」
「貴女、まだ解っていないようだけれど、貴女がこれ以上無茶をするなら、彼は必ず貴女を妖精の国へ連れ去って、二度と城から出そうとしないでしょうね」
オシアンは妖精としては寛容で温和で友好的だが、妖精というものは、いざとなれば自分の気持ちを優先してしまう存在なのだ。
「もしそうなったら、私は貴女がすっかり妖精になってしまって、嵐の夜か万聖節前夜にこの世に出て来るまで待っていなければならないでしょうよ。きっとその頃には、私はすっかり百歳のお婆さんだわ」
そう言って拗ねてみせるエズメを見て、ヒルダは一瞬、何も言えなくなった。
五十過ぎの、普段は厳しい教授として知られるエズメが、何故か出会ったばかりの頃の少女に見えたからだ。
「……それはそれとしてヒルダ、貴女は本当に気付いていないのかしら、それとも私の死んだ兄に義理立てしているのかしら」
真顔で突然そう切り出され、ヒルダは面食らった。
「何のことだ、エズメ?」
「貴女、若い頃はそんなに鈍くなかったはずよね。どうして、オシアン公が貴女を愛していることに気付かないの?」
どうやらエズメが冗談を言っているわけではないことは、長年の付き合いで分かった。
「いや、だって種族が違うだろう?」
「猫型妖精が人間の姿になれることも、人間と結婚して子どもを持つ例があることも、知らないはずないわよね。だって貴女ときたらオシアン公に毎日人間の姿で食事の用意をさせているし、貴女が毎年クリスマスカードを送っているアーセン坊やの母堂がオシアン公の妹君だと知っているのだから」
「……確かにそう、なんだが」
ヒルダは自分でも歯切れの悪い答え方だとは思った。
「彼は好みではないということかしら、滅多に見ない美貌だと思うけれどもね。猫の姿も、人間の姿も」
澄ました顔のエズメから、貴女は美男子に弱かったはずよね、と止めを刺すように言われて、ヒルダはぐっと詰まった。
「……もし、彼が私を愛しているとして、彼に私が何を返してやれるっていうんだ」
ヒルダがやっとのことでそう返したのは、随分と間が空いてからだった。
「向こうはそれはもう長生きで、私が側にいられる時間なんてほんの何十年かだ。彼は王だっていうのに、私は彼の子どもを産むことも出来ない」
エズメが肩を竦めた。
「妖精になってしまえば問題ない気もするけれどね」
「そうなったら、エズメにもヴィーナスにも、アンとダイアナにも気軽に会えないじゃないか。さっき、私が妖精になったら嫌だと言ったのは誰だったっけね?」
「そうだったかしら、近頃物覚えが悪いのよねぇ」
エズメがそうとぼけて見せたので、ヒルダはエズメの頬を指で軽く突いた。――少女だった頃のように。
「……私自身がよく解っているよ、どれほど卑怯で欲深いかなんてさ。叶うことならヴィーナスは手元にずっと置いておきたいし、エズメの家とはスープの冷めない距離に家を建てて、アンとダイアナが泊まりがけで遊びに来られるように出来たらどんなに良かったかと思うよ。それで、その家に――」
ヒルダは言葉を止めた。気付いてしまったのだ。
「オシアン公が一緒にいてくれたら言うことなし、なのでしょう?」
エズメが優しく微笑んだ。
「ヒルダ。私は貴女を欲張りだとは思わないわ」




