第二次マリアナ沖海戦後から終戦
第二次マリアナ沖海戦後から終戦
第二次マリアナ沖海戦後、補給を済ませた日本艦隊は、ルーズベルト落選のダメ押しのためトラック諸島とマーシャル諸島の奪還を行った。
航空機と搭乗員を整え補給を終えた機動部隊は、トラック諸島を攻撃し、制空権を確保。
強風改が進出し、制空権を確固たるものにしつつ徹底的に空爆を行った。
次いで艦砲射撃が行われ、大和型戦艦は砲身命数に気を使いながらも砲撃に加わり、堅牢な施設や地下陣地と思しき場所に徹甲弾を打ち込んでいった。
上陸部隊は、米軍の上陸作戦に備えていたマリアナ諸島含む各地の守備隊から抽出し、機動部隊から分派していた小型空母に護衛され到着。
空と海から徹底した支援を受けながら、トラック諸島を奪還していった。
マーシャル諸島も同様の流れで攻撃し、奪還を行った。
米軍はどこかの軍隊とは違い、ある程度の段階で常識的に降伏してくれるので、長引く事は無く大統領選挙前に奪還が完了した。
また、海戦時の人命救助も米軍に知られており、その事も影響したと思われた。
1944年11月。ルーズベルト落選。
これで講和への道が開かれる事になった。
日本では、トラック・マーシャル諸島奪還も大きく報じられたが、国民としては一刻も早く戦争が終わって欲しかった。
そんな中、アメリカ大統領選挙でトマス・デューイが当選し、講和の可能性が高まった事で、日本国民の戦争終結への期待も高まっていった。
この時点で講和した場合、日本はかなり譲歩する事になっただろう。
しかしそこへ大和型戦艦が凱旋。戦意高揚のため各地の港を訪れた。
主砲は砲身命数ギリギリであり、整備や修復のついででもあったようだ。
これにより大本営発表が真実であったと証明され、国民は熱狂。
その力は、ソ連軍を撃退する原動力となっていった。
満州での反撃が始まり、太平洋方面の戦力は最低限に抑えられ、すべて満州に注ぎ込まれた。
海軍の戦闘機が集結した事で、制空権が維持されソ連軍を押し返していき、ソ満国境まで前線を戻す事に成功した。
そこで戦線は膠着し、大統領就任式を迎える事となった。
1945年1月。アメリカと休戦し、停戦・講和交渉に入った。
1945年2月。アメリカと講和成立。ソ連と停戦。
停戦・講和の条件として、満州の中華民国への返還、フィリピンのアメリカへの返還、朝鮮半島の独立などが合意された。
満州国の中華民国への返還や朝鮮の独立は、アメリカが日本に突きつけた最後通牒に近いものであり、アメリカは初期目的を達成したと言えた。
また、ドイツが降伏した段階や、ソ連が対日参戦した段階で日米講和は可能であり、その場合アメリカにもっと有利な条件で講和できたはずだと旧ルーズベルト政権が批判される事になった。
北樺太とグアムは日本の勢力下に置かれた。
朝鮮独立は1960年までに行うとし、実質日本の影響力が残る形となった。
最後の最後で国民の士気が上がり、これだけのものを勝ち取ったと言えた。
その立役者たる大和型戦艦の人気は不動のものとなった。
夢の中の日本では、終戦前に戦争継続を訴える者達がいた。
しかし現実ではそんな者達は出てきていない。
軽く調べてみたら、中国からの転進が始まる頃、中国との戦争継続を声高に叫ぶ者達がいて、戦線縮小に反対していたようだ。
そういった壮年・老年の男性達は、もれなく前線へ招待されたようだ。兵士として。
当然ながら身体はついていかず、駆け足で転進する際に取り残されてしまい、必然的に殿を務める形になった。
戦後に美談として、走れない壮年・老年兵が、進んで捨てがまりに志願した。とされている。
もちろん本当に捨てがまりに志願した壮年・老年兵もいたかもしれないが、ほとんどが違うと思われる。
稀有な例として走れる壮年・老年兵がおり、その中には本当に志願して前線に来た者もいて、終戦まで前線で戦い抜き復員した者達もいた。郷里のちょっとした英雄である。
戦争継続を訴える一部の者達の意見は、前線にいたため封殺され影響はなかったようだ。
新聞記者も例外ではなかったようで、戦争を煽りに煽っていた記者達が、中国転進を非難・批判したところ、前線へ兵士として送られた。
代わりに女性記者が誕生したりして、女性の社会進出が進んでいった。
トラック・マーシャル諸島奪還後から終戦までの米軍との戦いは、主に米潜水艦やB29戦爆連合との戦いだった。
マーシャルまで補給線が延びた事もあり、米潜水艦の襲撃を度々受けていた。
駆潜艇、海防艦、駆逐艦、対潜哨戒機がこれに対応し、対潜哨戒任務に当たる機体には磁気探知機が搭載された。
対潜能力はトラック諸島撤退時よりも向上しており、終戦まで米潜水艦の跳梁を許す事はなかった。
B29戦爆連合との戦いは、大統領選挙直前に大規模な帝都空襲が企図されたが、この頃から日本軍で使われ始めた近接信管内蔵の空対空噴進弾のおかげもあり、撃退に成功している。
近接信管は、高角砲や高射砲弾には組み込めなかったが、噴進弾には問題なく組み込めたため、本土防空戦や満州の制空権確保に大きく貢献した。
満州で反撃できたのも、国民の士気だけではなく、技術的な側面があった事が分かった。
満州での戦いでは、空対地タ弾も用いられたり、海軍で余っていた対艦用の三号爆弾を地上に使用したり、人海戦術に対していろいろと策を講じていたようだ。
遺棄されていたT-34の無事な車体を利用し、高射砲などを載せ自走砲に仕立て上げたりといった現場での工夫もいろいろとあったようだ。
アメリカ大統領就任式の後、アメリカはソ連へのレンドリースを終了した。
本来ならドイツが降伏した段階で停止してもよかったはずだが、ルーズベルト政権は支援を継続していた。
それが終わった事もあり、ソ連は余裕がなくなって日本との停戦に繋がったと思われる。
ソ連は独ソ戦で敗北寸前まで追い込まれていたせいで、戦死者の数はとんでもない数にのぼっていた。
そしてさらに対日戦でその数がさらに増えたため、このままアメリカの支援無く単独で対日戦を戦っても、満州の占領は困難だと判断したのだろう。
満州はいったん中華民国に渡し、以降は中国共産党を支援して、中国の共産化を目指す方向に舵を切ったようだ。
お読みいただきありがとうございます。
終戦です。この世界の日本兵は餓死していません。
牟田口さんが、兵站の神と呼ばれるほど補給を重視し、遺漏無く前線へ物資を届ける話とかあったんですが、うまくまとまらなかったので諦めて省きました。
後2話になりました。ぎりぎりまで推敲しておりますw




