第一次マリアナ沖海戦
第一次マリアナ沖海戦
1943年7月。マリアナに米艦隊が来襲した。
この時期、戦艦戦力でアメリカは優位に立っていた。
新型戦艦6隻が万全の状態で配備されていたのである。
対する日本は金剛型が空母化し、大和型と長門型の4隻体制となっていた。
しかし、大和型3・4番艦が実戦配備される時期が近付いてもいた。
大和型に敗北している米海軍としては、新型戦艦6隻で大和型・長門型の4隻を打ち破る機会でもあった。
空母を掻き集め、占領したトラック諸島の航空機と連携し、戦訓に基づき空母の戦闘機の数を増やし制空権を獲得できれば、日本の戦艦部隊を打ち破れると考えた事だろう。
米機動部隊の戦闘機も最新のF6Fであり、零戦を上回る性能だと自信があった筈だ。
なにより攻勢を急ぐ理由として、ソ連が対日参戦する前に、アメリカ単独で勝利を収めたいというものがあったと思われた。
しかし、これは日本の狙いでもあった。
戦艦の数を減らす事で、米艦隊の早期の来寇を誘う。
アメリカに時間を与えてしまうと、多数の空母が就役してしまい、圧倒的な航空機の物量で、日本が制空権を確保するどころではなくなってしまうからだ。
また、長門型の空母化の準備も整っており、いつでも速やかに空母化できる状況にあった。
マリアナ諸島は、トラック諸島が占領された後から度々空襲を受けていた。
しかし、要塞化が進んでいたため撃退には成功していた。
飛行場の復旧能力も高く、破壊されてもすぐに修復できていた。
掩体壕が多数建設され、航空機の運用に隙はなかったようだ。
1943年7月時点で、紫電改を始め鍾馗や屠龍、強風改など多数が配備されており、万全の状態で待ち受けていた。
海戦は、マリアナ諸島の飛行場を使用不能にするための攻撃から始まった。
多数の艦上戦闘機とトラック諸島より戦闘機に護衛された爆撃機が来襲し、米軍機は多大な被害を被りながらも飛行場に爆撃を成功させた。
マリアナ諸島の飛行場が一時的に使用不能と見て、米軍はトラック諸島の陸上機のみで爆撃を行おうとしたが、水上戦闘機の強風改が多数飛び交っており、一方的な爆撃を行う事はできなかった。
ちなみに米機動部隊やトラック諸島の米航空機は、ウェーク島やマーシャル諸島などの後方から続々と補充の機体が送り込まれており、損傷した機体は躊躇無く廃棄し、後方基地より送り込まれた新しい機体を潤沢に使用できていたようだ。
海戦前、日本の潜水艦が米艦隊の出撃の情報を掴むと、日本艦隊は硫黄島とサイパン島の間の海域に待機し、米艦隊がマリアナ諸島へ来襲すると確信してからは、迎え撃つための行動を開始していた。
米機動部隊の艦上戦闘機とトラック諸島の戦爆連合がマリアナ諸島を攻撃した時点で、基地航空隊の偵察機が米艦隊の位置を特定。
攻撃可能圏内にまで進出して来ていた日本の機動部隊は第一次攻撃隊を送り出し、先発していた偵察機の彩雲が米艦隊の全容を掴んでから、米機動部隊に向け第一次攻撃隊の進路を修正。
先手を取ることに成功した。
米機動部隊も多数の戦闘機で迎え撃ったが、新型艦上戦闘機烈風の洗礼を受ける事となった。
しかも、米戦闘機よりも多数の烈風が襲い掛かり、質でも量でも米戦闘機は劣勢だった。
烈風が迎撃戦闘機を押さえ込んでいる間に、爆装した彗星と流星が急降下爆撃を、雷装した流星が雷撃を行った。
先ず米機動部隊の輪形陣を乱し、次いで空母への攻撃を成功させ、空母の離着艦能力を奪う事に成功した。
第二次攻撃隊も多数の戦闘機が随伴しており、攻撃隊はトラック諸島から駆け付けた米戦闘機に煩わされる事なく米機動部隊を蹂躙していった。
第三次攻撃隊は、やはりトラック諸島から来た護衛戦闘機を直掩機が蹴散らしつつ、トラック方面に撤退中の米戦艦部隊に損傷を負わせた。
速度が落ちた米戦艦部隊を、日本の戦艦部隊が追撃。
お互いの戦艦部隊の上空は、常に護衛の戦闘機が付くという状況でもあった。
戦闘機の数は日本側が圧倒しており、トラック諸島から日本の戦艦部隊に航空機が飛来してもすぐに撃退できていた。
戦艦同士の距離が縮まる中、日本の機動部隊もトラック諸島に近付いており、攻撃可能圏内に入ったところで、第四次攻撃隊をトラックに向け放った。
戦闘機だけは大量に稼動しているので、戦闘爆撃機として放ち、少数だが稼動可能な彗星、流星も攻撃に加えた。
米迎撃戦闘機には爆弾を投棄した一部の烈風が応戦し、トラック諸島にある飛行場や施設の破壊に成功し、艦隊決戦時の制空権は完全に日本のものになった。
艦隊決戦はまず水雷戦隊が露払いを行い、米戦艦部隊に大和型と長門型の4隻が追いつき、やはり射程の長い大和型から砲撃を始めた。
長門型も砲撃を始める頃には、米戦艦部隊の数的優位は無くなっていた。
また、航空攻撃で艦隊決戦前から損傷していたのも影響し、またも大和型が決定打を与えていき、艦隊決戦に勝利した。
今回の海戦に参加した日本の艦上航空機のうち、七割が戦闘機だった。
また、今回も艦爆艦攻の損耗は激しく、防弾を施した流星ですら予想を上回る損害を被った。
原因はVT信管にあった。
米艦隊の高角砲弾による損害が、以前よりも大きくなっていたのだ。
このため、より損害の大きくなる急降下爆撃は行われなくなっていった。
ちなみに雲龍型空母は、1番艦から4番艦まで参加していた。
5・6番艦は完成間近だった。
雲龍型の3番艦以降は、全く同じ構造と兵装であり、交代で訓練する事で早期の実戦参加が可能なように計画されていた。
海戦が終わり、長門型もまた次の海戦を早めるため、空母化していった。
大和型4隻と長門型2隻で、アイオワ級とモンタナ級を相手取るのは、さすがに無理があっただろうし、モンタナ級が実戦配備される頃には、手が付けられないほど米空母の数が揃えられ、米機動部隊の航空戦力が圧倒的になり、艦隊決戦前に航空攻撃で戦艦が沈められる可能性すらあった。
そういった理由から、長門型が空母化していったと考えれている。
でなければ日本の誇りとまで言われた長門と陸奥を、あっさりと空母化する筈が無かった。
お読みいただきありがとうございます。
長門型を空母化して一番悲しんだのは、もちろん大鑑巨砲主義者達でしょうね。
この世界では長門型の空母化のエピソードだけで、映画が一本作られそうな気がしますw




