思い出のアルバム【1】
幼稚園の以来、久しぶりに出会った女の子サヤと楽しい一時を過ごしたシン。家まで送った時に、待っていた父親は、以前シンが助けた会社経営者だった。
そんな偶然も楽しみつつ、帰路につくシン。
シンは今は亡き両親のことを思った。
まさかサヤちゃんのお父さんが、いつぞやの自殺志願者のお父さんだったとは。いやー、世間は狭い。毎日毎日仕事行って風呂入って、ごはん食べて、寝るだけの生活だったから、それに比べると今日はなんか色々あった1日だった。
サヤちゃんかわいかったなぁ…それに話しててというか、一緒にいて楽しかった。なんていうか、ドキドキするっていう気持ちよりも、なんか落ち着くっていう感じだったな。
どうしても、色んな種類の心の声をいつも聞いていると、自分の心が消耗していくのを感じるんだ。前に話したようなご飯のこととか、楽しい声ばっかりならいいんだけど、どうしても普段に表に出してない気持ちというのはネガティブなほうが多いみたいで。
もちろんボリュームしぼったり、調整できるようにはなってるからまだ小さい頃よりは全然マシなんだけど、どうしても気になる時もあるからね。
帰りはサヤちゃんとファミレスでゆっくりしたのと、帰りも送っていって、それから僕の家までそこまで遠くはないとはいえ、歩いて帰ったのでまぁまぁ遅くなってしまった。でも、1日充実した感じがしたのと、明日は仕事も休みなので(これが1番でかい)ゆったりした気持ちで家に着いた。
サヤちゃんと、人の良さそうなお父さんと接したこともあってか、なぜか3年前に亡くなった両親のことを思い出した。交通事故で急だったのと、元々離れて暮らしてたこともあり、もちろんショックではあったんだけど、僕の日々の生活が変わってしまうほどのことではなかったのだ。
こう言うとすごく僕が冷たい人間に思えてしまうんだけど、結局親って、その子供が大きくなるまで、というか自分で仕事をして稼いで、1人で生活ができるようになるまで、金銭的に、もしくは精神的に、養ってもらうような、そういう役割りはあるんだけど、一生関わっていくかというと、そうでもなかったりすると思うんだ。
たとえばその子が結婚をする。子供ができる。引っ越しをして遠くにいく。その家庭によってとか、性別によっても関わり方は変わると思うけど、ほとんど関わりがなくなったとしても、それがとても冷たいことかというと、お互いに普通に暮らせているなら、それで良い場合もあるのだ。
僕と両親の場合は、僕がその能力のために、僕から離れていったことも大きいかもしれないが、両親の方も、小さい頃から何かしら物事を見透かしたような僕の態度みたいなものに、何か気持ち悪いものを感じていたこともあると思う。
現に3年前に両親が死んでしまったあとも、恩返しをできてなかったり、思ったより会話や、やりとりができなかったなと、多少の悔やみはあったものの、数ヶ月もすれば、意外と普通に日常生活に戻ってしまったりしていた。その原因には両親の残したものはほぼ全て処分してもらったこともあるかもしれない。住んでいた家だとか物だとか。
人の記憶、もしくは思い出というのは、言葉や映像などもそうだけど、場所…というか景色であったり、曲だったり音楽みたいなものに宿っていたりもすると僕は思っている。そういうものがほぼ全てない状態であれば、思い出すということ自体、なくなるのだ。
ただひとつ、僕が残した親との思い出は、1冊のアルバムだった。僕が赤ちゃんの時から中1くらいまでくらいの写真かな、なぜ高卒の18歳くらいまでないかというと、12〜13歳くらいになると僕が写真を撮られるのを嫌がったからだと思う。で、その1冊のアルバム自体も両親の事故死の後、まぁアルバムくらいならかさ張ることもないかなと置いといたんだけど、結局この3年間、一度も開いたことはない。
シンくん冷たっ!て言われそうだけど、まぁ自分でも少し思うんだけど、結局そんなもんなのかなぁ。でも、今晩、急に思い出したのは、やはりサヤちゃん親子に出会ったことで、何かしら親子のやりとりというか、そういうものを考えてしまったからかもしれない。
帰って、風呂にはいったあと、アルバムをめくってみた。手にふれた時、ほんのりあたたかい気がしたんだけど、風呂あがりだからかなと気にしなかった。1ページ目を開くと、僕が写っていた。正確に言うと僕の赤ちゃんの時の写真だ。めちゃくちゃ泣いててサルみたいだ。
その時。アルバムがほんの少し。淡く優しく光りだした。




