8
ふと気づいたら、そこは病室じゃなく、見慣れないどこかの部屋だった。天井からは豪奢なシャンデリアがぶら下がっている。
まるで豪華な五つ星ホテル。スイートルームような雰囲気だ。窓にかかっている重厚なカーテン、壁に据えられたタスペトリーにアンティークっぽいランプ。視界に入る調度品のどれもが素晴らしく、芸術に鈍いわたしにも、どんなに高い値打ちであるものか想像がついた。
――ここ、どこなんだろう。わたし、何をやって……。
わたしはベッドの上に寝かされていた。おでこには濡れタオルが乗せられていて、体にはタオルケットを掛けられている。
どうして自分がここにいるのか思いだそうとしたけれど、ひどく胸が痛い。断片どころか、頭の中からがすっぽりと記憶が抜け落ちたみたいで。どのような経緯を経てこの部屋にいるのか思いだせない。
待って。あわてないで。こういうときは、あわてたらダメだ。
落ち着いて、ひとつずつ思い出そう。
えーと。ヒカルと待ち合わせしたことは覚えてる。それから、素敵な男性店員と話をして、そうしたら変なあの子、ピカピカ光った羽を背中にはやした少年が急に目の前にあらわれて――。
そうだ、あの子! あの子に変なことをされたんだった!
「イタ……!」
ズキンとひときわ大きく胸の痛みが走った。ハッと胸に手をあてる。彼の手に貫かれたというのになんともない。
と同時に、わたしはすべてを思いだした。
――ミズキ。ミズキは?
たった今、病院のベッドで抱き合っていた。熱い涙を肩に感じていたというのに、もう痕跡がない。わたしの身に着けている衣服は乾いたままだ。しかも制服じゃなくて、ヒカルとの待ち合わせのために着てきた薄いワンピースだ。
コチコチと時計の音がする。ヒカルとの待ち合わせの時間を一時間過ぎていた。
なんだったんだろう、あれ、全部夢だったの? それに、あの言葉は――。
あの不思議な声は、わたしのものだった。わたし自身が言っていたんだ。
『好き。本当は、わたしもヒカルが好き。だけど、どっちかなんて選べない。ミズキが大切だから、絶対に本当のこと言わないよ』
夢とは思えないほどの現実感。すごく、すごくドキドキして痛い。
思わず、膝を抱えてうずくまった。
――バカ、バカ、バカ! どうして思いだしちゃったの。あの誓いの言葉を思いだしてしまったら、ミズキに許してもらえない。ヒカルにだって会えないよ。
「どうして思い出してしまったの……」
「そんなの決まってんじゃん。おまえが望んだからだ。だから、オレ様が解凍してやったんじゃないか」
「だ、だれ?」
伏せていた顔を上げる。ソファの端に、あの金ピカ少年がすわっていた。足を高く組み、いぶかしげな視線をこちらに向ける。
「だれとは、お世話さまだな」
彼はムッとした。
「まったく、金ピカとは失礼なお嬢ちゃんだ。おれ様の名前は、ちゃんとある。まあ、もっとも下界用の名であって、真実の名ではないけどな。聞いたって、どうせ人間には発音できないだろうし」
悪びれずに、くちびるの端を上げて笑う彼。なんだか人を小馬鹿にしたような口ぶりだ。その尊大な態度に、思わずカッとなる。
「下界用でも、真実用でも、どっちでもいいから名前を教えて。名前がないと不便なんだもん」
わたしも負けずに言い返す。そうしたら、彼はソファから立ち上がり、歩いてこちらに近づいてきた。
――え、何?
わたしがびっくりして、おろおろしているうちに、彼はゆっくり片膝を床について、うやうやしくわたしの手をとった。
「マドモアゼル。あなたへの敬意のしるしに祝福をさずけよう。我が名は、近しい者たちにはアッシュと呼ばれている。位はアークエンジェルだ」
彼の口調は大人びたものへと変わっていた。やけに時代がかった話し方だ。
「え、何?」
戸惑って手を引っこめる。ううん、引っこめようとしたけれど、彼は許さなかった。手を離さないどころかグッと引き寄せ、わたしにくちびるを押しつけてきたのだ。
ひゃっ!
き、キス! キスされてる……!
あまりにも突然のことに、頭の中が真っ白。
何も抵抗することなく、彼のくちびるを受け入れてしまった。
「よし、これでいいぞ。もう二度とフローズン・ワードができることはないだろう」
くちびるが離れると、アッシュは優雅に微笑んだ。彼に握られた手の力が緩む。わたしはとっさにパッと自分の手を取り戻した。
「おびえているのか? 怖がらなくていいんだぜ」
「で、でもっ!」
そんなことを言われたって、怖いものは怖い。
もし本当に。
こんな考え、おかしいに決まってるけど。
本当に、このひとが天使だとしたら。
よけいに怖い――。
口の中に溜まった唾を飲み込む。
しばらく無言でいたら、
「まいったなあ」
アッシュはポリポリと頭をかいた。
「たく、キスぐらいでそんな顔をするなよな。襲ったりなんかしないって。これには性的な意味はまったくない。祝福のキスなんだぞ」
せ、性的……?
じょ、冗談!
「だったら、いきなりしないで。前もって説明があったら……」
「おとなしくキスを受けたか?」
「ええっ!」
彼の問いに、ブンブンと首を大きく振って答える。
アッシュは、声を出して笑った。
「面白いやつだな。気に入ったぞ」
「そっ、そんなの困る!」
「ふうん。なら、もっと困らせてやろうかなー」
ギシッとベッドが軋んだ。アッシュの片足がベッドの縁に乗っている。
まさか。
不安が頭をよぎった。
「じょ、冗談だよね?」
いくらなんでも。仮に天使さまと名乗る人が、こんな乱暴なこと……。
アッシュの端正な顔が間近に迫ってきた。彼の青い瞳が妖しく光る。
「冗談じゃなかったら?」
「そ、そういえば!」
彼の気をそらそうと、わたしは言葉を繋いだ。
「君、さっきわたしの心の中をのぞいたんだよね。そうなんでしょう? 金ピカだなんて、わたしひと言も言ってないんだもん」
「人間にしては飲み込みが早いな。そのとおりだ。おまえの心の中を読ませてもらった」
やっぱり!
「ちょっと! わたしの心は土足厳禁なんだよ。天使さまかなんだか知らないけど、謝って!」
アッシュは身を起こし、ひゅうっと口笛を吹いた。
「おどろいたな。ああ、まさしく、そうだ。おれ様はおまえの心にふれた。だけど、少し違うな。解凍したのは記憶じゃなくて、言葉の方なんだ。記憶までよみがえったのは、いわゆる副作用というやつだ」
「副作用?」
「言葉には念が強く残る場合があるから……」
彼の顔に影が帯びる。
「念……?」
変なことを言う子だな。
でも、わたしはすでに理解していた。そう、これは普通じゃない。わたしの身に普通じゃない出来事が起こったんだ。
アッシュは話を続けた。
「人は誰でも、凍らせてしまった言葉、フローズン・ワードがある。それを見つけて、この世によみがえらせ集めるのが、おれ様たちの目的だ」
「フローズン・ワード? そんなの聞いたことない。なんのために?」
「知らないのはあたりまえだ。人間はフローズン・ワードの存在を知らない。おまえら人間は好奇心が強すぎるから、世界の理のすべて知ることは許されていないんだ」
「だけど今わたしが知ったじゃない。ぺらぺら話して教えたのは、君でしょう? こんなことしていいの?」
「そうなんだよなあ。普通の人間ならば、おれ様たちのことやフローズン・ワードを思い出すことはない。すっきりとした顔でメシ食って、家に帰るだけっていうのに。こっちが訊きたいぐらいだよ」
「何が言いたいの?」
「いや、別に。深い意味はない。おまえが、へんてこりんな人間であると証明されたけだ。気にしなくていいって」
アッシュは立ち上がり、部屋のドアのところまで行った。そして振り向く。「ああ、そうだ」と声をあげた。
「おまえの連れが来ていたぞ。あの、ヒカルとかいうやつが。さっきからずっと待っててうざいから、はやく行けよ」
「えっ、ヒカルが?」
「記憶がよみがえった今となっては、伝えたい言葉があるんじゃないのか? 言っとくけど、今回だけは特別だからな。ほんとだったら、おまえの記憶ぜんぶ奪っちまうところだったんだぞ。おれ様に感謝しろよ、アカリ」
そして、パタンと扉がしまった。




