第7節:現実は非情
後に残った静寂を破ったのは、肉を叩くニブい音。
我に返った冬子は、気付けば順次の頬を平手で打っていた。
「―――ッッ!」
精一杯の怒りを込めて睨みつける冬子に、順次は普段通りの視線を返して来た。
わざと避けなかったのだろう。
それくらいは、冬子にも分かる。
だが、それで許せるかどうかとは、別の話だった。
目の前の男は。
一人の、生きていた少女を見捨てたのだ。
「死霊、という存在はな」
順次が、静かに言う。
「他の全てを捨て去れるほど、一つの想いに凝り固まった存在だ」
早くも赤く腫れ始めた頬を、順次は喋りにくそうに動かした。
「あいつには、もう薄絹しか見えていなかった。その想いを遂げさせてやって、何が悪い?」
もう一度。
冬子が怒りのままに振り上げた腕を。
掴んだのは、じっちゃんに解放された春樹だった。
「ちょっと落ち着きぃや、トーコ」
ぶんぶん、と冬子は首を横に振る。
だが、聞き分けのないだだっ子のような冬子に、順次がさらに言葉を投げる。
「梅咲。お前の友人は良くて、ノブはダメなのか」
冬子の動きが止まる。
「生霊になったお前の友人は、駒道に復讐を遂げたんだろう。だからこそ、生きて戻ってこれたんじゃないのか」
冬子が揺れる瞳で順次を見上げると、順次はポケットからタバコを一本抜き出した。
「だったら、死霊になったあいつにも、想いを遂げさせてやって、何が悪い? 生きていれば許されるのに、死んでいたら許されないのか?」
冬子は、首をかすかに横に振る。
サエは。
駒道を殺しはしなかった。
ヒドいことはしたが、殺しまでは……。
「春樹がいなければ、お前の友人も奴を殺していた。ノブは、肉体がすでになかったから死霊になるしかなかっただけだ。自分に残された遺骨を喰って、あいつは俺のところに来た」
順次は、煙を吐いた。
「そして言った。邪魔をするな。愛しているんだ。―――でも、俺を殺してくれ、とな」
彼は、真っ向から冬子の目を見る。
「一体、何が違う?」
駒道と、まとい。
サエと、ノブ。
でも。
―――サエは、駒道を襲おうとしながらも、私のことを守ってくれました。サエは、ノブさんとは違う!
冬子の心の声は、春樹以外には聞こえない。
春樹が順次にそれを伝えるが、順次は揺るがなかった。
「何も違わない。死霊や生霊の行動は、全て想った相手に起因しているものだ。お前の友人もそうだ。梅咲を守ったわけじゃない。自分の男に近づく女を、ただ、追い払っただけだ」
冬子は、否定したかった。
そうじゃない。
サエは、そんな人間じゃない。
でも、冬子には否定出来るだけの何かが、ない。
サエがそんな人間じゃないと、確かに思っているのに。
「お前は、何も知らない。死霊のことも……春樹のことも」
順次の宣告に。
「せや。トーコは何も知らん」
同意したのは、冬子の肩を支える春樹だった。
だが、それはとても優しい声音だった。
それまでの、まとわりつくような負の空気を払うほどに。
「でもな、知らんことは悪いことちゃう。最初は、誰も知らんねや。悪いのは知ろうともしないことや。せやろ?」
冬子は、涙のにじんだ目で春樹を見る。
春樹はいつもの人なつこい笑みを返してくれた。
大丈夫、と、言われたようで。
す、と肩の荷が下りる。
「なぁトーコ。順次のいうことはもっともやけどな。一つ忘れたあかんのは、人間には表もあれば裏もあるっちゅ〜事や」
順次は春樹の言葉に、紫煙をくゆらせながら顔を背ける。
「確かに、サエのやったことは一面ではそうや。コマッチを独占したくて、トーコを邪魔やと思っとったかもしれん」
でもな、と。
「コマッチのやったことを、サエは知っとった。やから裏では、これ以上コマッチに誰かを傷つけさせない、と思っとったかもしれんねや」
冬子は、目をまたたいた。
「それかて、立派なコマッチに対する『想い』やろ? 目に見える行動は一つでも、解釈は人によってちゃう。ホンマはどうなんか、なんてことは、実はどうでもええねん」
春樹は、順次に目配せした。
冬子も目を向けると、順次は軽く息を吐いた。
「悪かった。言い過ぎた」
「順次は、ツレの事になるとアツなるからなぁ」
冬子は、どうしたらいいか分からなかった。
サエのことは、確かにそうかも知れない。
でも、まといとノブは。
「あの二人も、一緒やよ。トーコ」
いつもみたいに。
想いを先回りするような、春樹の言葉。
「思い出すんや。昨日一日聞いた、ノブの顔を。ノブを信じた、順次の言葉も」
冬子の肩にかけた手に力を込め、春樹は冬子を振り向かせた。
「ノブは、人を傷つけるような奴やと思ったか?」
冬子は、即座に首を横に振った。
だが、それを言うならサエも、人を傷つけることを好む人じゃなかった。
「サエは、誰も傷つけないように、コマッチを止めようとしたんやろ? なら、ノブかて同じなんかもしれん」
春樹は、まといの消えた床を指差した。
そこで起こっていることを見て、冬子は息を呑む。
水面が揺らめくように空間がたゆたい、そこにうっすらと、まといの姿が浮かんでいた。
穴の底の方で目を閉じて、気絶しているように見える。
彼女は、青い燐光に包まれていた。
そんな彼女を抱き上げるようにかかえて、ノブが立っていた。
俯いていて、顔は見えない。
まといの体から黒い何かが染みだし、青い燐光と混ざっては空中に拡散して行く。
毒を、吸い出している?
直感的に、冬子はそう感じた。
でも、何故?
「まといは多分、プッシャーにクスリづけにされとったんや」
春樹の言葉に、冬子の中で全てが繋がった。
死霊になってまで、まといに執着したノブ。
彼が、プッシャーの体を奪ったのは何故なのか。
その体と、死霊と化すことで得た力を使って、何をしようとしていたのか。
全ては。
「惚れた女をクスリから解放するために死霊になった、てェことよ」
悪滅道のじっちゃんが、冬子の横で一緒に穴を見下ろしていた。
「それを知ってたから、俺ァ、手ェ貸したのさ」
穴の底でまといに与えられているのは。
恋する少年の、見返りを求めない贈り物なのだ。
「死霊、なんて言葉は悪ィけどな。裏を返しゃ人間の魂なんだからよォ、そう悪ィことばっかりでもねェってことさ」
冬子はうなずいて、堪えきれずに涙を流した。
無性に悲しく、でも、心のどこかで暖かさも感じていた。
春樹は、やれやれとソファに腰を下ろしたフミに言う。
「フミちゃん。そいや、依代やったプッシャーは?」
「生きとるよ。ただ、憑かれてた時間が長かったせいで狂っとる。もう元には戻らんやろな。病院の前に放り出しといた」
フミの言葉に、冬子は複雑な気分になるが……今回の件で唯一の悪者だ。
まといと、ノブと。
もしかしたら駒道の人生も、狂わせた相手だ。
同情する気にはなれなかった。
結局、自分と周りさえ良ければそれで良いのかもしれない、と自分の現金さに呆れた冬子だが。
「人間なんて、基本的にはそんなもんやで」
という春樹の言葉に、そうかもしれない、と思い直す。
「さて、と」
穴の底から、ゆっくりと浮き上がってくるまといを見て、春樹が首を回した。
「最後の仕上げや」
それを受けて、順次が吸い終えたタバコを灰皿に捨てた。
彼は、まだ左腕に青い文字をまとい、瞳を赤く染めている。
なんだか不穏な空気に、冬子は周りを見回した。
春樹が笑みを消し。
じっちゃんは悟ったような半眼。
フミが目を伏せて前髪で顔を隠し。
順次が、まといを救い上げてソファに横たえる。
そして、言った。
「今から、ノブを殺す」
何故、と冬子は春樹に目で問う。
春樹は淡く微笑むだけで答えなかった。
順次が振り向くと、《異界》の穴から透けた少年が姿を見せたところだった。
「ノブ」
順次の呼びかけに、ノブは困ったような顔で笑った。
『約束、ダ。君ノ手デ……』
その想いを聞いて。
横で見ている冬子にも分かった。
彼は、ひどく飢えている。
力の消耗の代償として、存在そのものが薄れている。
今すぐ誰かに憑かなければ、消滅してしまうほどに。
そして。
関係のない対象に、無差別に憑くようなことになれば。
きっと、彼はもう、まといの事だけを想い続けた彼では、いられないのだ。
表と裏、というのは、そういう意味なのだろう。
望んだ力を得た代償は、決して軽くはない。
「…………ああ」
ひどく間を空けて、順次は返事を返した。
左腕をかかげ、静かに言う。
「〝招来〟」
言葉とともに。
順次の文字列が赤く染まり、左腕が変質した。
手首までを覆っていた文字が肘の先まで広がり、その皮膚をも赤く染める。
ツメが鋭く伸びて指先と一体化し、鋭く引き締まるのと対称的に、前腕が膨れ上がった。
鬼の腕。
異形の腕から、離れていても伝わる《異界》の熱気を感じる。
順次は何かに耐えるように待つノブに対して、異形の指先を向けた。
それは、まるで聖域で行われる祭事のごとき神聖さを伴っていた。
「ッ!」
順次は、爪先で一息にノブの胸を貫いた。
貫かれた場所から、炎のように赤い光が燃え、ノブの体を喰い尽くして行く。
「悪かった、ノブ」
まるで、自分が燃えているかのように苦し気な顔で順次が言うと。
灼けて行くノブは再び困ったような顔で笑い、首を横に振った。
彼は。
最後に、自分が救った少女の横顔を見て。
満足そうにうなずいて、逝った。




