8 無明
「取ってこい!」
「ワウワウッ!」
「噛み付け!」
「ワウッ!」
犬のスウは私の指示に従い、庭園内を縦横無尽に走り回っている。
私は汚れてもいいように綿のドレスを着ると、用意した棒を使って、散歩と称した特訓を密かに行っていた。その日もスウにたっぷりと運動をさせ、暗殺に役立ちそうな項目を教え込んでいく。
暗殺術を教え込んでいると気がつかれないように教育するのは骨が折れるが、スウの飲み込みが早いので自然と指導にも力が入る。
気が付くとスウが荒い息を繰り返していた。少々のめり込み過ぎたようだ。
「よーし、頑張ったわね、スウ! 喉が渇いたでしょ。今、水を持ってくるからここで待っていて」
私は屋敷の使用人に大きな皿に水を入れてもらい、再び庭に戻る。
するとスウの鳴き声が聞こえたので、不審に思い、離れた立木からこっそりと覗く。そこには、ジュールの姿があった。
まだ軍の訓練所から帰ってくる時刻ではないはずだ。私は秘密の特訓を見られたかとヒヤリとした。だが、ジュールが着替えていないところを見ると、帰ってきて屋敷に入らず、門から直接こちらに来た様子である。
きっと大丈夫だと深呼吸をして私は隠れたまま一人と一匹を観察した。
一体、何をしているのだろうか。角度的に表情は見えないけれど、スウをじっと見つめているだけに見える。
もしかして、犬嫌いが高じてスウに暴力を振るうつもり? まさかいきなり斬りつけたりはしないわよね? ああ、スウがジュールに近付いて顔を擦り付けようとしている。そんなことしたら……!
飛び出そうとした私は、ジュールの言葉で足を止めた。
「こら、懐くな。ヨダレが付いただろうが」
それは悪態にも聞こえるが、声はひどく優しい。そして手を伸ばして、スウの頭をぐりぐりと撫でている。スウは嬉しそうにしっぽをぶんぶんと振った。
もしかして、犬が苦手なんじゃなくて、本当は大好きなんじゃ? 近付けるなと言ったのは、犬にデレデレしている自分を見られたくなかったから?
ふん、どんなニヤケ顔をしているのか、見てやろう。
「ジュール、おかえりなさい」
突然話しかけても、ジュールは驚かない。とっくに気配に気付いていたのだろう。私が彼の顔を見上げた時には、普段のままのしかめっ面みたいな表情だった。
私は最大限の笑顔で尋ねた。
「こんなところで何をしていたの?」
「業務の途中で立ち寄っただけだ。自分の屋敷の庭にいて、何か問題でも?」
「もちろん、問題ないわ。あなた、犬が苦手なんじゃなかったの?」
「苦手ではない」
わざと追及してみたけれど、ジュールは犬好きを認めなかった。
バレてうろたえる姿が見たかったのに、残念だ。
「お待たせいたしました、ジュール様」
ハリウスが運んできた手荷物を、ジュールが受け取る。忘れ物か何かだろう。普通なら誰かに持ってこさせるものなのに、自分で取りに来るとは。つくづく変わった男である。
「まあ、好きなだけ励め」
ジュールは口の端を歪めた。特訓のこともお見通しなのだ。
はがゆい思いをしながら、私はスウの頭を撫でる。
再びジュールが出掛けた後、水を飲むスウの背中をブラッシングながら、私はふと思った。
犬好きをアピールして油断させようと思っていたのに、これって逆じゃないだろうか、と。ジュールは私が見ていることを知っていて、スウを手懐けていたのかもしれない。だとしたら、危うく騙されるところだった。動物好きに悪い人はいない……ジュールにそう思わせようと考えていたのに、まさか逆手に取られそうになるとは。
私は騙されない。あの男は残虐な男なのだ。戦場では敵に対峙した瞬間にその命を奪うと聞く。命乞いする間も神への祈りを捧げる間も与えない、血も涙もない男。まさに死神の呼び名がふさわしい。
――私は決して騙されない。
だが、今身につけているものも口にしているのも、全てジュールのお金だ。暮らすだけなら何不自由ない待遇を受け、私はひどく居心地が悪くなってきていた。日が経つにつれてジュールが傍にいることに慣れもしてきた。ひどく危険だ。感謝なんて絶対にしてはならない。馴れ合ってはならない。ジュールは両親の仇なのだ。
その日の夕方、私がスウの毛を梳いていると、何とも言えない獣の叫び声が聞こえた。動揺したのか、途端にスウが部屋の中をぐるぐると走る。
一体何が起きたの!?
私は声の正体を探すためにバルコニーへと出る。すると厨房の方の庭で何か作業をしているジュールの後姿が見えた。
私は安心させるようにスウを撫で、部屋を出て厨房へ向かう。
すると、ジュールの傍には絶命したばかりの豚が横たわっている。屠殺したのだろう。命乞いも神への祈りも許さない死神なのに、絶命の声は許すのか。不思議な男だ。
「来たのか」
「そりゃ、あれだけ大きな声が聞こえたら何事かと思うじゃない。おかげでスウが怯えているわ」
口調が今までと違って少しくだけさせる。犬好きと知って心を許した、と相手に思い込ませる作戦だ。ジュールの方も最初の頃よりはだいぶ口調が柔らかくなってきた気がするが、それもこちらを油断させる気かもしれない。
私は十分に距離を取った上で手元を覗き込んだ。
「向こうに行ってろ。若い女にはむごい光景だろう」
ジュールは達観した老人みたいな様子でそう言い、私はその言葉にむっとした。
「別に平気よ、このくらい」
動物の死骸くらい、なんてことない。こっちは人の死を何度も見ているのだ。戦後のアミザ国は、そりゃもうひどい有り様だった。いたるところに死体が転がっていた。最初は目を背け、吐き気をもよおしていたが、次第にその感覚も麻痺し、死体のすぐ傍で食事を取ることにも慣れた。その辺の貴族のご令嬢と一緒にされては困る。
私は更によく見学できるように、近くにあった古ぼけた椅子に座る。料理人が野菜の皮をむく作業場として使っているのだろう、近くには干からびた野菜の皮と思しき欠片が落ちている。
ジュールは何も言わなかった。豚に向き直ると、後ろ脚を縛って木に吊るし、首を掻っ切ると、下に置いてあった盥に血が流れていく。
「どうしてあなたがやっているの?」
「豚をしめる時は自分でやることにしている」
「なぜ? 料理人にさせるには大変な作業だから? それとも、あなたが“死神”だから?」
戦場でたくさんの命を奪ってきた彼は、死神と呼ばれている。私の両親を殺した彼にはお似合いの称号だ。
私の冷たい問いに、ジュールは答えない。質問を変える。
「どの部分を食べるの?」
「食べられるところは全てと料理人は言っていたが。それが殺された動物への供養になるそうだ。可愛そうだからひと思いにやってくれと毎回頼まれて困っている」
その言葉に、カチンときた。
たくさんの命を奪ってきたくせに。戦地に赴いたジュールも、そのジュールに人を殺させた周りの奴らも同罪だ。
私たちの犠牲の上に成り立っている奴らの、幸せで思い上がった哀れみが許せなかった。
「動物を殺すのに、供養も何もないわ。ひと思いだろうが時間をかけようが、全部食べようが全部捨てようが、殺される側にとっては同じ“死”よ。それ以上でもそれ以下でもないわ。人間の勝手な妄想ね。自分の罪悪感をごまかしてるだけよ!」
気付けば、私はそんなことを叫んでいた。自然と息が荒くなる。
そんな私を、ジュールはじっと見ていた。その表情は、沈んでいるのか、驚いているのか、読めない。
どうしてそんな目をしているの? どうしてまっすぐに私を見られるの?
罪を犯したのは、彼の方。それなのに……先に目を逸らしたのは私の方だった。
「妙に達観してるんだな」
「そうかしら。……部屋に戻るわ」
解体ショーを見る前に、私は立ち上がった。
少し話し過ぎてしまったのを後悔していた。お涙ちょうだいの身の上話をするつもりは無かった。




