7 夜這い
犬には、スウという名前をつけた。彼の名はスー・ウーから来ている。スー・ウーとは私の母国のことわざで「母国よ永遠に」というような意味の古い言葉だ。誰にも気付かれない、自分自身への戒めである。スウがそばにいてくれれば、ジュールへの復讐が達成できる気がする。
とはいいつつも、私はスウがすっかり気に入ってしまったというのが現実だ。このまま飼い主が見つからなければいいなと思うくらいに。
何しろスウは忠実で頭がよく、甘えん坊で常に私の姿が目に入るところにいる。寝返りを打つと、それに合わせて寝台をぐるりと回ってくるほどだ。たまにイタズラもするが、そのつぶらな目で見上げられると、少し硬い毛皮をつい撫でてしまう。
ジュールは一応飼い主を探させたようだが、名乗り出る者がいなかったので、仕方なさそうに黙認している。その油断が命取りになるかもしれないというのに。
スウに暗殺術をしこむ前に、フォークを使う機会が訪れた。
ジュールが深酒をして帰ってきたと思ったら、すぐに部屋に引きこもってしまったのだ。
使用人たちも仕事を終えると各々屋根裏の使用人部屋に引きあげてしまい、その日はいつもよりずっと早く屋敷に静寂が訪れた。
すっかり目が慣れ、暗闇の中でもどこになにがあるのかはっきりと見える。
私は気配を消して廊下を進んだ。アミザ国からこのディダルーシ王国に流れてきた時に覚えた技だ。そうでもしなければ生きていけなかった。追いはぎ、人さらい、凌辱……戦後のアミザ国は無秩序で混沌としていた。危険な目に遭ったことも、一度や二度じゃない。気配を消して、物陰に身を隠して、一日でも二日でも、危険がなくなるまで身動き一つしなかった。私が隠れているその間に、他の人が犠牲になることもあった。だが、私は助けなかった。保身をはかって他人を見捨てたのだ。正義感や道徳観は、とうに捨てた。仕方なかった、という言葉で片付けられないことは、私が一番分かっている。だが、あの時の飢餓感や死への恐怖は経験した者にしか分からないだろう。
ジュールに復讐するまでは。両親の仇を討つまでは。その執念だけが私を突き動かしていた。
足音を消すのも得意になった。娼館にいた頃、剣の腕を磨くためによく裏の林に赴いていたからだ。
ジュールの部屋へ忍び込むと、寝室のベッドに近づいた。
まずはフォークで目を突き刺そう。どれだけ身体を鍛えていようとも、目だけは急所になりえる。 フォークは研磨を重ねて切れ味抜群の凶器と化している。たとえ死に至らせることはなくても、一矢報いることくらいはできるはずだ。
泥酔し寝込んでいれば、しめたもの。声を上げることなくその命を奪ってやる。例えそれが叶わなくても、目、そして利き腕か足を損傷させることができれば、この男の副将軍職を奪うことができる。苦しみもがく間に逃亡し、次の機会を窺うつもりだ。
罪悪感なんてものはない。敵をまんまと自邸に招き込んだ方が悪いのだ。早く私を処分しなかったことを、あの世で後悔すればいい。
周囲に目を走らせたが、ジュールの剣は見当たらなかった。
私はフォークを構え直した。あとはこの腕をジュールの目に向かって突き出せばいいだけだ。
なのに、どうしてだろう。その顔をもっと近くで見たくなったのは。もうじき死にゆく男の顔を焼きつけようと思ったのかもしれない。長年恨み続けた、この男の顔を。
少しだけ。そう考え、顔を近付ける。
するとジュールの目が開いた。近付いたせいではない。とっくに私の気配に気づいていたのだ。
「何の真似だ」
「起きていたのね。何のって……分かるでしょ。せっかくここまで来たんだから、もっと仲良くなろうと思って」
作戦変更、私は手にしたフォークを隠し、色仕掛けに移る。私に興味がなくても、酔いに任せて女が欲しい夜もある。娼館では何もしなかったが、酒が入った今なら……。
そして果てた後に男は必ず隙を見せるはず。娼館の姐さんたちがいつも言っていたもの。
私はベッドへ膝を乗せた。ぎしりと音が鳴った。
「子供に興味はない」
「あら、私はもう客を取れる歳よ。それに子供の方がいいって言う人もいるんだから」
実際に、私がまだ娼館で暮らし始めたばかりの幼い頃、大金を積むから私に相手をさせろと言ってきた男がいる。まだ初潮すら始まっていない頃の話だ。シンシアは「虫唾が走る」と言って、すぐにその男を出禁にした。娼館通いは男の嗜み。だが、決められた年齢に達していない少女を買うのはご法度。地獄の沙汰も金次第のこの世の中、お金さえ出せば少女を買うことも出来るだろう。だが、ゲーテノーアは腐っても高級娼館。その禁を破った男の噂はすぐさま広まり、社交界から姿を消したという。
この国では十五歳から客を取ることができる。私はもう十六歳、十分に男を迎え入れられる身体になっている。
「鍵をかけておいたはずだが?」
「あんな鍵、すぐに開けられるわ」
私は髪飾りだった物を見せた。この屋敷に来てから与えられたものだ。せっかく与えた品を、と怒るかと身構えたが、ジュールは何も言わなかった。自分で用意したものではないから見覚えがなかったのかもしれない。
せめて一番価値の低そうなものを、と厳選した労力を返して欲しいなと思った。
「それだけじゃないだろう、出せ」
「……」
ジュールは私が隠し持っていたフォークの場所に見当がついていたようで、素早く奪った。どうやら何もかもお見通しのようだ。その際に太ももを触られたが、私は何とも思わなかったし、ジュールも何とも思っていないのが分かる。
「得物はフォークか。自分で削って先を鋭くしているな。悪くない」
その言葉にカチンときた。まるで大人が子供を褒めるような言い方だ。
「何よ、殺すならさっさと殺しなさいよ。わざわざ自分の屋敷に招いて、一体私をどうするつもり?」
今まで黙っていた思いが、炸裂する。
「どうもこうもする気はない」
「なんですって?」
どうもこうもする気はない、ですって?
そんな得にもならないことをして、何になるっていうの? 高額な身請け金まで支払っておいて。
動揺のあまり、消してしなかった殺意が揺らいでしまう。それが分かったジュールも肩の力を抜いた。
「単身乗り込んでくるとは、見上げた根性だ。暗殺者でも何でも雇えばいいのに」
はっ、と私は息を吐き捨てた。
「他人にあなたを殺してもらっても、ちっとも嬉しくないじゃない」
「お前のそういうところは嫌いじゃない」
ジュールは小さく声をもらして笑った。
初めて見る笑顔に気を取られたけど、今のはどういう意味? 私のことを褒めたの? 自分を殺そうとしている女なのに? それとも、貶しているの?
全く相手にされていないどころか、馬鹿にでもしているのだろうか。
「帰るわ」
殺す気がないのなら、止められないはずだ。苛立ちゆえに足音をドスドスとさせてジュールの部屋を出た。ジュールは追ってこなかった。
こういう態度が子供っぽさを強調させていると頭では分かっていても、止められない。ジュールが更に笑っているであろうことは容易に想像できたので、余計に腹立たしかった。
私はジュールに復讐するつもりなのだ。あの日の悲しみと憤りは昨日のことのようにはっきりと思い出せる。
なのに……さっきはどうして殺意が揺らいでしまったのだろう。
何かがおかしい。一度、冷静になる必要があるようだ。




