6 策謀
「今日は出掛けないの?」
早朝。私はいつもの時間になっても出掛ける様子のないジュールに話しかけた。
「休暇だ」
「へえ、珍しいわね」
「休むのも仕事だからな」
さっさとどこかへ行っちゃえばいいのに、という含みを持たせた言葉だったが、ジュールは気付かなかったようだ。
ジュールはひどく気を抜いてゆっくりと食事を取っており、殺気などは微塵も感じられない。
休日に私の私刑をするのでは――という予想は外れたらしい。もっとも、殺気を纏わずに人を殺す可能性も無くはないが。彼は死神と呼ばれた男だ。まるで呼吸をするように人を殺すかもしれない。
だが、この男はそういった類の男ではない気がした。おそらく今日は私刑の日ではないようだ。
では今日は一日ずっと一緒ということか。自室に引きあげれば食事時以外に接点はないだろうが、同じ屋敷内にジュールがいるとなると息が詰まりそうだ。
といっても自室に閉じこもっていては敵の情報を得る機会も減ってしまう。だから今日はどれだけ気乗りしなくても出来る限りこの男の近くに居て、情報収集をしなければならない。
この男の癖、好み、行動の規則性などを把握することはきっと今後の役に立つ。この世で最も忌むべき男について知らなければならないのは苦行だが、これは自分に対する試練なのかもしれない。この男の隙を突くための、試練だ。
私はこっそりと拳を握りしめる。
ジュールは食後の紅茶を飲みながら、新聞を読み始めた。
大柄な男が持つと、新聞が小さくみえてしまう。軍人は活字を読まないイメージだが、そうでもないようだ。ジュールは新聞をその内容を問わずまんべんなく読んでいるようだった。新聞は、高級紙と大衆紙の二つ。高級紙とは貴族などの上流階級向けの真面目なもの、大衆紙は労働者などの庶民向けの娯楽新聞だ。大衆紙は特にゴシップや破廉恥な内容に特出しているはずだが、顔色一つ変えない。
毎日不安はある。今日こそ、明日こそ、どこか――彼にとって最高の場所で私を殺すのではないか、という不安だ。
頭に血が上っていた時は、殺されることについて全く怖くなかった。だが、こうやって冷静になると恐怖心はおのずと生まれてくる。
だけど私は、どこかで安堵してもいた。
なぜ自分がこの屋敷に招かれているのか、理由が分からず時を過ごすことの方が恐怖だったからだ。
謙遜でも何でもなくジュールが私に惚れていないのは明白だ。おまけに自分の命を狙う女を同じ屋敷に住まわせるなんて、酔狂としか言いようがない。
今まで私を手にかけなかったのは、私刑にふさわしい日を待っているからかもしれない。私を血祭りにするにふさわしい何かがあるのかもしれない。任務の都合なのか、気候なのか、状況なのか……それは判断つかないけれど。
だったら、受けて立ってやる。たとえあっけなく殺されようが、最後の最後まであがいてやる。
結果が変わらなくても、その過程は変えられるかもしれない。窮鼠猫を噛む、だ。小さなひっかき傷でもいい。唾を吐きかけたっていい。死の寸前まで抗ってやる。
私の人生はあの男に復讐をするためだけにある。
未来を変えてやるのだ。
様子を窺いながら紅茶に口をつけていると、門の方から獣の鳴き声がした。
「何? 何かいるの?」
私が尋ねると、ジュールはようやく新聞から目を離した。
ハリウスが窓から庭を見下ろし、ご安心くださいと言う。
「迷い犬のようです。すぐに追い払わせますから」
犬と聞いて、私は椅子から立ち上がった。
「待って、一目見たいわ」
窓に駆け寄り、庭に視線を彷徨わせる。
子供の頃に小型犬を飼っていたこともあり、犬が大好きなのだ。その犬は戦争が始まる前に寿命で死んでしまったけれど。当時は悲しみのあまりしばらく食事も喉を通らなかったほどだ。
だけど今思えば、両親とともに殺されなくて良かったのかもしれない。寿命まで生きられるということは、なんという幸せなことだろう。泣き叫んでも、命乞いをしても、戦争という名の基に命は簡単に奪われていった。人がいなくては国が成り立たないというのに、国のために人が犠牲になる。おかしな話だ。
それもこれも、このディダルーシ王国のせい。このジュール・アシュリーヴスのせい。
この男だけのせいじゃないとは分かっている。だが、私の恨みの矛先はこの男に向かっていた。私は国が滅んでも、両親にだけは生きていて欲しかった。人は私を利己主義者と嘲るだろうか、それとも非国民だと罵るだろうか。
「少々お待ちください」
ハリウスは犬を追い払おうとしていた門番たちを止めに行き、犬をこちらから見えるよう庭園に招き入れた。
現れたのは今日の太陽と同じくらい黄金色をした大きな犬だった。子供……いや、小柄な大人くらいあるかもしれない。こんな大きな犬なら、飛び掛かられただけで怪我をしそうだ。
そこまで考えて、私は名案を思い付いた。
一つは、犬を可愛がる様子を見せて、ジュールを油断させること。もう一つは、犬を手懐けてジュールを襲わせること。
二つ目の案は難易度が高いが、やってみる価値はある。そんな作戦、うまくいくはずもないと分かっている。だけどジュールを油断させる材料にはなるかもしれない。
居ても立ってもいられず、私は部屋の入り口へ急ぐ。
「待て、どこへ行く?」
「近くで見るだけよ。屋敷の外へは出ないわ」
私はジュールの制止の声を振り切り、玄関ホールの方へ回って庭へと出た。
飼い犬だったようで、薄汚れてはいたが毛並みは悪くないようだし、人にも慣れているようだ。近くに行っても威嚇したり吠えたりすることなく、つぶらな瞳で見上げてくる。
「リゼさま、お手が汚れてしまいます」
使用人の忠告もなんのその、私はその犬に向かって手を差し伸べた。すると犬は私の手に吸い付くように頭を寄せ、クウンクウンと鳴く。大きな犬の可愛らしい態度に、私は本来の目的を忘れて、夢中になりかけた。
頭から鼻先、そして首元から背中へ、撫でる手に自然と愛情が籠る。
するとジュールも庭へと出てきた。
「犬が好きなのか」
「ええ、とっても」
にっこりと笑って見せる。動物好きに悪い人はいない。そう誤解してくれることを願って。
「ねえ、ジュール。居候の身でこういうことを言うのは良くないって分かってるんだけど……。この犬をこのお屋敷に置いてほしいの。だめ?」
瞬きをしながら、上目遣いをする。これで落ちない男はいないはずだ。……この男を例外として。
「ちゃんと世話ができるのか」
「もちろん、心を込めてお世話するわ」
……ん? 何だか、わがままをいう子供と、親みたい?
おかしい、何かが違うと思いながらも、どうすればいいのかは分からない。ここは流れに身を任せるしかない。
「まあ、いいだろう。ただし、持ち主がもし見つかれば、犬は返す。いいな?」
「ええ。ありがとう、ジュール! 大好きよ!」
渋々といった風に許可してくれたジュールに、わざと好きだと言ってみる。だが、ジュールはまるで何も聞いていない様子で小さく頷くだけだった。そこで私は立ち上がり、「本当に嬉しいわ!」とジュールの首にしがみついた。
軍人は首まで鍛えているのか、非常に筋肉質だった。寝首を搔くのは不可能だ。
ジュールは一瞬身を硬くしたものの、黙って受け入れ、すぐに私の手を解いた。
「犬を俺に近づけるなよ」
「分かったわ」
どうやらジュールは犬が嫌いらしい。
ジュールに犬を近付けて襲わせるという作戦は難しいかもしれない。だけど私に対する多少の油断は与えることには成功したはず。
私の命がまだ続くのなら、この犬を仕込んで暗殺者ならぬ暗殺犬にする案はアリかもしれないなと思った。馬鹿みたいな作戦だとは自分が一番理解している。だが、命を奪うことは不可能でも、一瞬の油断を招くことは出来るかもしれない。
……ただ、私がこの犬の温もりを求めていただけかもしれないけど。




