19 別離
御者の「門を開くので、しばらくお待ちを」という声が聞こえる。ようやくどこかに着いたらしい。
「ここは?」
「私の所有する屋敷の一つです」
詳しい場所を聞いたのだが、エリーシュは答えをはぐらかされ、私は内心で唸った。きっと尋ねてもあの笑顔で躱されてしまうだろう。彼の笑顔は人に安心感を与える一方で誰も寄せ付けない障壁のように見える。
捜査の手はすぐにエリーシュに及ぶはず。親族に結婚を反対された恋人同士が手と手を取り合って駆け落ちする――向こう見ずな若者たちがよくやる手だ、と世間は思うはずだ。この件の噂が広まれば、明日の新聞は売り切れ必死だ。
この騒ぎが広まらない内にオフィーリアを帰してあげなければならない。そうでもしなければ、彼女は誰とも結婚できずに遠方へやらされてしまうだろう。
門を抜け、屋敷の前で馬車を下りる。着いたのは、先日“視た”お屋敷とは違う場所だった。多少さびれてはいるが、装飾に溢れた貴族の館だ。ジュールの屋敷とは雰囲気から違う。
……何でジュールのことを考えているの。
私は小さく首を振った。
「さあ、朝から大冒険をしてお疲れでしょう。今お茶を用意させます」
煌びやかなホールを抜け、応接間へ通される。天鵞絨張りのソファーへ座るとすぐに紅茶が出てきた。執事は屈強なという言葉が似合う男性だ。
「それよりも、オフィーリアはどこ? ここには居ないの?」
私は辺りの気配を探った。
何人かいるようだが、もしオフィーリアがいて私の訪れを知れば、すぐに飛んで来そうなものだ。
「彼女のことが気になりますか。女神は彼女を厭っていると思いましたが」
図星だった。隠しているつもりだったが、エリーシュにはお見通しらしい。
「彼女を厭っている訳じゃないわ。貴族のご令嬢という存在を厭っているのよ」
「それは、あなたが元・貴族のご令嬢だからですか?」
「――!!」
私は息をのんだ。この男はどこまで私のことを調べ上げているのかと。
「……どこまで知っているの」
この国に来る前のことまで知られているとは。あの戦争の中、行方知れずになった子供はごまんといる。ディダルーシに流れてきた子供も数えきれないだろう。私の出自まで調べることは、不可能なはず。
警戒心は、更に深まった。自分の身分を告げたのは、ジュールに倒された時のみだ。エリーシュに会う前のことである。ずっと視ていたからといっても、その一瞬を視ていたとは考えにくい。
とすれば、今は亡きアミザまで赴いて調べたということになる。
なぜ。どうしてそこまでして。
背筋が凍るとはこういうことなのか、と思った。
ジュールに対しては、燃えるような感情ばかり持っていたので、こんなに鳥肌が立つほどひやりとするのは初めてだった。
「いいえ、何も。女神がリゼ・ヴィルダリードであることと、アミザが滅びた後すぐにこのディダルーシ王国に入り、娼館ゲーテノーアに潜り込んだこと以外は、何も」
つまり、全てを知っているということだ。やはりこの男の見た目の柔和さに誤魔化されてはいけない。
私はこの時初めて自分の選択を後悔した。オフィーリアなんて放っておけば良かったのだ。一貴族がどうなっても私には関係ない。自分からこの男の元に来たのなら、何をされようときっと本望だろう。さっさと見捨てて、ここを――。
「オフィール嬢なら元気にしていますよ」
「オフィーリアよ」
「ああ、そんな名前でしたか。申し訳ございません、人の名前を覚えるのは苦手で、すぐ忘れてしまうんです」
「婚約者の名前なのに?」
とっさに名前が出ないことなら、ままあることだ。だが、婚約者の名前を忘れるなんてありえるのだろうか? エリーシュはオフィーリアの名前を何度か呼んでいたはずなのに。
ますますこの男のことが分からなくなる。
「オフィーリア嬢はお返ししますよ。女神が我々の頼みを聞いてくだされば、ね」
「頼み?」
やはり、そういう魂胆か。
エリーシュが私をおびき寄せたからにはそういうことだろうと考えてはいた。私が舞踏会の時に大儲けをしていたところを見ていたようだし、きっとこの男もそれが目的なのだろう。
「オフィーリアは私を釣るための餌? もし私が釣れなかったらどうするつもりだったの?」
「どうもしません。彼女の命が消えるだけです」
……もう、この男が何を言っても驚きはしない。
オフィーリアがエリーシュのことを語っていた時の嬉しそうな顔。彼女の目を通して見た、エリーシュの優し気な微笑み。すべて、嘘だったのだ。エリーシュはオフィーリアのことなんて、これっぽっちも想ってはいない。相手が感情のある生身の人間だと思ってすらいない。人としての感情が欠落しているのだ。
「ひどい男ね。彼女を利用したの?」
「利用とは言葉が悪いですね。まあ、確かに元々は彼女の後見人であるアビーディア家にご協力いただくつもりで近付きましたが、彼女が女神に接触したことで考えが変わりました」
「どういう意味?」
「彼女があなたの弱点になると踏んだのです。あなたは自分を非情だと思い込んでいるようですが、それは間違いです。今日ここにあなたがいることが何よりの証拠。ただ誤算だったのは、彼女が思いのほか早く行動に移したことですね。本当は女神との親交がじっくり深まってからにしたかったのですが。大人しそうに見えたのに、ひどく短絡的で情熱的だったようです」
「……」
オフィーリアも馬鹿な女だ。こんな男に引っかかってしまうなんて。
あの子には、平凡でも幸せになって欲しかった。……さっきまで見捨てようか迷っていた私が言えた義理じゃないけれど。
「それで? 私の両親の死の真相とは?」
エリーシュは言っていた。私の両親の死の真相を知っていると。私は側仕えのオッジから両親がジュールに殺されたことしか知らされていない。その死に際の様子でも知っているのだろうか。――それを聞いてどうなるというのだろう。まさか、ジュールが私の両親を殺していない、なんて衝撃の事実が出てくるわけじゃあるまいし。だってジュールは否定しなかったもの。あの決闘の時、私ははっきりと両親の仇を取ると宣言した。ジュールはそれを受けたのが何よりの証拠だ。
なのに、何を今さら。そう思うのに、エリーシュの答えをもどかしげに待つ自分がいる。
そこで私は眉を寄せた。……もしかして、私はジュールが仇じゃなければいいとでも思っているのだろうか。なぜ?
そうすれば、彼に対して芽生えた想いを正当化できるから?……馬鹿な。
「それも女神が私の願いを叶えてからです」
エリーシュの返答を聞き、私は溜め息をついた。ここに来た以上、とにかくこの男の願いを叶えるしか道はないようだ。
「それで? 私は何をすればいいの?」
「賢明な判断で嬉しいですよ。では、まずはドレスを用意させましょう。それから少し部屋で休んでいただき、さっそく外出を」
「……分かったわ」
エリーシュは私が彼の役に立つ限りは殺さないはずだ。だが、これから何をさせられるか、不安が残る。それでも、私はエリーシュから両親についての話を聞きたかった。聞かなければならない、そう思った。もう元の場所へ戻るつもりもなかった。
ジュールと離れた今、きっとすぐに彼への気持ちは忘れてしまうだろう。一瞬だけ血迷っただけだ。
私がジュールに会うことは、二度とないだろう。




