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18 出奔

 ジュールが帰ってきたのは、夜も更けた頃だった。

 部屋で休んでいた私は、馬の音に気付いてすぐにジュールの元へ急ぐ。


「お帰りなさい、遅かったわね」

「まだ起きていたのか」


 ジュールは応接間のソファーへどさりと座り込む。私はその向かいへ座った。

 黒くて短い髪をガシガシと荒らしながら、ジュールはハリウスからお茶を受け取っている。

 それをひと口飲むまで、私は待った。


「それで、どうなったの?」

「ひとまず、ゼフィード率いる西軍でオフィーリアを探している」


 ゼフィードは西軍の将軍だ。一見優男に見えるが、東軍の将軍であるジュールと同じく有能だと噂に聞いている。


「そう。早く見つかればいいのだけど」

「ああ。俺も仮眠を取ったらすぐに出る」

「……そう、ご苦労さま」


 アビーディア伯爵夫人の生家は、国境近くに広大な領地を持つ有力貴族だ。そのひとり娘が行方不明とあらば、国を挙げての捜索になるだろう。おそらく彼女が見つかるまで、ジュールやゼフィードたちはでずっぱりになる。その隙にこの屋敷を抜け出して、エリーシュの元へ向かえば……。

 ああ、ここじゃ考えがまとまらない。ジュールの方の状況は把握できたし、後は一人になってじっくり考えないと。

 私は一足先に部屋に戻ることにした。

 ソファーから立ち上がり、ジュールの横を通る。すると、私の腕はジュールに強く掴まれていた。


「待て」

「……何?」


 私は動揺を隠して答える。振り返ると、ジュールがいぶかしげな顔をしてこちらを見ている。掴まれている腕が熱い。


「何か知っているんじゃないだろうな?」

「……別に」


 私は咄嗟に顔を背けてしまった。それじゃ逆に疑われると分かっていたのに、その射るような視線に耐えられなかったのだ。

 本当のことを言う訳にはいかない。彼女の命が懸かっているのだ。きっとエリーシュは私がジュールに告げたと知った瞬間にオフィーリアを殺してしまう。彼にはその能力がある。それは困る。いや、オフィーリアがどうなろうと私には関係ない。正反対の思いが、同時に頭の中で交錯する。

 私の母国を滅ぼしたのは、このディダルーシ王国なのだ。その国の貴族の娘の一人や二人、誘拐されようが消されようが、どうでもいいはずだ。

 だけど……。

 オフィーリアの、笑顔がチラつく。私に全幅の信頼を寄せていると分かる、純粋な笑顔。

 あの顔は今まで幸せな人生を歩んできた者にしかできない、私には決してすることのできない表情だ。それがひどく憎らしくて――うらやましい。

 私は動揺した。他人になど興味はないはずだった。復讐のためだけに生きてきた。なのに、こんなにオフィーリアを妬む気持ちがあったとは。

 私は動揺を隠し、ジュールに視線を戻した。


「私は何も知らないわ。早くオフィーリアを見つけてあげて」


 私たちは互いに見つめ合った。ジュールは私の心の内を覗き込もうとしたが、じきに諦めた。


「部屋に戻る。お前ももう休め」

「……お休みなさい」


 私はショールを羽織り直して応接間を後にした。

 部屋に戻るとスウが私の足にまとわりついてきた。


「ただいま、スウ。いい子ね」


 私は寝室に入り、明かりを消してベッドへ座る。だが、決して眠るためではない。

 今はダメだ。ジュールが怪しんでいる。今この屋敷を抜けてもすぐに連れ戻されるだろう。

 ジュールが出掛けてから。もっと夜が更けてから。あるいは、夜明け前に。


「スウ。私はもうすぐ出掛けるから、大人しく留守番しているのよ」


 くうん、と小さく鳴いたスウは、私の手に頭を擦りつけた。

 決して眠れはしないが、身体を休めておいた方がいいと判断した私は、ベッドに横たわった。それを見たスウも絨毯の上に寝そべる。



 小一時間ほど経っただろうか、ジュールが再び出掛けて行った。

 だけど私は動かなかった。

 更に数時間をまんじりともせずに過ごし、屋敷中が寝静まったと確信した頃に起き上がった。カーテンの隙間から見える空は、白み始めていた。

 ベッドから下りるとスウが頭を上げた。手で制すると尻尾を何度か振ったが、それ以上は動かない。私はジュールとの決闘の際に着用した下男の服を着ていた。スウと遊ぶ時に汚れても良い服が欲しいからと言って譲ってもらっていたのだ。貴族のドレスしか持っていない私は、どうやっても目立つ。足取りを知られないようにするにはこの服が最適だった。長い金の髪は、まとめて帽子にねじ込む。


 最低限の荷物だけ小さな鞄に詰め、私は行動を開始した。

 まだ暗い廊下には、誰もいなかった。幸い、足音は消さなくても絨毯が吸収してくれる。

 私は使用人用の勝手口から外へ出た。

 裏門がキイィとかすかに音を立てた時は肝が冷えたが、誰も来ない内に外へ出た。帰って来たら門に油をささなきゃ、なんてことを考え、私は唇の端で笑った。私はもう二度とこのお屋敷には帰って来れないだろう。一瞬足が止まったのは、これからのことを考えた戸惑いか、それともここを離れることに対する寂寥感か。


 私は再び足を動かし始めた。

 取り敢えず大通りに向かうと、いつもの人通りはない。それでも娼館からか愛人宅からか、いくつかの馬車が世間を忍ぶように走っている。


「確か……この道をまっすぐに進んでいたはず」


 行きかうのは客を乗せている馬車ばかり。新たに馬車を捕まえるのは難しいだろう。それに呼び止めれば声で女だとすぐ分かる。男の恰好をした女は、御者の記憶に残ってしまう。

 すると目の前に一台の馬車が止まった。その辺を行きかう辻馬車とは違う、貴族用の箱馬車だ。

 その扉が開くと、中には見知った顔があった。


「エリーシュ・クレイムス!?」


 思わず相手の名を叫ぶ。どうしてここに? いや、どうしてこのタイミングで?


「何と他人行儀な。どうぞ、エリーシュとお呼びください」


 地味だが品の良い貴族服を着たエリーシュは、手を差し出した。白い手袋に覆われたその手は、ジュールの無骨な手と違って繊細な手だ。

 馬車に乗りこんだ私は、エリーシュの向かいの席へと腰を下ろした。すると馬車はゆるゆると走り出した。馬車の窓には厚いカーテンがひかれており、どこをどう走っているのか見当もつかない。

 それにしても、どうしてエリーシュはこうもタイミングよく私を拾うことができたのだろうか。


「不思議そうな顔をしていますね。忘れましたか? 私には“視える”んですよ」


 はっとした。彼の能力のことを忘れていた訳ではない。自分が視られる側になったことに慣れていなかったのだ。

 そう。エリーシュは未来や過去が視える私と違い、現在が視える。私が屋敷を出る準備をしていることを視て、タイミング良く迎えに来たのだろう。


「非常に賢そうな犬ですね。あなたによく懐いている」

「!」


 エリーシュの笑みはその辺のご令嬢なら一目で心を奪われる甘いものだ。だが、このセリフと共に向けられると脅迫のようにしか聞こえない。

 スウを置いてきて良かった、と思った。


「それにしても愉快な恰好をしておいでだ」


 エリーシュは笑みを深くした。

 着替えるところも視ていたならば、これは嫌味か嘲笑だろうか。私は帽子を乱暴な仕草で脱いだ。金の髪がほどけ、肩に散らばる。


「ああ、似合ってましたのに。もったいない」


 エリーシュが本気なのかそうじゃないのか、分からないことを言う。


「それにしても、あなたはいつも予想外のことをする」

「あら、まるで私のことを昔から知っているような口振りね。先日会ったばかりだというのに」

「私は女神のことを知っていましたよ。あなたと会う、ずっと前からね」

「なんですって?」

「娼館ゲーテノーアの女神の噂を聞いた時から、私はあなたを視ていました」


 そんなに前から、と私は驚愕した。私の噂が広まったのは、ゲーテノーアに住むようになってすぐだったはずだ。


「あの頃は小さな子供だったというのに、女神は目もくらむばかりに美しく成長されましたね」

「……」


 手放しで褒められたというのに、喜べない。ちっとも心がこもっていないからだ。


「夜中にあなたが部屋を抜け出した時には驚きましたが、あなたが裏庭で剣の技を磨いていた時には更に度肝を抜かれましたね」


 それであなたのことを調べ尽くしました、とエリーシュは言った。


「まさかアミザ国から単身でこのディダルーシ王国に乗り込むとは。いや、見上げた度胸です」


 エリーシュは拍手した。どうやら私がこの国に侵入したことまで調べ上げているようだ。やはりこの男の笑顔は恐ろしい。


「ジュール・アシュリーヴスと言いましたか。あなたほどの人を独占するとは罪深い」


 嫌な気配を感じた。私は咄嗟に「彼に手を出さないで!」と声を荒げていた。


「おや、女神はあの男がお気に入りのようだ。あなたにとってあの男は仇敵だというのに」


 エリーシュは不思議そうに首をかしげる。


「違うわ! そうじゃない。あの男は私が殺すのよ。邪魔しないで」


 エリーシュの言う通りだ。どうして私はこんなにむきになっているのだろう。エリーシュがジュールを殺してくれれば、私の復讐は終わるというのに。一体、なぜ。


「ほう。今まで全く歯が立たなかったのに? 最近ではとても仲良く過ごされていたようなのに?」

「……!」


 私は唇を噛みしめた。自分の気持ちを見透かされているようで。頬にさした赤みは、羞恥心だ。親の仇に密かな想いを抱き始めていたことは、誰にも気付かれてはいないと思っていたのに。


「あの男振りでは致し方ありません。それに、あなたは娼館という苦界から彼に救われた。そのような状況下において、彼に感謝することで好意的な感情を抱くことはよくあることです」

「そんなんじゃないわ」


 私にとって娼館はこの国に溶け込むための手段であり、決して苦界なんかではなかった。


「まあ、そういうことにしておきましょう」


 エリーシュが目を細めた時、馬車が止まった。

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