14 憂慮
更に顔を背けると、背後から女性に声を掛けられた。
「まあ、女だてらに男性の世界に参加するだなんて、最近のお若い方は自由でうらやましいですこと。……あら? こちらから何か臭うようですわ。一体何の臭いかしら」
羽根の付いた扇で顔の下半分を覆っているが、視線は明らかにこちらへ向けられている。
「何でも、ピッティの方にいらしたとか。付け焼刃のダンスはお上手でしたけれど、香りはごまかせませんわね」
「……」
ピッティとは、娼館ゲーテノーアがある場所で、「ピッティへ行く」と言えば「ゲーテノーアへ行く」と同義なほど有名な地名である。
香りとは香水ではなく、私の出自のことを蔑むための方便だろう。
私は夫人に同伴する男の顔を見た。彼女の夫だ。
無言で汗を流しているその男の顔には見覚えがある。
以前、私に占いを頼み、ぜひ自分の妾にと言ってきた男だ。どうやら、この男から私の出自を聞き出したらしい。
貴族の嗜みだというのに、自分の夫はおろか、息子さえも娼館に通っているとは思いもしない発言だ。
ジュールが何かを言い掛けた。私はそれを引き止める。
ここで相手と喧嘩することは、たやすい。だけど、今日はすこぶる調子がいい。私は深呼吸をして精神統一をはかり、夫人を見つめた。
すると――見えた。
黙りこくった私を怪訝そうに見る夫人に、私はにっこりと微笑んで見せる。
「お初にお目にかかります、アビーディア子爵夫人。お会いしたばかりでこういうことを申し上げるのは恐縮ですが、最近何か大切なものを失くされたのでは?」
「……どういう意味ですの?」
名前を言い当てたことに夫人は驚いたようだ。別に驚くことではない。夫の名前が分かれば、造作もないこと。全ての貴族の名前を覚えなければならなかった過去に比べれば、楽なものだ。
私は子爵夫人に近付き、本人にしか聞き取れないほどの小声で囁いた。
「まだお若い時に受け取ってから、大切にしていたもの。誰にも見つからないように大事にしまいすぎて、どこにやってしまったか忘れてしまったもの」
子爵夫人は、はっとした顔をする。
「最初に隠しておいた場所を今一度ご確認されると良いかと」
「まあ、まあっ! なんてこと!」
子爵夫人は居ても立っても居られない様子で、自分の夫を振り返った。
「わたくし、今すぐ帰らせていただきますわっ」
「ええっ、お前、今夜は最後まで残ると――」
「急に気分が悪くなりましたの。あなたは最後までこちらにいらしてっ。決して早く帰ってきてはなりませんことよっ」
夫人は身を翻し、退室して行った。子爵はオロオロとしながらも見送りについて行く。
「一体どういうことだ」
ジュールが怪訝そうに尋ねる。匂わせるだけの会話は、当人以外には謎ばかり。
「あの夫人は娘時代にもらった恋文を失くしてしまったのね。アビーディア子爵と結婚させられてからも、婚家に持参するほど本気だった相手からもらった手紙よ」
幼い頃から政略結婚させられると分かっていながらも堕ちた、道ならぬ恋。子爵夫人の座を捨てる気などさらさらないだろうが、大切な思い出として捨てられなかったのだろう。
大事にしすぎて、隠し場所を転々とさせているうちに、どこに隠したか忘れてしまったのだ。
「あの石がなくても占えるのか」
「あれは一種の動作。まあ、意識を集中させて少々力を増幅させる役割くらいはあるかもしれないけれど」
象徴となるものであれば、何でもいいのだ。たまたま身に着けていたから使用したにすぎない。
「今夜は私史上初と言っていいほど冴えているわ。今までこんなこと無かったのに」
今までと違うことは何だろう。年齢も変わっていない。食べる物も味は格段に上がっているだろうが食材的には変わりがない。唯一変わったことは、環境くらい。
そこで私はある可能性に思い当たる。
ーーもしかして、すぐ傍にジュールがいるから?
ジュールは強運の持ち主だ。戦果を次々にあげ、若くして将軍職に就いた。亡くなった両親から受け継いだ男爵位も、功績を称えられて異例にも伯爵位に叙せられている。本人の実力と言ってしまえばそれまでだが、まれにみる強運だ。
もしかして、彼の近くにいることで私も影響を受けているのでは?
それは、ジュールのせい? それとも……私の気持ちの変化のせい?
急に黙り込んだ私を見て、ジュールは疲れたと勘違いしたようで、夜が更ける前に屋敷へ帰ることになった。
そこで、「帰る」という表現を使った自分に驚いた。いつの間にあの屋敷が帰る場所になってしまったのだろう。
いつかは、この人の傍を離れなければならないのに。
自分の中に芽生えた気持ちに、ようやく気付いた。だけどこの気持ちは早々に消し去ってしまおう。そうでなければ、私は無残な死を遂げた両親を裏切ることになる。
ジュールが退去の挨拶をしている間、私はテラスで涼むことにした。私自身この場に対して気分が高まっていたし、盛り上がる人々に当てられていたからだ。夜風が頬の熱を奪っていく。
空にはいくつも星が煌めき、吐く息は夜空に吸い込まれていった。
するとテラスがにわかに騒がしくなった。
横目で見てみれば、入口あたりに一人の男性とたくさんのご令嬢たちの姿がある。女性陣は男性について行こうとしてやんわり断られ、不満そうな、悲しそうな顔をしている。ひどく人気のある男性でもいたらしい。当然、興味はないので私は視線を空へ戻す。
「おや、あなたは……」
星を見上げていると、背後から声をかけられた。
振り返ると、さきほど女性たちに囲まれていた男性が立っている。が、その顔は逆光で見えない。その男性が一歩近づくと、大広間の灯りに照らされ、その姿が現れた。
金色の髪、紫の瞳。瞳の色によく似た紫の貴族服を隙なく着こなしている。人当たりの好さそうな雰囲気だが、凄みのある美貌の持ち主だ。その風貌から、一目でディダルーシ人ではないことが分かる。
相手は私を知っているようだが、見覚えはない。娼館の客にこんな男がいただろうか。これだけの美貌の持ち主なら、姐さんたちが黙っていないはずだけど。
「ごめんなさい、どこかでお会いしました?」
私は正直に言った。
すると男は白い手袋をした手を口に当て、ふっと微笑んだ。
「ああ、失礼。今この時のあなたとは、まだお会いしていないようですね」
「……え?」
相手の言葉が理解できず、返事ができない。
まだ? どういう意味?
「おっしゃる意味がよく……。私をどなたかと勘違いしておられるのではないですか?」
「いいえ、リゼ・アシュリーヴスさん、あなたですよ。もっとも、お名前は先程知りましたが。それとも女神と呼んだ方がいいでしょうか?」
私の頭の中は疑問符でいっぱいだった。この男は一体何が言いたいのだろう。何か言葉に含められているが、さっぱり分からない。優しく紳士的なのに、何故か背中がぞわぞわとした。
その時、ジュールがテラスにやってきたのが見えた。退出の挨拶を終え、迎えに来たのだ。
「私の名前はエリーシュ・クレイムス。あなたから会いにきてくれるのを楽しみにしていますよ。それでは」
エリーシュは颯爽と去っていく。代わりにジュールが私を見つけ、歩み寄ってきた。
その顔を見て、私は息を吐いた。親の仇の顔で緊張が緩むなんて、本当に私はどうかしている。
「待たせたな。……どうかしたのか? 顔色が悪い」
「いいえ……何でもないわ」
ジュールは怪訝そうな表情を浮かべていたが、それ以上は聞かなかった。
馬車に揺られながら、私は嫌な予感がしていた。




