10 鬼哭
「今日は郊外へ出掛けるから、遅くなる」
ジュールがそうハリウスに告げたのは、私の肩の怪我が癒えた頃だった。
「かしこまりました」
「……」
私は、ぼんやりとその言葉を聞いていた。
怪我をして以来、私は魂が抜けたようになっていた。それもそうだろう。今まで生きる糧にしてきた復讐が失敗に終わったのだから。
何度かこのお屋敷を出て行こうとした。夜中に、早朝に、真昼間に。だが、その度に誰かに偶然見つかって呼び戻されてしまうのだ。一度や二度ならまだしも、偶然がそう何度も続くものだろうか。だが、ジュールが家人に命じて私を引き止める理由も分からない。
そして根負けした私はついに出ていくことも諦めた。私は何のために生きているのか。何のために生かされているのか。いくら考えても、答えは出ない。
するとジュールが私の顔を見た。
「一緒に来るか?」
「……え?」
ジュールの申し出に私は戸惑った。どういう風の吹き回しだろう。
だが、ずっと部屋に籠りっぱなしだったため、その気になれない。
「私は」
行かない、と答えようとした時だった。
「それは良い考えですね。ささ、リゼ様。お召し替えを」
ハリウスが両手をパンと打ち鳴らし、ウキウキした様子で侍女に衣装の準備を命じる。
「いや、私は……」
「たまには外の空気もお吸いになられないと。この季節はどこも花盛り。きっとお心が晴れやかになるかと」
「……分かったわ。行くわ」
私は折れた。ハリウスや侍女が慌ただしく準備をする様子を見て、後には引けなくなったのだ。
部屋に戻ると、衣装が用意されていた。
「……これを着るの?」
「はい、ジュール様のお言いつけですので」
クレアという名の女使用人が用意していたのは、白い服だった。
襟が高く、袖と裾は長く、腰からお尻にかけてたっぷりと布を使った昼用の貴族服である。決して娼館上がりの女に着せるものではない。
ああ、なるほど。外見だけでも体裁を繕わなければ、周りに何と噂されるか分からないからか。それとも、これから死にゆく私に対して、せめてもの餞別か。
だったらありがたく着させていただこう。
「分かったわ。お願い」
私はその服をおとなしく着させてもらうことにした。母国がなくなって以来、服は自分で脱ぎ着していたので、他人にやってもらうのは久々だ。
おまけに子供の頃とは違う大人の装い。髪を結い上げて小さな帽子を被ると、姿見の中には亡き母によく似た自分の姿があった。
声は忘れてしまっても、鏡を見ればお母様には会えるのね……。
私は目頭が熱くなるのを、必死で堪えた。
玄関ホールを抜け、階段を下りて行くと、ジュールは一頭の馬の手入れをしていた。
「お待たせ」
普段街で見かける馬車馬よりも一回り大きく立派な馬だ。だが、肝心の馬車が見当たらない。
「今日はこの馬に乗っていく」
「馬!? 馬に直接乗るの?」
ジュールの言葉に、私は大きな声を出してしまう。馬に直接乗るなんて、想像もしたことがなかったからだ。
「やめておくか?」
「……いいえ、乗るわ」
だけど、ここで引き下がるわけにはいかない。私は先に馬にまたがったジュールの手を掴み、馬の後ろに乗り込んだ。横座りのため、バランスが取りにくい。だけど、ジュールにしがみつくのは嫌だ。
「振り落されるなよ」
私の心が読めたのか、ジュールは鼻で笑い、馬を走らせた。
「えっ、ちょっと待って、早いっ……!」
二人も背に乗せているとは思わないほど、馬はものすごい勢いで走り始めた。
上下にぐわんぐわんと揺れ、私は必死で掴まれるものにしがみついた。――決して掴まるものかものかと思っていた、ジュールの腰だ。
「俺が手塩にかけて育てた軍馬だからな」
私の悲鳴というか避難を受け、ジュールは何を勘違いしたのか、得意げに言う。
いやいや、褒めてないからっ!
否定したいが、今口を開けば舌を噛んでしまうのは間違いない。
厩舎に足繁く通っていたのは、この馬の世話をするためだったのか。私は腰回りにたっぷりと使われた布はこの振動に耐えるためだったのかもしれないと考えながら、それでも防ぎきれないお尻の痛みに耐えた。
ようやく馬から下りた時には、余韻で地面が揺れているように感じる。
ジュールが用事を済ませる間、馬の毛を撫でて待つ。
ほどなくして戻って来ると、ジュールは近くの湖まで馬を飛ばした。
「船?」
「乗ったことは?」
「ないわ」
母国アミザは周囲を他国に囲まれ、海がない。川は流れているが、流れが速いので船での遊覧には適さなかったのだ。
私の答えに頷き、先に馬を下りたジュールは私に向かって手を伸ばした。
抵抗感はあったものの、すでにしがみつくというみっともなさを披露していたので、私は恐る恐るその手を取った。
軍人である彼のことだ、湖に落とすなんて真似はしないだろう。
じゃあ、私がジュールを船から落としてやったらどうだろう?
突き落とし、櫂で頭を押さえれば、息継ぎが出来ずに溺れてしまうはず。
ぼんやりとした景色が、次第に鮮明になっていく。体中に淀んでいた血液が、流れ出した気がした。
二人乗りの船は、ジュールには狭く感じる。向かい合わせに座り、力強い動きで漕ぐと、船は難なく進んで行く。空は青く澄み、小鳥のさえずりが聞こえる。
娼館の狭い建物の中に籠っていた私には、世界が眩しく見えた。ジュールの屋敷に来てからも空は見ていたはずなのに、どうしてだろう。
「平和だな」
「本当に。戦争があったなんて嘘みたいね」
皮肉だった。
ディダルーシ王国はここ何年も戦争を繰り返してきた。戦争が終結した今、国全体が疲弊していてもおかしくない。だけど、この国の人々には日常の生活があり、物資があり、笑顔がある。国力の差だ。様々な面においてこれほど豊かな国に対立すること自体、アミザ国にとっては無謀なことだったのだ。
今は亡き母国を思い、私は目を閉じた。そして亡くなった人たちの悲しみに思いをはせる。
国の無念は晴らせない。両親の無念も晴らせない。それならば。
私の中には、ある決心が固まった。
「あら、あれは何かしら?」
「珍しい鳥でもいたか?」
私が指差した方向を、ジュールが見る。その瞬間、私は船のへりを掴んで片側に身体を寄せた。
急に重心が変化した船は、大きく傾いだ。
「おい、何をする」
ジュールは少々慌てた様子でバランスを取り戻そうとする。それを見て、私は更に体重をかけた。どうせ殺されるなら、自分から死んでやる。
とうとう船は転覆し、私とジュールは池に放り出された。
ドレスは水を吸って重くなり、肌にまとわりつく。そもそも泳ぎ方が分からないので、息継ぎが出来ず、私はすぐに溺れた。
だけど、これでいい。おそらくジュールが死ぬことはないだろうが、一矢報いることくらいは出来たはずだ。できれば彼の足にしがみついて池の底まで沈ませたいところだけど、ここらが私の限界だろう。
息を絶たれた私は、もがくのを止めた。頭の中が白くなり、何も考えられなくなる。
――これでようやく両親の元に逝ける。
だが、意識を手放そうとしたその時、私は力強い腕に捕えられた。
顔が水上に出るのが分かる。死んでもいいと思っていたのに、私の鼻と口は酸素を求めて喘いだ。
そして腕の持ち主がジュールだとようやく確信する。ジュールは私を岸に連れていこうとしているようだった。
「離して! どうして助けようとするのよ!」
振り解こうとしたが、びくともしない。
「あなたを殺すことに失敗した今、生きてる意味なんてないのよ!」
ジュールは何も言わず岸にたどり着くと、私を引き上げた。
「どうして、どうして死なせてくれなかったの!」
もう、終わりにしたいのに。
私にとって、復讐に燃える七年間は、永遠に思えるほど長かった。ジュールを殺したいのか、自分が死にたいのか、分からなくなる程に。
……そうか。私は、死に場所を探していたんだ。この男なら、私を殺してくれる。そう思って。
私は泣いた。声を上げて泣いた。
ジュールがどんな顔をしているのかは分からない。
だけど、私が泣いている間、ずっと傍にいた。




