94.鏡を見る時間
「バージョンアップ完了だ。さ、飲んでくれ。ぐいっとね。くれぐれもひと息がいいぞ、毎度のことだけど慣れるものじゃあないだろうから苦しまないためにもさ」
忠告と共に差し出した黒樹。それをイーディスは恭しく受け取って微笑む。
「御心配には及びません、たとえどんなに苦しかろうとそれもまたイデア様をこの身に感じること。私にとっては御褒美に他ならないのです」
「あ、そう……君がいいならいいんだが。ま、とにかくそれを体内に仕舞って同調を済ませてしまおう。素のままの君だといくら調整したと言っても、ショーだけじゃなくメルだって何かしら違和感を抱くだろうから」
この二人をいつまでもイーディスのベッドに寝かしておくわけにもいかない。部屋に呼んだ理由は……まあなんでもいいか。不備があってやり直しを命じられたショーの課題を手伝うため、とでもしておこう。それだと普通は図書館なんかに行きそうなものだが、そこらへんは都合よく解釈してくれるはずだ。ちゃんと魔法にかかってくれているならね。
「あーむ、ぅん……」
言われた通り、丸飲みするには少々大きすぎるそれを喉の奥に自ら押し込んでいくイーディス。その表情は苦しげだがどことなく恍惚としているようでもあった。くぐもった声を漏らしつつどうにか所定の位置に黒樹を収めた彼女は、唾液で照った唇を指先で拭いながらなんだか挑発的な上目遣いをしてくる。
「ふう……ふふ。どうですか? イデア様」
「うん、いい浸透具合だ。黒樹だけじゃなく君自身もよくぞ変わってくれた。マニとはまた違う方向性で実に黒樹に馴染んでいる」
それ即ち俺の魔力に馴染めている、ということだ。人体魔化では実現しきれない安全性の確保という難題。黒樹やそれから採れる黒葉を媒介とすることで、いくら調整しても有害極まりない高次魔力でもその残滓程度であれば人の身に取り込ませられる──というのは一応、弟子を実験材料に以前から承知していたことではあるのだが。しかしどうしても魔化ほどの効力はないのだよなぁ。義手として装備しているマニ然り、アンテナとして設置しているこのイーディス然り。特殊かつ狭小的にしか機能を持たせられないのは、魔化と比べて自由度と魔法的強固さが著しく損なわれる点において大いに不満が残る。
とは言っても上々の技術。これができるのとできないのとではそれこそ自由度が段違いなので、不満ばかりを述べるのではなく満足しつつも更なる技術の向上を目指すのが健康的な探究者というものだろう。
そういった目線で質問に答えた俺に対し、イーディスは少しだけ眉をひそめて不服そうにした。
「──イデア様。私、日中にお手洗いへ行った際、ついつい長居をしてしまうんです」
「ん、そうなんだ?」
やや突飛な話題の転換に小首を傾げつつ、頷く。さすがに年頃の少女が用を足す場面においてまで同調するのもどうかと思い、トイレに入る辺りでいつもリンクを切っているのでそんなことは意識したこともなかった。そもそも女性というのは基本、男性よりもそういった場所での所用時間が長くなりがちなものだし……などと考えた俺だったが、イーディスが言わんとしているのはどうやらそういうことではないようで。
「鏡を見る時間が増えたということです」
「鏡だって? それまたどうして」
「同調中の私の顔立ちからは、とてもイデア様を感じることができますから」
「ああ……」
黒髪黒目、という誰の目にも明らかな類似点はあれど。だからとて俺とイーディスは瓜二つと言うほど似てはいない。当然の話ではあるが、顔の造りがまったく違うからね。
しかし同調しているとあら不思議、その相関性は俺と彼女の間に目と髪の色以上の共通点を与えてくれる。目の開き方に眉の動かし方、笑い方。そういった表情や体全体の所作、指先に至るまでの仕草。言わば人物特有の雰囲気というものがぐっと寄ることで、イーディスはイーディスの見かけのままに随分と俺らしくなる。それは俺自身の目から見ても感心してしまうほどで、日にちが経つにつれますます彼女のそっくり度は増していってもいる……きっと洗脳前のクラスメートたちが今のイーディスを見たとしても「よく似た別人だ」と結論付けるであろう程度には、顕著な変化があるのだ。
面白いな、とは思うものの。実はこれ、そんなに歓迎できることではない。よくよく考えずともイーディスの見た目が俺らしくなることにメリットはないし、今後それがますます加速していくことを思うと否応なしに彼女の人生に多大な影響が出てしまう点もまた──いくら本人がそれを問題視していない、どころか喜んでいる節があるとはいえ──懸念すべき部分である。
「同調を解けばまだ君らしくあれる今のうちになんとかすべきなんだろうけどね」
「ですが、妙案はないと仰っていたではないですか。それに私もそんなことにイデア様が悩まれる必要はないと既にお答えしました」
「ふむ……」
一体化する上での弊害。そこはもちろん気にしていたし、どうにかしたいと前々から思っていたのだ。ただイーディスの言う通り俺が求める基準をクリアできるほどの同調を行うに当たってこの副作用は避け難いものであるし、また繰り返しになるがイーディスがそれでいいと言うのであれば、勧めた当人であるところの俺が二の足を踏むのも変な話ではある。
「物言いというか、その頓着のなさも俺のそれに近くなっている気がするな。思った以上に進行は早いのかもしれない」
「物の考え方が変わってきている、とは自分でも思います。そしてだからこそ喜ばしいのです。そこで思い付いたこともありますから……つきましてはイデア様。『影武者』などをお求めではありませんか?」
肩を寄せ合う距離感で熱っぽく見つめながらイーディスはそう言った。なんとはなしに彼女の鼻筋を撫でて、俺は考える。なるほどなるほど、影のイデア新王ね。ある意味ではこれ以上ないくらい王様が用立てるに相応しい人材かもしれない……つまりは日常からしての囮役。イーディスはそれに自分を売り込んできている。
確かに偽ることも演じることもなく容姿も言動も完璧に真似られるとなれば、その者の最適な運用の仕方は影武者ということになるのだろう。けれども。
「そうは言っても君、学生だろう。しかも十二歳の子供だ。仮に俺が雇うと答えたところで学校はどうするつもりなんだ?」
「無論のこと除籍になっても構いません。だって考えてもみてください、イデア様。魔女の御用達の肩書きとステイラバート在校生の肩書き、どちらにより価値があるかなど明白ではありませんか」
「野心家なんだな。自分を飾る錦をもっと上等にしたいから粉をかけるのか?」
「心外です。どうかそう安い動機だと誤解なさらないでください──私はあくまでもあなたのお傍にいることを望んでいるだけなんです」
「まあ、影武者は存在を知られていないことが一番重要だしね。イーディスの気持ちは理解しているつもりだよ。でも、君自身がよくてもジェンド家は大変だ。何せ大切な一人娘だ、自己都合で退学なんてご両親が認めるはずもない」
「娘は私だけですが、ご安心を。うちには弟という一人息子もいますから……どうせ家名を継ぐとすればあの子です。姉の贔屓目抜きにしても賢い子ですから、私が出奔したところでジェンド家には然程の損失もないでしょう」
本気でそう信じてやまない口調だった。うーん、家督の面ではその通りかもしれないけれどそこに親子の情をまったく考慮に入れないのはどうなんだろう……特に仲が悪いというわけでもないようなのに、恐ろしいまでのさっぱり具合である。
それだけうちの王城で働きたいっていう意気込みの表れなのかな? ……だとしても、自己アピールに余念のないイーディスには悪いが俺からするとこの場で了承を返す意義もない。
「残念だけど、今すぐ君を部下に取り立てようとは思えない」
「それは、私がイデア様の欲する人材足り得ないということでしょうか」
「ん……勘違いだらけだな。前に言った人探しっていうのはそういう意味じゃないし、君を雇わない理由も……単純にこの潜入がどういう形で終わるかわからないからなんとも言えないってだけさ。結果次第。君が進路を決めるのはそれからでも遅くないと思うよ」
というか今すぐに決めさせようというのが性急すぎるのだ。話の持って行き方も強引だった。これでは焦って言質を取ろうとしているようにしか思えない……問いかけるつもりで見つめ返せば、案の定と言うべきかイーディスは目を伏せて、罪を白状するかのように内心を吐露した。
「不安なんです。夜が来る度にイデア様はこの部屋からいなくなる。その際には同調も切れて、私とあなたの間に一切の繋がりもなくなってしまう。勿論我が身に眠る黒樹の存在は常に感じています。けれど、眠るのが怖い。朝に目覚めてみればイデア様は戻っておらず、体内の黒樹も消え去って。そうして二度とお会いできなくなるのではないかと……私を置いて何処かへ行かれてしまうのではないかと、そればかりを考えてしまうんです」
「そっか……」
そうやって去るつもりでいたことは言わないほうが良さげだな、これ。さすがに何も言わずにではなくアフターフォローというか、最低限のケアをするつもりはあったけどね。でも彼女を置いていく点に関しては今このときまで変更しようという気もさらさらなかったので、まあ。イーディスの眠りを妨げるほどの不安は的外れなものではなかったと言える。
「わかったよ。そこまで同調に依存しているようならどのみち放ってはおけない──いつのタイミングとは明言できないけれど、いずれ君は王城に招こう。だが、そうなれば新王国は東方の僻地。ここオラールはもちろん、中央にだってそうそう足を運べるものではないと覚悟しておくことだね」
仕方なくイーディスが欲しているであろう言葉を告げてやれば「イデア様!」と感激した様子で抱き付かれてしまった。おいおい、こんな真似は俺なら絶対にしないぞ──とも言い切れないか。俺も歓喜の絶頂にいればやらないとも限らない。が、仮にも影武者志望であれば普段の『イデア』がやらなさそうな行為はなるべく謹んでほしいところだ。
さて。時期未定とはいえ思わぬ新規雇用を果たしてしまったわけだけど、これはセリアたちにどう説明……というか釈明したものかな。




