92.協力者
「お邪魔します……ねえイーディス、本当に私たちも入っちゃっていいの?」
「エントランスまでなら誰でも自由に出入りできる決まりになっているし、寮生の許可があれば部屋まで上がっても大丈夫。だから心配しなくていいよ」
「そーだぜメル。だいたい、イーディスの部屋に行くのはこれが初めてじゃないだろ。前に一回だけ来たことあるの覚えてないのか?」
「あれ、そうだったっけ……? でも女子寮なんだからショーはもっと遠慮するべきだと思うよ」
いつもの如くショーに小言を呈しつつ、どことなく腑に落ちない。そんな表情で首を傾げるメルに、ショーもまた自身の記憶が一段と深い霧に覆われるような感覚を抱いた。イーディスの私室を以前にも訪れたことがあるのは、間違いない。だがそれは果たしていつのことだったか……ごく最近の気もするが、だとしたら寮生が招くぶんには特に入室の制限もないというのに、どうしてそれまではとんとこの場所に足を向けなかったのだろう?
普通科で寮を利用する者は少なく、ショーのクラスで見てもイーディス以外には女子にもう一人のみ。たったそれだけしかいない。主な利用者層である本科の生徒には私室を見せてもらえるほど親しい間柄の者がいないので、自分が寮と縁遠いのは当然と言えば当然であるが。けれどイーディスは物心がつくかつかないか、そんな幼い頃からの付き合いの親友なのだ。彼女を訪ねないほうが不自然だろう。もっと言えば、自分たちであれば入学に合わせて彼女が住むことになる寮の見学も(勝手に)行いそうなものだが、それをしなかったのは何故なのか。
そして、たった一度の訪問。それはいったい何をするためにイーディスの部屋へ訪れたのだったか──。
「こっちだよ」
「!」
思考の迷宮を前にしながらどうしてもそこに一歩踏み出す勇気が持てずにいたところ、耳朶を叩くイーディスの声。メル共々我に返ったショーは階段を上がろうとしている彼女と目が合った。黒いビロードを思わせる柔らかくも固い意思を持った瞳が、早くこちらに来いと言っている。誘われるがままに二人はイーディスに続き上階を目指し、やがてひとつの扉の前で彼女が立ち止まったのに合わせて自分たちも歩を止めた。それはまるで、何も考えずに親鳥の後ろをついて歩く雛鳥のような従順さだった。
「さあ、入って。どうぞどちらも遠慮なく」
イーディスがノブを持って引けば、なんの抵抗もなく扉が開いた。鍵はかけられていないようだ。そのことを不用心だと思う間もなく、脇に立ったイーディスから入室を促されたことで二人は恐る恐る彼女の城へと足を踏み入れた。
「え……?」
広い部屋だった。自分の家のリビングほどはあるであろうその一室には目を引かれる箇所が多かった。宝石のような輝きを放つシャンデリア。びっしりと書籍が押し込まれた本棚。天蓋付きのシングルとは思えぬ大きさのベッド。窓枠ひとつ取っても煌びやかな装飾が施され、どこかの国の王族が使う部屋だと言われても納得できるようなインテリアとなっているそこで唯一、部屋の主が本の虫であることを暗に告げる本棚だけが他一切の雰囲気から若干浮いているようにショーには見えた。
しかし、しかしだ。感嘆しかできない豪華な調度品も、イーディスの勤勉さを示す圧倒的な書物の数も。以前にも目にしたはずのそれらにとても新鮮な気持ちで驚いている自分への訝しみも置き去って、それより何よりもショー、そしてメルの視線と意識を奪って止まないとある『もの』がその部屋にはあった。
それは人だ。窓際に置かれた丸型テーブル、その横の椅子に足を組んで腰かけているのは、紛れもなく一人の少女であった。
瞼を閉じたまま動かない彼女は一見して眠っているかのようだったが、真一文字だった口元に小さく笑みが浮かんだのをショーは見逃さなかった。この子は誰だろう? 品のある色味の黒い髪に落ち付いた気配。外見上の特徴はイーディスと一致するものであり、彼女の部屋で留守を預かっているということは懇意の人物であることは間違いないだろう。……姉妹、もしくは親戚筋だろうか。そんな者が学院内にいるとイーディスから聞いた覚えはない気がするが。
いやそもそも、姉妹以前に両親がいるのかどうかすらもわからない……イーディスの家族構成をまったく知らないことに今になって気付いた。なんで、と明瞭過ぎる謎が彼の中で形を持とうとする直前。
──ガチャリ。
「イーディス……?」
衝撃の事実──彼にとっては間違いなくそうだ──の発覚に背筋を固まらせたショーが聞いたのは施錠の音。背後から響いたそれに振り向けば、そこではやはりイーディスがしっかりと、さっきまで鍵のかかっていなかった扉を固く固く閉ざしていた。何故今になってそうするのか。おかしなことだがショーにはその行為が、外からの侵入を阻むというよりも内からの脱出を拒むような。何者も逃がさんとするための尋常ならざるものに思えて仕方がなかった。
「ちょ、ちょっとイーディス? 何か変だよ……どうしたの?」
メルも不穏さを嗅ぎ取ったのだろう。少し顔色を青くさせながら親友であるはずの少女へと声をかけるが。それに対し、こちらへ振り返ったイーディスが向けてくる笑顔は一目でそうとわかるほどに感情の篭っていない事務的なそれであり──しかしその目が自分たちの奥へと向けられた途端、心からのものであろう陶然とした笑みに変化した。
「お連れしました、イデア様」
「御苦労イーディス」
はっとして二人が視線を戻せば。部屋の奥に座っていたはずの少女がすぐそこに佇んでいた。いつの間に、などと考える余裕はなかった。真っ黒な目。イーディスのそれによく似ているようでまったく非なる、黒く黒くただ黒く。どこまでも底無しの双眸。全てを吸い込むようなそれに捉えられたことで、ショーは我知らず呼吸ごと体の動きを止めていた。隣ではメルも自身と同じような状態に陥っているらしいことをどこか遠くの出来事のように感じながら、目の前の少女が何者なのか。その疑問ばかりがぐるぐると脳内に渦巻く。
同学年女子の中では小柄なほうのイーディスよりもいっそう小柄な、細身で、露出している肌以外は何もかもが黒一色で出来ているこの少女のことを──イーディスは今『イデア様』と呼ばなかっただろうか?
イデア。去年からこの名はステイラバートの学生たちにとって……否、メギスティンのみならず全世界の魔法使いにとって特別な名称となった。イデア新王国。長らく、本当に長らく謎の多さと実在の真偽についてしか語られてこなかった魔女の一人『始原の魔女』が己が名を冠して設立した新国家の話題はあまりにセンセーショナルで、遠く東方僻地のことでありながらこの魔法国においても大きく報じられたものだ。事実、ステイラバートでも早速「魔法史実」や「魔法現代論」の講義内容に手が加えられたほどだった。
魔法史実については習っているのが序盤も序盤で、現代論についても受講できるのが四回生からなので、現在三回生のショーは院内でも『始原の魔女』について特段に接していない側の生徒ということになるが。しかしそれでもその名がどういう意味を持つかくらいは理解できていたし、また、彼女の外見についてもある程度は知識として仕入れていた。
曰く、漆黒の髪に漆黒の瞳で。何故だか揃って少女の外見である『魔女会談』の一党においても、一際にあどけのない容貌をしているのがイデアであると──。
「俺を見ろ」
艶やかな桃色をした小ぶりの唇から、意外なほど低い声で。けれど何故だかしっくりとくる口調と勇ましい一人称で少女はそう命じた。無論、ショーはそれに迷わず従って食い入るように彼女を、彼女が差し出した指先を一心に見つめた。
「いいぞ、そのまま集中しろ。お前たちは何も考えなくていい」
ゆるゆると揺れる白い指。誘蛾灯に引き寄せられる羽虫のような眼球の動きでそれを追いかけるショー、メルはそうするうちにどんどんと思考能力を失い、とうとう自我と呼べるものすらなくなったところでパチリと指が鳴らされる。それがあたかもスイッチだったかのように二人の意識はそこで途絶えた。──暗闇に沈む直前、ショーは母のそれにもよく似た優しい声音の「おやすみ」を聞いた気がした。
◇◇◇
「ふむ。ま、これでいいだろう」
床に倒れた二人の様子をしばし確かめて、満足する。ちゃんと魔法は成功しているようだ。
「かけ直しはもう完了してしまったんですか?」
伸びているショーとメルの間を、彼らに対する関心など少しも感じさせない足取りでしゃなりと歩いてきたイーディス。その残念そうな雰囲気に疑問を持ちつつも、俺は肯定を返した。
「うん、上手くいったよ。これでもうショーの思考がジャムることはないはずだ。ついでにメルのほうも合わせて調整できたし、タイミングとしてはちょうど良かったかも」
「それなら良いのですが……しかしイデア様の魔法にかけられておきながら、ショーが違和感を抱いている様子だったのはどういうことなのでしょう?」
うむ。これまでにも度々そういった反応が見られたが、今朝にはいよいよ無視できないレベルになっていたのでこうして急遽放課後に幼馴染コンビをここまで招くことにしたのだ。整えるのに割と手間暇かけたこの環境を彼に壊させるわけにはいかない……まあないとは思うが、しかし万が一にもショーの記憶操作が解けてしまったらと思うと今日一日は気が気ではなかった。だからといって授業時間に俺がこっそり接触するというのも、調整となるとこうして対象が昏倒してしまうことを思えば実質的に不可能であるからして、自分の足で俺の下まで来てもらう他なかったのだ。
で、どうして緊急の調整を要したかと言うと。
「ショーの才能だろうな。精神系に強いんだよ、この子は。伸ばせばきっといい使い手になれるだろう……本人はリンドールのような呪文の撃ち合いに特化したスタイルに憧れているようだけど」
メルと同程度のかけ方ではショーには少しだけ足りなかった、ということだ。だから今回はもうちょっと深く魔法を差し込んだ。いくら耐性があろうとまだ育ち切っていない才能だ、もう彼が妙な顔をしてイーディスを見てくることもないだろう……おそらく。
「ではこれで露見する心配がなくなったのですね──私がつい一月前までは彼らと挨拶程度でしか言葉を交わしたこともないような、単なる一クラスメートの間柄でしかないという事実は」
そう言って、俺がこの地で得た善意の協力者。イーディス・ジェンドはふわりと笑った。




