87.ステイラバート魔法学術院
「遅いよショー! このままじゃ遅刻しちゃう!」
「だから悪かったってメル、今日提出の課題があるの忘れてて徹夜したんだ!」
「それって課題忘れてたことと私を待たせたこと、どっちの謝罪なのっ?」
「どっちも!」
もう、と呆れる幼馴染に笑みを返しながらショーは走る。魔力による身体強化で脚力を高めている彼らは、雑談を交わしながらでも難なく坂道を駆け上がっていった。目指すのはこのスロープの終点に佇む大きな門。そこを通り抜けた先に広がる、二人が生徒として通っている『ステイラバート魔法学術院』である。
「ショーは明日から寮にしたらいいんじゃない? 街のほうだとこうしてしょっちゅう慌てるんだから」
「寮だと学費が高くなるだろー? 家じゃ払えないって。それに俺だけ寮住みになったら新しい目覚ましまで用意しなくちゃだし」
「目覚まし……? あっ、私のこと!? 毎朝起こしてあげてるのにそんな言い方するなら、明日から一人で行くからね!」
「へへっ、冗談冗談! そんな怒んなってメル!」
学術院の敷地内にある、城の如き景観の立派な寮。学術院の生徒になれたからにはそこに自分の部屋を持つことも憧れのひとつではあるが、そうすると学期ごとに支払わなければならない学費がぐんと嵩む。入学が認められた者にはその才能と成長を担保として学術院は雀の涙も同然の額しか要求しないものの、しかし払える家庭からは遠慮なく徴収せんとし、講義を受けられる以外の環境──言うなれば学ぶのに必ずしも不可欠ではない諸々のこと──も望むのであれば高額を突き付ける。そういう形式を取っていた。
寮に入れるだけの経済的余裕がある生徒を羨まないわけではなかったが、ショーは通学路を走る朝もそう悪くないと思っている。一人ならばともかく、隣にはメルもいるのだ。家も同じくお隣さまで、共に一般的な家庭からの出。そして生まれた年も入学の年も同じ。幼いころからずっと一緒にいる彼女はショーにとってもはや半身のような存在だった。
いよいよ正門が見えてきて、規定時刻を過ぎれば生徒の素通りを阻むそこがまだ大きく開かれたままでいることに安堵しながら、ショーはしみじみと言った。
「でもほんと、メルと通えてよかったぜ。俺一人だったら遅刻やら何やらでとっくに退学になってたかも。持つべきものは真面目な幼馴染だな」
試験に合格する。という最低限のハードルさえクリアできれば満六歳以上の者なら誰でも生徒になれるのがステイラバートの良いところだ。筆記、実技、面談の三要素からなるこの試験は難度で言えばそこまで高いものではないが、しかし生涯二度までしか挑戦できないとなれば受験者にかかるプレッシャーは重い。メギスティン魔法国には他にも名だたる魔法学校がありはするが、しかしここ首都オラールに構えられたステイラバートこそがその最高峰。他の学校とは一線を画した伝統と実績があるために、同じ魔法使いの見習いと言えどステイラバートとそれ以外の生徒に明確な差があることは公然の事実であった。
入学が許されれば最短で六年、最長で十二年(+α)の学校生活が待っている。晴れて卒業が認められ、そのままオラールの中心市街を挟んで反対側にある魔法省に務めるのが典型的なエリート街道だ。六歳で入学し十二歳で卒業、そして魔法省に入り二十歳までにひとつの課か室をまとめる立場に昇り詰めること。これこそが『誰もが認めるエリート魔法使い』の最も正道なる条件……なのだが、当然こんな進路をストレートに通れる者など優者揃いのステイラバート生と言えどもそうはいない。長い歴史をひっくり返しても現在の省長、あるいは学術院長などにしかその類似例が見られないことを思えば、これがどれ程に図抜けた才覚を要する険しい道のりであるか窺い知れることだろう。
ショーとメルは九歳時点で入学試験を通過し、今年度三年生(正式には三回生と表記する)になった。現在共に十二歳。先の例で言えばもう卒業の歳であるが、三年後にもまだその資格は得られていないだろうとショーは己を──そしてメルのことも──正しく分析できている。そしてそれについて別段の焦りもなかった。
何せ学ぶことは楽しい。課題やテストの常軌を逸した多さ、一部の嫌味な生徒たちとの付き合い方にはそれなりに悩まされているものの、そういったうんざりする部分があっても充分に素晴らしい学び舎がこのステイラバートである。そこにこうして幼馴染兼親友でもあるメルと共に通えているということが、ショーにはなんとも言い難く嬉しいものであった。
改めてそう思ったことで深く感慨を抱く彼に、しかし少女のほうは「いけないんだ」と失言を咎めるような口調で言った。
「ショーったらまたそんな言い方して」
「え、どういうことだ?」
「だって、もしも私がいなくたってショーは一人にならないでしょ? あの子がいるんだから」
あの子? そう聞き返すよりも先に校門をくぐった二人は、ここまで走り通しだったこともありまずはそこでひと息をつくことにした。冷静に考えればこんなに急ぐ必要はなかったな、と小走りで教室を目指す他の生徒たちを眺めながらショーは軽く額の汗を拭った。寮に入らずともせめて学校までの運行車を利用できればもう少し楽なのだが、そちらはそちらで寮費ほどではないが使用料が馬鹿にならない。
(ま、俺たちにはやっぱ足での通学が一番ってことだな)
「──おはよう、二人とも」
ショーがそんな風に納得していると、穏やかな声で挨拶をされた。反射的にそちらに視線をやれば。
「おはよう、イーディス! 今日も待っててくれたんだ」
「いつもより遅いから少し心配したよ。何かあった?」
「ううん、ただの寝坊。もちろんショーのね」
なんだ、それならよかった。とメルと親しげに話す人物。メルよりも小柄なその黒髪黒目の少女は、納得したように小さく微笑んだ。それを見てショーは。
(え、誰──ああ、なんだ。イーディスじゃないか。俺の『もう一人の幼馴染』の……)
そうだ、自分たちは仲良し三人組。イーディスだけ入学に際し寮住まいとなったが、朝はいつもこうして一緒に登校すべく校門で待ってくれている、心優しい女の子だ。……はて、メルとは幼少の折よりの付き合いだが。そういえばイーディスとは何をきっかけに知り合ってこうも仲良くなったのだっけ……?
「それより聞いてよイーディス。ショーったらね、さっきまるでイーディスのことを忘れているような口振りだったんだよ」
「っ、」
どきり、とショーの心臓が跳ねる。なんてことを言ってくれるんだ、メルは。自分でもどうしてメルと同じくらい大切に思っている少女のことを思い出さなかったのか不思議なくらいなのだ。そんなことを言われたらイーディスとしても面白くないに違いない。案の定それを聞いた彼女は「ふうん……?」とゆっくりこちらに近づき、そして顔を覗き込んできた。
そこにあるのは一見して純粋な興味のようだったが。ショーとしては罪悪感があるだけに、その黒漆を思わせる黒い瞳の奥に見咎めるような含みを勝手に感じ取ってしまう。
「わ、悪かったよイーディス。寝ぼけてる上に大慌ててだったもんだから、つい……別に忘れてたってわけじゃあなくてさ」
「…………」
(あれ……?)
じっと。黙って見つめられる気まずい時間の中でふとした一瞬、彼女の両眼に昆虫めいた無機質さが混ざったような気がしてますますショーは居た堪れなくなった。が、次の瞬間にはもうその不穏さも消え去って。
それからすぐにイーディスはにこりと笑いかけてくれた。
「謝らなくてもいいよ、ショー。細かいことを気にしないのが君のいいところだって、わたしは知っているからさ」
「お──さ、流石はイーディス! 俺のことよくわかってくれてるぜ。ちょっと待たせたくらいでぐちぐちうるさいどっかの誰かさんとは大違いだなー」
「ショー! 私も怒るときは怒るよ!?」
お前はいっつも怒ってんじゃん、といらぬ言葉を漏らしたショーにますますメルは立腹したが、それをまあまあとイーディスが取り成す。そうだ、これだよ。これが俺たちのいつもの光景じゃないか──どこからか漂っていた妙な違和感の匂いも消えて、ショーは安心する。やっぱり徹夜はよくない、さっきまでの自分はどこかおかしかったのだ。こんなにもしっくりくる三人の並びに、まるで異物が入り込んでいるような奇妙な感覚を抱くなんて……。
「? どうした、イーディス」
そろそろ教室に足を向けようとする中で、イーディスがまた自分を見ていることに疑問を持ったショー。そんな意味深なことをされては何も言わないだけで実は怒っているんじゃないかと気になってくる。もしそうなら、ちょっとしたことでもすぐに口や手に出るメルよりも、普段は滅多に厳しいことを言わないイーディスのほうがずっと怖い。
焚き付けた側であるメルも心なしかおっかなびっくりの様相で見守っているものだから余計にショーも緊張させられたが、しかし二人の懸念とは裏腹に当のイーディスはあっさり首を振って。
「いや、なんでもない。それより早く行こうか。今日は確か、一限目から体を動かす授業だったんじゃなかったかな?」
「あ、そういやそうだった! 間に合ったからってのんびりしてられないぜ、急ごう!」
「えー、また走るのー!?」
「ふふ、わたしは遅刻してみてもいいけどね。どういう風に叱られるのか興味がある」
「うわ出た、優等生なんだかそうじゃないんだかよくわかんない台詞だ」
「イーディスってそういうとこあるよね」
などと軽口を言いながらいつもと変わりない様子のイーディスに二人は内心でホッとする。そうしてショーが先頭切って走り出し、メルがその隣に並び、すぐ後ろからイーディスも続き今度は三人で教室まで共に駆けることになった。これもまたよくある光景だ──そう思うショーの頭の片隅にはやはり何か、上手く言語化できないモヤのようなものがあったけれど。彼がそれを気にすることはもうなかった。
(だってイーディスが言ってくれたじゃないか。俺はそう、細かいことなんて気にしちゃダメなんだ──)
もう一人の幼馴染兼親友の黒い瞳が、まだ自分の後頭部に向けられていることにショーはついぞ気付かなかった。




