71.魔女と魔女の戦争
居館最上階にある執務室。そこで一通り必要な書類へのサインを終えたイデアは、その束をマニに持たせ、ひとつ下の階でセリアも含めた五名が大わらわとなっているであろう政務室へと運ぶように言いつけた。
この国における地方公務員とでも呼ぶべき街々に置かれた市衛への各地の領主と協力しての定期監査──イデア政権から始まったものであり、つまりはこれが第一回なのだが──と、思いのほか調整に気を使う事項が多かったスエゴスヴェリカ間の取り持ちが完全に重なったためにさしものモロウ、ダンバスの俊英官僚においても物理的な採決の手が足りず、現行は取りも直さずひっ迫状態だった。
そんな状況故に国王たるイデアもまた仕事に追われる時間の割合は平時よりも増していたが、しかし何重にも及ぶ取捨と採択の濾過を経て上がってくるそれらは政務室が処理している膨大な作業量のごく一部の、そのまた上澄みでしかない。普段より忙しいと言っても机に噛り付くほどではなく、また身の回りのことは全てマニがしてくれる。城内で最も暇な人間とは間違いなく自分のことだとイデアは自信を持って言えた──平時においてもそれは特に変わらないのだが、そのことについて誰にともなく謝りたくなる気持ちはとっくに失せている。人とは良くも悪くも慣れるものらしい。
んー、と凝ってもいない背筋を伸ばしてイデアはひと息ついた。マニが戻ってくればその手にはまた新たな書類が持たされているのだろうが、もしも運よくそれがなければ。時間帯も昼下がりと丁度いいことだし、そろそろ小休憩といこう。そう決めてゆったりと椅子から立ち上がった彼女は、この忙殺期間が終わり次第スエゴスヴェリカへ足を運ぶことになるのだろうな、とぼんやり先のことを考えていたが。
「……?」
思考が『今』に引き戻される。予兆。予感。あるいはただの勘。このときのイデアの精神は凪いでいた。ステイラの兵団を前にした際のような戦闘へのスイッチが入った状態でもなければ、愛弟子ノヴァに挑まれた日のように上機嫌でもなく、完全に素の状態。いくら長きを生きる魔女と言えどもなんの警戒もない状態からそれを感じ取ることは本来不可能だったはずだが、しかし彼女は何かに名を呼ばれたようにして上を向いた。
無論、そこには執務室の天井があるだけ。それ以外の物は何も目に映らない──なのに、イデアはこの直後に起こる出来事を確かに予見し、そしてぽつりと漏らした。
「これは良くないな」
彼女がそう言い切るかどうか、というタイミングで居館に『巨大な何か』が突き刺さった。
王都中に響くような轟音と衝撃。襲いくる圧倒的な暴力に耐え切れず居館は中央からへし折れて、まるで砂上の楼閣よろしく呆気なく崩落してしまった。
◇◇◇
「くっくくく……笑えるぜ。『魔女会談』の責任者様発信のこの臨時会。俺も仕方なしに来てやったってのに、それでも出席者がたった三名ぽっちとはな! いつにも増して酷い有り様じゃあねえか──なあ、お前も同意してくれるだろ?」
「…………」
無表情のポーカーフェイス。それで隠しているつもりでもしっかりと苛立ちが伝わってくるその様子に、アビスはますます可笑しそうにする。あからさまな嘲笑を受けたその相手は、しかし下卑た揶揄いに反応することはなかった。それは余計にアビスを喜ばせ、その口から要らぬ挑発を吐かせるだけだと承知しているからだ。
故に彼女からの問いかけには答えようとはせず、逆に自分から質問を投げかけた。
「アビス。……あの子はどうしたの?」
「俺の名を軽く呼んでくれるなよ……で、あの子ってのはなんのこった?」
「決まっているでしょう。肩を並べてやってくるなんて思ってはいないけれど、同じ地方に座す魔女同士。この場にいないことについて彼女から何か釈明を預かっていないかと訊ねているのよ」
「ハン。聞くまでもねーことをわざわざ聞きたがるとはとんだ変わり者だ。いいぜ、オレの口からはっきりと言ってやろうか。オレがいるからだよ! あのビビりが堂々と欠席かますなんざそれ以外に理由はねーだろ? オレの参加を知った途端いつも尻尾巻いて雲隠れしちまうんだからな」
「つまり、出席率の悪いあなたが珍しくも真っ先に参加表明をしたことで、毎回欠かさずに出席しているあの子のほうが今日は欠席するに至ったと。──それだけが理由だと言うのね?」
「あぁ、勿論だ。ひょっとして期待した答えとは違ったのか? だとしたら悪かったな、ご希望に沿えずに」
「アビス──」
「おい、二度目だぜ。気安く人の名を呼び捨ててんじゃねえよ……死にたいのか?」
「………」
ギラギラと剣呑に輝く黄金の瞳でねめつけ、直球に過ぎる脅しをかける。そんなラフなボールを受けた少女は押し黙った。が、それは決して臆したからではない。むしろ彼女は向けられた以上の怒気を放ってアビスを睨み返していた。どちらも視線を逸らすことなくしばし危うげな沈黙が続き……場をひり付かせる痛ましいまでの静寂を先に破ったのは、その原因を作ったアビスのほうだった。
「へっ……そう気色ばむなよ、晴嵐の。オレだって馬鹿じゃねえんだ。この臨時会がなんのために開かれたものかは忘れちゃいない──東方。目覚ましいなんて言葉じゃ足りねえほどやにわに行動を起こし始めた『始原の魔女』への対応。それこそが本題であり急務だろう? この状況で妙な火種を持ち込んだりなんかしねえよ」
「どの口が。あなたはむしろ嬉々としてそれをやる側でしょう」
「おいおい! 仮にも円卓を囲う数少ない仲間の一人に対してリーダー様がなんたる言い草だよ。そんなに信用ならなきゃ追い出してくれたっていいんだぜ?」
「そんなことできるものですか──あなたの場合、野放しにするほうが遥かに危険なのだから」
「言ってくれるねえ、晴嵐……くっく。まあ大目に見てやるよ。それでこそ会談を率いるに相応しいってもんだぜ」
皮肉を隠しもせずに笑うアビス。彼女とやり取りを続けても埒が明かないと判断した『晴嵐』ことクラエルは、円卓につくもう一人へと視線を移した。
「ルナリス。あなたのほうの相方はどうしたの?」
「──相方、と言うとまるで彼女と私が連帯の関係であるかのようで甚だ不本意ではありますが。一応、こちらは言葉を預かっているのでその旨を伝えさせていただきます……『今回は気が乗らないからパス』、だそうですよ」
うっすらと。品性の欠片もないような台詞を臆面もなく自分に運ばせたその者を心から馬鹿にしていることが明らかな、細く冷たい笑みを浮かべるルナリスに、クラエルは頭痛でも患っているような表情で眉間に手をやった。
「……そう。つまりいつもの悪癖というわけね。確認が取れたのなら何よりだわ。まったくなんの情報もないよりはマシだもの」
とでも思わなければやっていられない。そう言いたげな重い顔付きでクラエルはいつも以上に空席の目立つ円卓を今一度見回した。席は等間隔に開いて七つ。うちひとつは会談発足以降一度たりとも使用されたことがないが、それは常の通り。しかしそこを例外だとしても、まだ他に三つも埋まっていない席があるのは由々しきことである。特に、アビスともルナリスとも担当地方の異なっている最後の一人。『南方の魔女』においては、その事情に通じている者がこの場にいないという点で他の欠席者よりも尚のことクラエルを参らせていた。
円卓に座っている者ばかりでなく、この天空議場にはあと四人の顔触れがあった。魔女それぞれに付いている各賢者と、会談の進行役のみに従事する中央賢者である。彼らには会談中の発言権がなく、それが許されるのは参加者たる魔女から許可を得ること──つまりは会話の矛先を向けられる必要があり、自ら口を開くことはできない。その決まりがあるから普段は積極的に賢者にも話を振るクラエルだが、けれど今ここに最もいてほしい一人。南方の魔女の直下たる彼女までもが不在であるならば円卓外へ声をかける意味もない……ということもなく。
「どう、オレクテム。そろそろ掴めた?」
「──ええ、たった今見つかりました」
己が魔女のすぐ後ろに控える他の賢者とは違い円卓を広く見渡せる位置にいる彼の返答に、クラエルは満足げに頷いた。中央賢者の面目躍如である。彼は魔女の魔力を追うことができるのだ。
足跡を辿るまでが少しばかり遅く、また円卓に登録されたメンバーのみという限られた範囲の探知ではあるが、魔女ですらも大半がその目から逃れるのが容易ではないとなればまさしくオレクテムは賢者側における会談の責任者に相応しい人物だと言えるだろう。此度も彼はその任に違わず、無断欠席の問題児を見つけ出してくれた。それでひとまずの安心を得たクラエルは、だがすぐその眉間に皺を呼び戻すことになった。
「クラエル様。これは少々拙い事態やもしれません」
南方の魔女の居場所。そして向かう先がどこであるかまで看破したらしき中央賢者の淀みなくも小さな影が落とされたその声に、その訳を聞かずともクラエルには大方の想像がついてしまった。
「まさか。あの子の行き先は──東方だとでも言うの?」
「はい。今まさに東方の僻地、旧リルデン王国へ辿り着かんとしているところのようです」
「……っ、」
なんということだ、とクラエルは今度こそ頭を抱えた。東方圏の急激な変化。だけでなく、南方にまで拡大し始めた始原の魔女の影響をいち早く察知し、こうして臨時会を開いたのは主として南方の魔女を宥めるためだった。だというのにこの始末。何故あと一日待ってくれなかったのか。あるいは、何故もう一日早く話し合いの場を設けられなかったのか。
苛立ちと悔悟に苛まれ言葉を詰まらせる彼女とは裏腹に、ルナリスは頬に手をやりながらやれやれとため息をつき、アビスは大口を開けて哄笑を上げていた。
「彼女にも良くない癖が出てしまったようですね……なんともままならないものです。既に接触間近だというのならもはや防ぎようがありません。これでは確実に始まってしまうでしょう──」
「はっはっは! もう動きやがったとは流石プッツン女、わざわざ焚きつけに来るまでもなかったな。あいつなら躊躇なく始めてくれそうじゃねえか。オレも俄然に楽しみになってきたぞ──」
──魔女と魔女の戦争が、と。
その部分だけ図ったように重ねられた二人の文言に、クラエルは強く視界を閉ざして首を振った。
ここから他の魔女とも本格的に関わっていきませう
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