55.君は不死じゃない
「やるじゃないか、フラン君」
「っ……!」
ようやく戻り始めた視力で声のするほうを確かめれば、そこには黒のローブをなびかせて佇む魔女の姿が見えた。彼女はにこやかに片手を上げている。それは今し方まで自分の肩に置かれていたものだろう。
「痛かったよ、手。魔力暴発による自爆で逃れるとはね……ちょっと変則的ではあるけれど、食らってしまったからには仕方ない。有効打ふたつ目としておこうか」
魔力暴発。それは魔力酩酊に次いで魔法使いの未熟を示す通例のひとつ。酩酊という危険信号も無視して一度に扱える以上の魔力を生み出そうとしたり、あるいは魔法式の作成がそれを爆発物に変えてしまうほど酷く破綻していた場合に起こる事故である。通常は失敗によって引き起こされるこの事象が、しかし今回に限っては意図的なものであったろうことはイデアにも想像がついている。
フランは魔化から逃れるために故意の事故を誘発させたのだ。かなりの無茶ではあるが、身動きも取れなければ魔法も使えない危機的状況から見事に逃れてみせたのだからその決断力は認められて然るべきであろう──しかし。
「俺の魔力は君の体に残らないようにしたが、自爆の代償はそれなりだろう。まだやれるか?」
「や、やれます。自分はまだ戦えます!」
魔力暴発の衝撃によって内側からダメージを負ったフランの身体は、彼が体格や体力に恵まれていないこともあって相応に深刻な状態となっていた。命に別状があるようなものではないが、しかし戦闘を行うことなどもっての外だ。これがただの訓練であれば大人しく療養を取るのが正解に違いない。けれど、あとひとつ有効打を得られないことには王城入りの話がなしになってしまう。そう思えば痛みを無視して「まだやれる」とフランが訴えたことは、強がりと言うよりも切実な懇願にも等しいものであったに違いない。
彼のノータイムの返答に、イデアはうむと頷いた。
「いいガッツだ。ならその意気込みついでに言わせてもらうが……フラン君。俺は君の実力が見たいと言った。それは覚えているよな? うん、よろしい。その上で訊くが──何をまだ恐れているんだ。君が何をしようが、君に何をされようが俺は死なないよ。怖がらずに全てを見せてごらん。そうでないとフラン君がいくら有効打を重ねたところで、この勝負に意味なんてなくなってしまう」
「……!」
まさしくその通りだった。全力を出してはいても本気ではなかった──始原の魔女と相対している興奮で自分でも気付けなかった、されど確かな事実を指摘されフランの心臓は跳ね上がった。
恐れている、のだろう、自分は。もしも本気になったことでイデアを傷付けてしまったら。あまつさえ殺めてしまいでもすれば、自分はもう生きていけない。唯一神も同然に信仰している相手なのだ、それは抱いて当然の恐れであった。木っ端の魔法使いであればともかくこのフランはそう自惚れるだけの実力があるのだから……けれど、今ばかりは。
神の如き相手がそうまで己の全てを見たいと仰せならば。
「──わかりました、イデア様。どうか自分を……よろしくお願いします」
「ああ」
朗らかに返事し、イデアは歩き出した。無用心なまでの散歩の如き歩調──ただしたった数歩で触れ合える距離だ、先のようにこのまま接近を許してしまえば今度こそフランは戦うどころではなくなってしまうだろう。それを避けるためにはどうするか。遠距離攻撃に頼るか、もう一度拘束から入るか。しかし一度見せたもので魔女の歩みが止められるとはとても思えないし、第一この時点で既に互いが近すぎる。だとすれば、フランの採れる策はひとつだけ。
何があろうと普段は決して使わないようにしている、自身の切り札にして一番の得意呪文を切ることだけだった。
「!」
ここで初めて。フランに対してイデアは心底から驚かされた──彼の身が、溶岩に溶けた。否、彼自身が『溶岩そのもの』となった。
流石にこれは予想外だった、と目をぱちくりとする彼女とは反対に、それが既知であるセリアとミザリィは場外で共に複雑な表情を浮かべていた。溶岩化の無名呪文。名称呪文と両立しないはずのそれを兼ね備えている異質さもさることながら、ミザリィの壁抜けと比較してなお特異かつ強力に過ぎるその能力は、実戦形式の講義で彼女たちが一度も彼から引き出せなかったものだ。それを相手にまだしも戦えていたのは学校長ただ一人のみ。当時何度も味わった本物の『天才』というものを目の当たりにした際の疎外感にも似た虚しさが、程度は違えど今もまた二人の胸に去来していた。
そも、学校長ですらも対等に戦えていたとは言い難い。彼が得意とする戦法との相性も良くなかったものだから、その訓練で行っていたのは戦闘というよりもフランのガス抜き兼、経験を積ませること。つまりは元から戦いではなく、やはり彼に自分自身の力を制御させるための一環でしかなかった。
ただし光景こそあのときと似通えど、いま対峙しているのは学校長ではなくイデア。彼女ならばどうするのか──どうしてくれるのか。知らずのうちに動機不明の期待を込めて見つめる彼女たちの視線の先で、やはり始原の魔女は始原の魔女であった。少年の変貌に目を見開きながらも足を止めることはなく。そして彼女は小さく笑ってみせた。
「なるほど。これは褒めそやされるわけだ」
ぼごぼごと体積を増やしていくフラン。その増加は右腕に集中している。アンバランスの一言では済まされないほど大きくなった彼の腕が振り被られると同時、イデアは高濃度の魔力で体を覆った。そこに叩きつけられる溶岩の巨腕。じゅおう、と泥のように濃密な彼女の魔力が灼かれ、突き破られる。その直前に地を転がって攻撃範囲外へ出たイデアのすぐ傍の地面が瞬く間に焼け焦げ、焦土もかくやという有り様になる。
それをちらりと確かめながら立ち上がった魔女は、物は試しとばかりに鳥型の魔力弾を発射。しかし当たったそれは何事もなく彼の肉体を素通りしてしまう。撃たれたことなど気にも留めず今度は左腕も巨大化させて更に攻撃範囲を広げようとしているフランの異様を眺め、イデアは深く得心する。
戦えば殺してしまう。その言に嘘はなかったし、また誇大でもなかった。確かにこれでは魔法使いであれど常人など一溜まりもないだろう。
ミザリィを知り、無名呪文を知り、それが魔法使いにとってどういうものかも知った今、イデアはフランフランフィー・エーテルの実力を概ね正しく把握しつつあった。その上で彼女は認める。この溶岩化の無名呪文は、セリアたちよりも自分側に近い質を持つ魔法であると。
そのことには素直に感心し、尚のことフランを欲したイデアではあるが……けれどそこに不満点がひとつ。溶岩化を発動させた途端に生じた、彼の表情の変化。僅かではあるがしかし確実に、そして溶岩で形作られていても明確に見て取れたその変化に彼女は眉をひそめた。
「いけないな、それは」
「!」
両腕の振り下ろしを、まるでそれがいつどこに落ちてくるのか読み切っていたかのように無駄のない動きで懐へ潜り込むことで回避した魔女に、フランは肥大化させた溶岩の腕から本来のサイズの腕を引き抜くことで即時の追撃を行った。
腕だけでなく彼の全身が溶岩なのだ、近づかれたところでもう触れられることは怖くない。が、始原の魔女を相手にどんな理由があろうとも油断してはいけないだろう。なのでまた距離を取り直すだろうと予想しながら突き出したその腕に、なんの恐れもなく彼女が進んで飛び込んできたことにフランは驚愕した。
焼けて溶ける魔女の肉体。顔も胸も腕も、溶岩に曝された彼女の何もかもが灼熱に消えていく──その感触をしかと味わいながら、なのに魔女が何事もなく、がしりと。逆にこちらの腕を掴んできたことで奇想天外の連続にフランはもはや訳がわからなくなった。
溶けているのにどうして溶けない。そして溶岩体には物理的な作用を受け付けない副次効果があり、素手で掴むことだって本来は不可能。そのはずが、どうして魔女は当たり前のようにそれができているのか。
降り落ちて立ち昇る熱波の中、聴こえるはずのない声がする。
「攻防一体の良い呪文ではあるが、忠告まず一個目。最強の矛と思い込むな。溶けた傍から俺の肉体は『直って』いる。それは実質溶けていないのと一緒だな? 同じことができる奴はそういないと思うけれど、溶岩化を武器にするならこういう手合いがいる可能性も想定しておいたほうがいい。まず他にも防ぐ手段はいくらでもあるだろうし」
「……、」
「そして二個目。最強の盾と思い込むな。溶岩と化したフラン君は安心し切っている様子だが、それは慢心と変わらないよ。君は不死じゃないし、その呪文は無敵でもない。あくまで君が構築した魔法式で実行されている限定的な力に過ぎない──そしてそれは、俺の手が届かないものじゃあない」
「……!」
慢心。否定できない言葉だった。溶岩化を果たしたフランの感情はいつも必ず昂る。それは生身では味わえない感覚からくる高揚であり、否応なしに力に満ちた己を実感することで襲い来る全能感でもあった。神にも等しい始原の魔女を前にもその力に溺れていなかったと言えば、噓になるだろう。実際自分は『触れられることは怖くない』などと考えていたのだから。
その代償は、故意の自爆のそれよりも遥かに重かった。
「ま、待って──待ってくださ、」
「いいや待たない。これで捕まるのは二度目なんだ。迂闊が過ぎるぜ、フラン君」
「あ……」
生身と溶岩体の、両方の感覚。相反するはずのそれらを初めて同時に感じながら、イデアの魔力が全身を巡り根を張り、吸い上げられていくのをフランは自覚した。奪われる。直感的にそう悟った彼の戦慄に過たず、イデアの身を焼き溶かすはずの溶岩体は音を立てて逆に彼女の肉体へと吸われ始めていた。
魔力暴発すらも魔女の制御のうちに抑えられ、もはやフランになす術など残されておらず。やがて彼の肉体は完全に力を失いぐったりと地面に横たわることとなった──その胸の内は、これもまた彼が初めて味わう無力感に占領されていた。




