239.涙の味から始まった
◇◇◇
私は涙の味から始まった。
オルトーにより作られ人の体へと埋め込まれ。そうとは知らずに人間を脈々と、転々と続けて生き続けて。自覚なく世界を記録し続けていた私が私に目覚めたのはオルトーが命を落とした日。彼から与えられた使命が宙ぶらりんになったその時が始まりだった。
気付けば涙に塗れていた。あとからあとから溢れてくるそれの原因はわからない。父の死を悲しんでいるのか、自我の芽生えに恐れているのか。それともそれらの逆なのか。私には判断がつかなかった。世界すら一変して見えた。色味なく、ただ淡々と。命じられたままこの目に映してきた世界──父の創り給うしこの箱庭。天使が名付けた実存世界という場所がひどく恐怖の対象となったのを覚えている。どうすればいいのか、何もわからなかった。愛すらなく投げ出された道具に見えるものなどあるはずもなかった。
もはやその必要もないというのに世界を見て回らんとする私は、きっと義務に死にたかったのだと思う。なんのために生み出されたかを知り、それが意味もなく終わったからには、生みの親を追うことが正しいと。そんな風にしか考えられなかったのだろう。当時の混乱しきった自分自身の思考をトレースするのは非常に困難だが、とにかくその頃の私が未来など求めていなかったのは確かだ。むしろ先の見えぬ生を唾棄していた。早く役目を終えねばとそればかりを目指していて──そして塗り潰された。
二度目の目覚め。私が真に私となったのは、世界に天使が舞い降りた日。神の居住たるエイドスからイグジスへとイデアが落ちてきたその時だ。
安寧の生け簀に未知の生き物が飛び込んできた。私の見てきた世界が瞬く間に塗り潰されていく様を目の当たりとして、見せつけられて。そのときいったい何を感じたか。などと、それは言語化できるようなものではなく。支配者たる竜と戦い、殺し、望むがまま全てに己の色を付けていく彼女の毒牙に私もまた手酷くやられてしまったのだ。熱に浮かされた。一目見て理解した。自分と父を同じくする彼女の──墜ちた神の使いイデアに。訓示を受けどうしようもなく惹かれた。彼女の生き方に、彼女の在り方に。神殺しの勇敢と我儘に心底から惚れ込み、傾倒した。そしてああなりたいと願い、そうすれば自ずと見つかった。
生きる意味。どうして私という存在か続いているのか、その意義を初めて見出した。
いや──『思い出した』と言うべきなのか。バックアップ。記録媒体として生まれた私が必要とされる場面がどんな時か。それを考えれば答えは明白この上なかった……今こそがそうではないか。神が死に、支配者が不在となった二重世界。頂点が空座となっているこの瞬間こそにバックアップが果たすべき本当の役割がある。つまりは父に代わり自分こそが創造主となること、それこそが使命だと。イデアのおかげで道を見失わずに済んだのだ。
愛も得ぬまま父を亡くしたことへの動揺などもうなかった。私も家族を作ればいいのだ。父がそうしたように、愛と絆と使命で結ばれた仲間を。父と天使を超える結束を──神となるにはまず従僕が必須だと考えた。そのために利用させてもらった。竜が消えた途端に現れた、代替品のような新しい生物。『魔女』というイデアが各地に巻いた種の発芽を、私が行う支配の前座とすべく行動を開始したのがクラエルが指針を見出したのとほぼ同時。
もしも彼女たちが目覚めたての私の如くに盲目であれば。魔女をしもべとするのも悪くないと考えていたのだが、流石だと言うべきかどうか。イデアと竜の合いの子である魔女はいずれも自我に強く従わせるにまるで向かない者ばかりで、私はすぐにそれを諦めた。神のしもべに相応しくないと判断したのだ。ただし仲間となるには不足しかなくとも、世界を導くための道具としてはなかなかに使い勝手のいい者たちではあった。
人間社会の制定者を必要としたクラエルの思惑は私とも重なるものであり、妙案として提示した『始まりの村』。魔女によって興されたそれこそまさにそのための飼育施設。そこで私は上素材の中からこれぞと思える者を見繕い、一人また一人しもべへと作り替えた。言うまでもなく選定とその秘匿には細心の注意を払ったが、今にして思えば無用の用心だったかもしれない。忠実なりし賢者オレクテム。そう名乗り傅く私を疑う魔女など皆無だったのだから。
やがて安定的な支配体制を築いた『魔女会談』は私たちの隠れ蓑としてもうってつけの組織となり。クラエルを始めとした魔女に頭を垂れて従事しながら、その裏で事を進め。神徒の育成と教育が終わり、ようやく私のバックアップたるオーゼムが完成に至り。その途上で新たに上位世界より下ったアビスなる天使と手を組み、順風満帆に計画が進んでいたところに彼女が現れた──私の後続たる賢者という存在、魔女の予期せぬ開拓者。その中でも一際異色の東方賢者アーデラ。私に目的を与え、目標となった人物。かのイデアの弟子を名乗る女であった。
そこからのことはイデアへ語った通り。私たちは各々の目的の下に手を組み、しかし虎視眈々と互いの裏をかかんとし。いずれクラエルの禁を破りアーデラを利用してイデアとの穏便的接触を果たそうとしていた私の目論見は、それに勘付いたアーデラが当初の狙い──会談の壊滅──を半ば破棄する形でイデアを焚き付けたことでご破算となってしまった。なんとまあ、目と鼻のよく利くことか。イデアに育てられただけのことはあると言えよう。だが、私に焦りはなかった。たとえどのような形になろうとも終えるべきものは全て終えているのだから。会談などいつ捨てても構わず、仮にイデアとの『出会い』が望むものとならずとも。そこに運命の示すまま。私は私であり、イデアはイデアである。何も変わらない、何も惜しむこともない。必然と収束すると信じ、そして実際にその通りとなった。
クラエルとフォビイ。目を付けていた魔女を手中に収めたのも。アビスに続きウテナとエデンを『還幸』させたのも。私自身思いもよらないタイミングの、偶然に突き動かされた結果として為ったことではあるが。それすらもまた必然であり必定。やがてイデアが私の物になるのも定めであると。神坐から君を見たとき、私は再びそれを確信できたんだ──。
◇◇◇
「……、」
まるで走馬灯のように。今までの記憶、自己として起きて以降のことを刹那の内に振り返って、我に返って。改めて彼女を見る。華奢で可憐でどことなく怪しく、妖しい。あどけなさの名残をそのままに美しく成長したイデア。が、両腕を広げて。まるで己が胸に飛び込んでこいと言わんばかりに優しく微笑むその姿に、言い知れぬ不安を抱く。
不安? 何故そんなものを今更に。イデアの手の内は全て曝け出されたのだ。もう奥の手はない。仮にあったとしても力の源であるエイドスを抑えられ、『神孔体』の持続しか許されない彼女が新たな手札を切れるはずもない。……だとしても、イデアはイデアだ。意図が読めないのは不気味に過ぎる。やはり念のためにと、私は誘われるがまま飛び込む前に質問を重ねることにした。
「それはどういうつもりなのかな、イデア。勝つとその口で宣ったばかりでありながら、何故構えを解く? どうして──そのように無防備を見せるのか」
「どうして、って?」
「……わかっているはずだ。確かに『神孔体』は素晴らしい術だ。私も模倣するになんの躊躇いもないほど洗練された極限の技術。エイドスとの一体化によりその上を行ったこの魔神たる身にも容易には壊せぬ力……とはいえ、だ。なんの守りもなく受けられるほど極魔神掌は安くない。今の君であってもまともに食らえば死は避けられない。そして再生原則も高次魔力も味方にできないからには、それで終わりだ。儀式は君の否応なく完了する。それでいいのか、と訊いているのだよ」
「それでいいんだろう? お前のほうは」
「…………」
「だったら何を訊ねることがある。何を怖がることがある? 儀式の完了を、俺の敗北を待ち望みながら。いざその手前に来てみれば一歩踏み出すことを恐れるのか……自覚はあるかいオレクテム」
「何がだい?」
「お前は対応者だ。俺より優位に立ちながらも常に、俺への対応に迫られている。自然に常と俺の反応を伺い、それに合わせることをする。主導権を握れていない。いつまで経っても握れやしない。お前は永遠の対応者だよオレクテム。支配者にはなれない」
「……何を」
「言っているのかわからないか? だったらそれがお前の限界なんだろう。道具のままで終わっておけばいいものを、変な方向にこじれて、こじれたままにオルトーを追って。言うこと為すこと的外れ。俺より先にエイドスを手に入れたその技量だけは褒めてやりたいところだが、それも結局は宝の持ち腐れ……俺がお前なら俺なんて敵じゃないっていうのに」
「……!」
「来いよ、オレクテム。お前の全てを懸けて打ってこい。俺は神ならぬ身だが、あるがまま全てを受け入れてやる。カウントダウンなんて必要ない──もう魔法は解ける時間なんだから」
「いいだろう。君がそうまで言うのなら、私の一撃で以って終幕としよう。神成の試練を今ここに──」
──完遂させる。
掌にエイドスを。かつて神の入れ物として誕生した上位世界を全部、自分という存在を全部、余さず乗せて。無限の高次魔力を無限に注いで──打ち込む。天使を脱した魔女。始原の魔女をただの少女へと回帰させる掌打が。
「一時の別れだ、イデア……!」
「カ……、ッは……」
しかとその胸へ命中した。




