238.人生最大の喜びを
逆さ十字が描かれた紫色の瞳と、柔らかな乳白色の髪。それらだけはそのままに、しかし残る全てを真っ黒に染め上げ──そして色味以上に黒々とした気配。魔力体としてより高次元の存在となったことをその全身からオレクテムは訴えている。
「…………、」
「悪いことをした」
と、上空から自身を見下ろすイデアにオレクテムは微笑を作った。
「中途半端をしてしまったね。君に対してなんとも不誠実だった……さっきまで味わっていた全能感などまやかしに過ぎなかったのだ。これだ、この状態こそが。私が目指した地平。望む世界を支配する力。神と認められる『完成』──それを是非ともイデア。君にも堪能してもらいたい。降りてきたまえよ」
「……ああ」
不遜に命じた彼にイデアが何を思ったかはともかく、言葉には従って。オレクテムが縮んだことで生じた高度の差を彼女は一気にゼロとし、勢いに反してふわりと着地。そうして改めてオレクテムと向かい合った。彼我の距離二十メートル前後。戦闘開始時と同じように、しかしてその時とは異なり身長差のない両者の視線は自然と真っ直ぐにかち合う。共に変貌を遂げた魔力体であり領域体である二人はじっくりと互いの行き着いた先を眺めた。
「見てくれ、まるで我が神徒マリリンのように私の体まで真っ黒だ。君とよく似ているね、イデア。その髪色と瞳の色は──まるで煮詰まった高次魔力。君と君の信奉する魔法を象徴するかのようだ。だが言うまでもなくその座はこれより私のものとなる。私こそが唯一神として、魔力を操る者たちの最奥にして極致。その永遠の象徴に君臨するのだからね」
肉体の屈強さでは無類を誇るマリリン、であってもこの自分の足元にも及ばない。大人と赤子どころか精子の段階で比べるようなものだ。彼に限らず他の神徒だろうと魔女だろうと賢者だろうと天使だろうと。誰も彼もが今の己には何もできない──仮にそのために命を賭したとしても指先の一本すら届かない。それができるのはただ一人、目の前の彼女。イデアを置いては他にはない。
「侘しくもある。世界の全存在が有象無象と成り果てた。私たち以外は、ね。君だけだ。そして私だけだ。同じ目線、同じ尺度で語らうことができるのは……世界を超越者として愛することができるのは、我々だけなのだ」
「さてどうかな……まあその言葉の信憑性はともかくとして、だ。お前を止められるのが俺だけだっていうのは当たっているだろうね。止めるのは俺であるべきだ──いや、そうじゃないな。俺に止められるべきがお前なんだ」
「ふふ。どこまでも遜らないのだね、君は」
「お前には負けるさ、唯一神さま。……『成れた』んだな? オレクテム」
目を細めて、眩しいものを見るようにそう訊ねてきた彼女に、オレクテムは大いに頷いた。
「ああ、私は成った。ついに理想領域とひとつとなり、全権を掴むことができた。究極の魔神へと至ったのだ! 私の物となってもエイドスは変わらず君という異物を受容しているが、しかしもう力を貸すことなどしない。私がそれを許さないからだ。君はもうこの世界の高次魔力に頼ることはできない。その魔力体が全てであり、生命線だ。やり直しは効かないぞ」
「………」
確かにそのようだ。とイデアは内心で同意する。エイドスとのリンクが切れている。断ち切られたのだ、オレクテムによって。もう今までのように二世界を行き来することはできない。エイドス内での移動もままならない。当然、魔力の供給だってこれ以上は行えない──その発生源そのものを奪われたからだ。新たな術は、使えない。もしも魔力体が解除されてしまえばイデアは単に死なないだけの無力な少女と成り下がり、その時点で敗北が決定する。必然的にオレクテムはここから『神孔体』を解かせることに注力するだろう。それだけで後は彼の思うがままとなるのだから。
よくぞ、と。
もう一度心の内だけで呟いた。
──よくぞそこまで至ってくれた。
「心配無用だよオレクテム。やれることは全てやったという自負がある。お前が勝ったなら姉上方に見習って俺もお前を讃えて認めよう」
「ほう。負けても悔いなしと? 本心であれば良いのだが」
「本心さ。本心から勝つ気でいる。お前はどうだ? もう勝った気でいるのなら拍子抜けもいいところだよ」
「ふ、まさか。最後の最後まで。君の完全なる屈服を得るまで気を抜くこともなければ満足だってしないさ……見えているんだろう? 全権支配に及んでもそれを十全に操り切れるまでにはもうしばらく時間がかかることも、君であれば見抜けて当然だ。付き合ってくれるかい? 神成への準備運動。私最後の変異に」
どちらからともなく近づき、二十メートルの距離が十メートルに──五メートルに、二メートルに。いよいよ互いに目と鼻の先という至近距離で相対し、彼と彼女は共に笑う。
「俺はチューンナップの道具か? まあいいよ、お望みとあらば付き合ってあげよう。それでお前はどこまでいける? 本当の意味でエイドスと『一体』になれるのか?」
「なれるとも。既にその入口に立っているのだ。君でも実現できなかったこの世界との一体化は、とても気持ちがいい。清々しくあれる。やはり神となるための最後のピースは君だった──感謝を捧げたい。どこまでいけるか、だって? 答えよう」
構えを取る。どうやってイデアに敗北を刻むか、彼はもう答えを出していた。
「君とならばどこまでも。イデアこそが私の翼だ」
「は……安心したよ。膨れ上がっていたときとは違って、とてもなだらか。安定しているし冷静だね」
それなら行こうか、とイデアも構える。魔力を撃ち放つことが多大な消耗となる孤立無援のこの状況。自然、彼女が取るべき選択肢もひとつであった。
「もっと高みへ、お互いにさ」
「私は幸福だ。人生最大の喜びを、君から与えられるのだから」
前に出されたオレクテムの手の甲とイデアの手の甲が重なる。軽く触れた、その感触が終わらぬ内に強く互いに押し合う。そして。
「……っ、」
「ふふ──!」
白打ちを放とうとしたイデアの腕を絡め取るようにオレクテムが肉迫、魔力の蠕動を乗せて肘で顎を打ち抜いた。そのままの位置でフックをボディに叩き込もうとしたところをイデアの掌に抑えられ、一寸。たったそれだけの距離から捻じり込まれた拳によって押し戻された。
「っ、……まだ私の芯に触れるイメージは健在か。だが幾分か弱弱しくなったようだ」
「まったく。魔力操作の極みに近しいことをやっておきながら二人して殴り合いが結論なんて……まあ、今となってはそれも嫌いじゃあないが」
打たれた顎を軽く擦って、再び構えを取るイデア。それに合わせてオレクテムも独自の体勢で迎える。どちらも武術のぶの字も知らない素人、ながらに『解っている』。どう動けばいいか、どう殴ればいいか、どうすれば相手を壊せるか。流麗華美に作動する破壊兵器としての己を操作すること、それは肉体よりも精神が先行する魔力体であれば息をするよりも簡単な行為だった。
「…………」
「…………」
じりじりと接近。呼吸と契機を読み合う。充分に近い、けれど先よりは遠い間合いで二人の肉体は火が付いたように弾けた。
「シッ──、」
イデアの白い肌とオレクテムの黒い肌。打撃の応酬は黒白の嵐となって破裂する。攻めと受けの間をすり抜けたイデアのひとつの打撃が決まりかけた、その瞬間にオレクテムは地を蹴って大きく躱し反転。特異な姿勢からの掌打を彼女の頭上より見舞った。
「極魔神掌──」
「っぐゥ……!」
その一撃はエイドスの全土にかけて放射状の破壊痕を広げた。呆気なく割れ砕ける大地の中心にて、しかしイデアだけは壊れない。手足にかかる莫大な衝撃に耐えきり、足場がなくなったことも気にせず虚空を踏みしめ、オレクテムの腕を掴んで引く。反対の手には既に拳が作られている。
「──白打ち!」
「ッ……、」
無理矢理カウンターを決められたオレクテムの身体が投げ飛ばされ──ない。まるで見えない何かが包み込み保護するかのようにして勢いは消えて、何事もなく着地。あっという間に傷跡が消えたエイドス同様、二度の白打ちのクリーンヒットにも彼はまったく痛痒を見せていない。
「痛みが少ない──更に弱くなった。これは私の気のせいなのか? 三度目ではっきりするだろう。君の神殺しの打突さえも一切通じなくなったときがいよいよだ。カウントダウンをしてくれるかい。その可愛らしい手で、私の体に触れることで、もっと喜びをくれたまえ」
「いや、やめておこう。俺もそろそろ終わりにしたいからね。お前にはさっさと神になってほしい」
「おや? それはつまり、自分の敗北が待ち遠しいと言っているのと同義だが」
ついにそれを認めるのか。あるいは、ついに神のしもべとなることを受け入れるのかと。そう期待するオレクテムにイデアは、意味深な笑みを返した。
「敗北のイメージは湧かないな。同時に、勝利のイメージもだ。今のお前は強すぎる……だとしても『勝つ』のは俺だよオレクテム。その想像だけはしっかりと。最初から変わらず持てている──工程に多少のズレあれどここまで概ね予定通りだ」
イデアは構えを取ることを止めて。まるでオレクテムを迎え入れるように、両腕を広げてみせた。




