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196.運がなかった

 ふと何かに引っ張られたような気がして、振り返って背後を確かめる。けれどそこには何もないし誰もいない。すっかり見慣れた新しい執務室の壁があるだけだ。


「…………」


 しばらく神経を研ぎ澄ませて探ってみる。が、やはり感じられるものは特にない……おかしいな。髪先の一本に触れられるような微かな感触とはいえ、確かに何かが俺の感覚器官をくすぐった気がしたのだが。気がした、というだけなのだろうか。


「どうかされましたか? イデア様」


 報告の内容を読み上げていたセリアがそれを中断し、落ち着いた声音でそう訊ねてくる。そのおもんみるような視線に俺は首を振った。


「なんでもない。気のせいだったみたいだ」


「やはり少々お疲れなのではありませんか?」


「はは。今までにないくらい多忙なのは確かだけどね」


 市衛や各地の領主たちと協力しての警備体制の一新。王都近隣からのアクアバッグの着工、転移網の設置。弟子への指導に俺個人としての対オレクテムに向けた準備……いつもの王務に加えてこれだけやることが増えたなら当然、眠る暇なんてなくなる。俺が昼夜ぶっ通しで働き詰めであることをセリアは危惧してくれているけれど、しかしこれくらいの忙しさは新王になり立ての時期にも経験済みである。


「しばらく国を空けていたツケでもあるしね。それに全部必要なことなんだ、俺の心配はしなくていいよセリア。それよりも続きを頼む」


「……かしこまりました」


 雰囲気からしてセリアは俺に休息を取ってほしいようだったが、その願いを口にすることなく手元の紙へと視線を戻した。程なく領主会から上がってきた報告と、それとなく警戒態勢を敷かせている東方の国々からの反応を読み終わった彼女に、俺は頷いて言った。


「さすが、政務室がまとめ上げたものはわかりやすくて助かる。つまり今のところ特段の問題はないってことだね。これ以上やることが増えなくてよかったよ」


「しかし、よろしいのですか? セストバルを始め各国は『何かが起きている』ことには気付いているようです。イデア様の名で有事への備えの確認があったからには余程愚鈍な王でもなければ当然のことですが……それなら」


「それならいっそ、オレクテムが大陸をめちゃくちゃにするかもしれないと予告しておいたほうがいい?」


「はい。それも一案かと思われます。東方の足並みが揃うのはイデア様の負担を減らすことにも繋がるのでは?」


「だから俺は別に大丈夫だってば。……んー、でもそうだな」


 現状、東方においては水精のアクアメナティス率いる海底国家インディエゴにしかオレクテムの件を伝えていない。あの国からは素材提供をしてもらっている恩義がある以上、なんのためにそれが使われるかを打ち明けておいたのだ。まあ未だに竜魔大戦時のことを深く感謝してくれているアクアメナティスのこと、何も言わずとも欲しいと言ったぶんだけ寄越してくれはしただろうが、一応のマナーとしてね。


 事の真相を知っているのがインディエゴのみ、という状況をセリアは憂いている。いざというとき何が起こったかを把握できているのと、『何かが起きた』という程度の認識しかできてないのとでは対応やその初動に大きな違いが出る。なので新王国が速やかに動けるようにするためにも、他国にも情報を共有させておくのは大事なことだと言えるだろう。そこは絶対的に正しい、のだけど。


「たとえば中央の、それも主要国家にだけこの一件を伝えておいたのは何故か。そこはわかるだろう?」


「それはまさしく主要国家だから、としかお答えできません。帝国を筆頭にかの国々はどこかひとつが欠けても中央のみならず各地方へその影響が波及する、社会全体の重要なピース……ですからオレクテムの襲撃に備えさせているのですよね」


「その通りだ。欠けたら困る国々。それでいて思い通りの世界を描こうとしているオレクテムに最も狙われやすいと想定できる国々だ。だから備えさせるんだ、どこか一国が欠けても残りの国でなんとかできるようにね。そうでなきゃその損失が大陸中に大変な動揺を生んでしまう。一番なくなって困るのはもちろん帝国だけど、最悪なのは主要国家の全滅。俺が攻める側ならそうするし、オレクテムが同じことをやってくる可能性は高い」


 おおよそ半々なんだ、と左右の手で指を一本ずつ立ててセリアへと見せ、同時に折り曲げる。


「オレクテムがまず国落としから始めるとした場合、主要国家かこの新王国か。どちらかが最初の標的になると見て間違いないだろう。あるいは欲張りに両方同時に攻めるかもしれないが、そうなるといよいよ俺一人の手では足りないから、『魔女会談マレフィキウム』に残された三魔女の協力。それから標的である帝国等の国々に自覚を持ってもらうことが不可欠だった」


「死する可能性が高いからこその宣告ということですか」


「その通り。反対に、新王国以外の東方圏の国をオレクテムがいの一番に狙う理由は薄い。というか皆無だろう。もしそうなったらそれは運がなかったと諦めてもらうほかない──どのみち犠牲は出る。何もかもを想定すべきだけど何もかもに対策を打てるわけではないからね。だったらその日が来るまでせめて何も知らずに、無駄に怯えることなくいつも通りの日常を過ごしてもらったほうがいい。第一、主要国家だって上層は別として国民は何も知らないんだしね」


「なるほどそういうお考えでしたか。私の理解が浅かったことは理解できました……けれど、可能性の低い想定が当たってしまった場合はどうされるおつもりですか? この王都を皮切りに新王国はイデア様に有利なフィールドと化していますが、襲撃に備えている主要国家はともかくその他一切の国においてはまったくの無防備。それでもイデア様は──」


「ああ、言ったことは曲げないよ。全部俺が守るさ。多少の犠牲には我慢してもらうけど、最初にどこが狙われたって国としての滅亡はさせない。東方圏はもちろん、他の地方だってね。そのために迅速に魔女が集結できるようにもしたんだ。大陸のどこが最初の鉄火場になってもいいように……ま、これが現実的な対処だろう。これ以上を望めば必ずどこかで破綻する」


 オレクテムの思い通りには何ひとつとしてさせない。それを目指すには足りないことだらけではあるが、かと言って事前にやれることにも限界がある。何せ想定の範囲を絞った上でその範囲内でもまだ満足に備えられておらず、しかも。


「これが最大の厄介なんだけど、結局のところオレクテムが何を考えているかなんてまるでわからないからな。今していることが全部無駄になってしまうことも当然に想定しておかなくちゃならない」


「もしもそうなれば?」


「あはは。もしもそうなれば、それこそ『運がなかった』と思うしかないね」


 我ながら開き直ったこの物言いに、セリアがなんとも言えない顔をする。うーん、彼女のこういったリアクションが楽しみになってきている自分がいる。モロウあたりも悪くないが、この言いたいことと言いたくないことが百面相になって現れてくる感じはやっぱりセリアが一番だ。俺が黙って表情の変化を楽しんでいると、それに気付いたのか彼女はこほん、といつもの如く咳払いで一区切りをつけて佇まいを正した。


「お考えよくわかりました。では次へ移ってもよろしいでしょうか」


「うん? 他にも何か知らせがあったのか」


「はい。どうぞこちらを」


「これは……原稿用紙? だいぶ上質だね。これをどうしろって?」


「リーナの式で行うスピーチの内容をご記入ください。こちらでチェックをしておきますので」


「う、スピーチ……またそういうのか」


 即位式のアレで参った経験があるので(そのあとも色んなとこで似たようなことはしているが)、正直言うとあんまり気は乗らない。が、けれども王様の立場なんだから出席するからには何もしないわけにはいかないよなぁ。


「今度はそっちで丸々草案を考えてくれないの?」


「やれと仰るなら勿論。ですがそうすると形式ばった特徴のないスピーチになってしまいますよ。友人として出席されるのであればそこはイデア様のお言葉で祝辞とされるべきなのでは?」


「うーむ、反論の余地なし。というかこんなものまで政務室に任せようとするのが物臭すぎか」


 というわけでセリアを下がらせてから、次の報告やら書類やらがやって来るまでの間にうんうん唸って晴れの場で話すことを考えてみるがこれがなんとも難しい。新魔法の開発よりもよっぽど難産だ。何せ結婚式でスピーチなんてしたことがないのでまず何を言えばいいのかもまったくわからない……いやそのほうがかえっていいかもしれないな。


 見た目少女で魔女で国王であるトンチキな存在に常識なんてものを求める者なんて式の主役である新郎新婦を含め一人もいやしないはず。ならばとにもかくにも祝いの気持ちをざっと書き上げてしまい、あとはモロウにでも添削してもらって完成でいい。あまりにも酷い文だと判定されれば丸ごと書き直しにもなるだろうが、それならそれで傾向も掴めるというものだ。


「ふー……これでいいかな」


 つい二日前に前祝いとしてリーナに会った際に伝えたのとほぼ同じような中身になってしまったが、まあ仕方ない。懐妊にも入籍にもまた改めておめでとうを言おうじゃないか。……こうしているとなんだか今が火急の時期とは思えないくらいに平和だが、それもこれもオレクテムが再び姿を見せるまでの僅かなモラトリアムでしかないんだよな。


 さぁて、今頃奴はどんなことに手を染めているのやら。探る術がないというのはなんとももどかしいものである。



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