166.どっちなんだ
湿った芝地の上を小さな素足が踏みしめる。濡れそぼった草がさくりさくりと小気味よい音を立てて少女の来訪を知らしめれば、台座を熱心に覗き込んでいた男がそれに反応して振り向いた。
「おお。来たか、イデア」
「オルトー。ようやく眠りについたところを邪魔してくれたくらいだ、よっぽどの報告が聞けると期待していいんだろうね?」
「ははは、寝起きのイデアは怖いな」
からからと笑った彼は、ひょいと軽い仕草で目の前の台座を乗り越えた。そうしてそれと一体になっている大きな座席の背もたれへと尻を落ち着ける。その品の無い所作に、ぺたりと台座の横に立った少女が眉をひそめて言った。
「行儀が悪い。創造主ならもう少しそれらしい振る舞いを心掛けても罰は当たらないと思うが」
「見てくれに拘るのが創造主らしさだとは思わないなぁ。ほら、神は細部に宿ると言うじゃないか?」
「それは宿ったらいいな、という願望の台詞だよ」
「相変わらず手厳しい──けれどイデア、やはり理想に拘るのが神らしさには違いない。その証明がこれだ」
ご覧、と透き通るような笑みで男が台座を指し示す。彼の力によって下界を広く覗くための窓が開かれているそこへ少女も目を向ければ、その漆を思わせる真っ黒な瞳に驚きの色が浮かんだ。
「ほお、生まれたのか。お前が欲してやまなかった竜が……それもあのひとつ島に」
下の世界。男がそう称する、理想郷とは入れ子構造の外と内の関係性にある下位の地。その中でもひと続きの巨大な大陸となっているそのひとつ島は世界の中心に位置し、海原を挟んでそれを囲う飛び島の別陸地とは隔絶した──言わば『主要実験場』。総合的な面積では周辺大陸に劣るが、地続きかつ多様な生命に彩られたその島は、何より創造主の寵愛を一身に受けているというその一点において同位地にある他の全てを突き放せるだけの特別性を誇っている。
「この力強さに知性まで宿っている。惚れ惚れするほど美しい生き物だろう? ついに実物を拝むことができて感無量だよ──だがこれはまだ始まりに過ぎない」
「やっぱりなってもらうつもりか? 実地支配をしない神に代わって竜を頂点に……なんて、これも叶うのはいつになることやら」
「だが必ず叶う。そうだろう?」
「まあ、そうだろう。前々から言っていることだ。オルトー、お前はその創造の力を下さずとも世界を思い通りにしている。とても緩やかに、だけれど絶対的に」
顔を上げた少女は台座に手を突いたままで男を見上げ、男もまた少女をじっと見下ろす。両者の視線には同質かつ同質量の圧があった。それで、と彼女は囁くように続けた。
「どうするつもりだ?」
「どうするとは?」
「命が氾濫する大陸を、お前の思い通りに竜がかの地を支配したとして。その次の話さ。もう遠い未来のことじゃあないんだし、そろそろ先の予定を聞かせてくれよ。まさか白紙だなんて言わないだろ?」
「そうかその先か。イデアはいつでも未来を見据えていて偉いな。エデンもウテナもアビスも『今』ばかりだからなぁ……悪い子たちじゃあないんだが」
「それはお前がそう創ったからじゃないか。不死不変の俺たちには今が過去であり未来だ。この理想郷同様、変わらないものが先を気にするはずがない」
「その通りだ。だからこそイデアは面白い。俺が作ったものの中で最も完成されているのは間違いなくエデンだが。けれど、最も価値のあるものは君だな」
「お前にとってか?」
「世界にとってさ」
その答えにどちらともなく笑い合う。それからすとんと体全体を落として椅子に正しい姿勢で座った彼は「なんの話だったか」とわざとらしく空とぼけたあとに、
「ああ、新参の竜が大成する様を見届けたあとに私が何を望むか、だったね。それは勿論もう決まっているとも、白紙なんてあり得ないね」
「へえ。それじゃあ教えてくれよオルトー。お前の望みってものを」
「それはね、イデア──」
◇◇◇
在りし日の記憶に触れながら改めて眺める。オレクテムという中性的な一人の人間を──そして思う。
似て、いない。どこからどう見ても。その容貌その声音その仕草その雰囲気。ありとあらゆる観点がこの男とオルトーの類似を否定する。まったくもって別人。としか思えない、はずなのに。なのに俺はどこかで……。
「バックアップ。なんとも手際のいいことだね。そんなものを用意していたからには、オルトーは自分の死すらも織り込み済みだったのか……とてもそうとは思えなかったけれど」
「その印象は間違っていない。彼だってこういう使い方になるとは思ってもいなかったのだから。私の役割は文字通りの補助要員、本体に還元されるために設けられた外部記憶のようなもの。惜しむらくも本体が修復不可能なまでに破壊されてしまったためにこうしてメインとなっているが、本来はその役目にないんだよ」
「活動ではなく誕生はいつなんだ? そして経年は?」
「人間種にオルトーが種を混ぜたのが私の始まり。つまり人間種の歴史と私の年齢は一致している。……ああ、受け継ぎ方かい? それは簡単、依り代が死ぬ度に別個体へ寄宿先を変えるだけだ。その個体が子を作れば私もそちらに移る。そうやって稼働前の私は転々とそして静々と大陸の創成期を待機し続けてきた。ひたすらに得るべき情報だけをここへ詰め込みながらね」
自らの胸の中心を指先で叩くオレクテム。記録媒体として指すなら頭部だろうが、言っていることが本当なら奴の根幹は埋め込まれた種そのもの。それが宿ることで核となる部分があそこ、なのかもしれないな。これは覚えておいていい。
「稼働後は?」
「目覚めてからは常にこの個体だよ。元の人格はもうない、私に上書きされたからね。そうして大任を背負わされた元バックアップとして、イデア。君と竜との戦いを見届け、魔女の誕生を見届け、クラエルにわざと発見されたふりと傅くふりをした。実に名演だったろう──なんて言っても、君は会談の開設・維持・運営にどれだけの苦労があったかを知らないのだから誇ったところで意味などないが」
「大任、というのがいまいちわからないな。還元されるべき元が消失したのなら外付けの装置に活動理由なんてないはずだろう」
「もっと言えば存在理由がない、かい? いいや違う、それはオルトーを知ってはいても私を知らないが故の誤解だよイデア。無駄を省いた機能美は素晴らしいものだが、必ずしもそれだけに拘るのが美しいか否か。この点に関しては君と私の見解は共通するものだと思っている。だからといって賛同を得られるものではないと理解しているが、とにかく──」
「あっとすまない、その前にだ」
「うん?」
「先に聞いておきたいことがある」
「ふふ、いいとも。なんなりと」
話を邪魔されてもにこりと笑って両手を広げ、ウェルカムのジェスチャー。その広がった手の下には氷上に膝を付けたままピクリともしないクラエルとフォビイがいる。先ほどから様子を窺っているのだが二人に特段の変化は見られない──フォビイの内部にいるはずのアビスの反応も同様にうんともすんとも言ってくれない。こうなると彼女たちの自発的な覚醒という幸運は期待できそうにないか……ま、いいさ。別にそれを待っているわけじゃない、ただ訊ねたいから訊ねるだけだ。
「どっちなんだ?」
「どっちとは?」
「クラエルにも訊いた質問だよ。お前はオルトーなのか、オルトーに成り代わるオレクテムなのか、と。そこをまず教えてほしい」
「ふ──さあ、どっちだと思う? どちらでも君の好きに答えるよ」
「……なるほど。思いのほか腹の立つ答え方だ」
「はははは。どうか大目に見てくれ、これはパラドックスのようなものでもある。テセウスの喩えは知っているね?」
「船の修理が進んで、元の素材とは一から十までが入れ替わったとき、それは同じ船と呼べるのか。そういう同一性の問題だろう」
「その通り。人間で言えば、肉体を構成する細胞は数年で全て入れ替わるらしい。数年前と今とで、同じ自分でもそれは『自分』なのか。君はどう思う? 自己というものを決定付ける要素は何かという問いだが」
「連続性の認知だ。というかそれ以外に自分と過去を定義付ける根拠がない。物言わぬ船はどう作り替わろうと何も言わないが人はそうじゃないからね──」
Aさんの人格がBさんに芽生えたとする。Aさんは元の肉体が、Bさんは本来の人格が死んだ。さてAさんが入ったBさんの体はどっちなのか? 周囲の人間にとってはBさんが連続しているように見えるだろうが、当人らにとって『続いている』のはAさんに他ならない。
だから俺は俺となっても『俺』でもあるのだ。
「君はそうだろう、その凄まじい自我の強さは何をするにもどこに向かうにも君を悩ませることなんてないはずだ。しかしオルトーはそうじゃなかった、そう考えなかった。君とは違って過去の自分と決別したかったのだろうな。彼はまさしく神になりたかったのだ。真っ新で真っ白で真っ当な超越者。全てを俯瞰し無邪気に楽しむ全知全能の子供になりたかった──そうなろうとしている時点で、それだけが決して叶わずの願いになることは当然、彼だって承知していた」
「だろうな……気付いていたよ。お互いはっきりと明言こそしなかったが、お互いにわかっていたさ。転生者。俺がそうであるのと同じようにオルトーもまた──元はしがない無力な人間だった。その記憶と人間性を持ったまま創造主なんてものに生まれ変わった男があいつだ」
「くくっ──。うん、流石も流石だイデア。彼一番の理解者と言うならやはり君以外にない」
ふるりと身を震わせる奇妙な笑い方で、オレクテムは心底愉快そうに俺の言葉へ肯定を示した。




