120.賢者アーデラ
心の底から己の間抜けさを呪う。クラエルの怒りは何よりも自分自身へと向けられたものだった。
メギスティンで起きている異変についてオレクテムから聞かされたのがついさっきのこと。中央圏の主要国に網を張っている彼からそういった報告がされることは数こそ多くないが過去のうちには何度となくあった。なのでこのとき、異変の中身を気にしながらもクラエルに大した焦りはなかった。そも、メギスティン首都オラールには現在イデアの動向並びに『魔女会談』を見据えて時期外訪問を行っているルナリスが滞在中だ。そして異変の発生地がまさにオラールであることをオレクテムが突き止めたことで、彼女は大まかな理解ができたつもりになっていた──ステイラバートの魔法陣。市民の意識操作と誘導を絶えず行うそれによってまた大規模な魔法事件が引き起こされたのだろう。
オレクテムの網に引っ掛かるほどのものとなれば非常に珍しくはあるが、そちらも前例がないわけじゃない。いずれにしろ対処には魔法省が、それで足りなければ双子賢者とその主人たる魔女が動く。どんな事件だろうが彼女らであれば手に余るということもない……そう考えて、そのすぐ後に息を呑むこととなった。
円卓を介してオレクテムが魔力探知を実行すれば。他ならぬルナリスこそが異変の原因であり、しかも何故か同じ時同じ地でティアラの魔力までもが荒れ狂っていると判明したではないか。魔女二人がオラールにて戦っている? これだけを聞けば北方で繰り返されている『月光』と『至宝』の激突が舞台を変えて行われているかのようであるが、けれどクラエルの思考は真っ先に浮かんだその可能性を素通りし、もっと奥にある最悪の予想へと至った。それは二人が揃って『別の勢力』と交戦している可能性。魔女が共闘して相手取るに相応しい敵戦力が何かと言えば──。
いやまさか、そんな馬鹿な。発想を飛躍させている自身の推理に、理路を重んじる別の自分からの強い否定が入った。イデアは賢者メサイスに見張られている。こと監視の一点において彼がしくじるなどあり得ない。イデアが如何にそれを警戒し、たとえどのような手段──例えば転移のような瞬間的な移動方法──を用いたとしても、彼女が新王国から出るようなことがあればメサイスには筒抜けとなる。クラエルがそう信用して会談開催までの見張りを申し付けている彼からの定時報告、その内容は常に変わらず『異常なし』。つい数時間前にも同様の報を受け取っている。
であるならイデアがオラールにいることはない、はずだ。そう思うのに何故かそれを信じ切れずにいる。これはルナリスから度々言われてきたように、あまりにイデアへ怯えすぎているが故の彼女への妄執なのか。あるいは誰よりもイデアの脅威を承知しているからこその本能による警句なのか。……いずれにしろこの目でオラールを確かめる以上に確かなことはない。オレクテムに探知を続けておくように告げてからクラエルはその足で天空議場の出口を目指した。移動の間に魔力を練り、発動させたのは精霊の眼との同期魔法。彼女が契約し内に秘めている精霊の中でも特に強力な『空間を司る精霊』を一足先にオラールへ向かわせて然る着地点を決める。
つもりだったが。
「おや。どこかへ行かれるのですか? これはタイミング悪い」
「……!」
「あなたに用があって来たのですがね」
出口へ通じる長い廊下。その柱の影からまるで待ち構えていたかの如くに姿を見せたのは賢者アーデラ。視界の同期を取り止めたクラエルのそれは急に呼び止められた驚きによるものなどではなく、強い警戒心の表れ。そして同時に怒りが溢れた──前述した通り、これを想定できなかった自分に対する憤怒とも言うべき激しい感情が。だがそれは少なからず目の前の相手に対しても向けられたもの。
「……アーデラ」
「ふふ……なんです? クラエル様」
「メサイスに、何をした?」
魔女の怒気に対し賢者はうっすらと笑みを浮かべたまま、片側だけが短く切りそろえられたその特徴的な髪をするりとかき上げる。それは余裕のある所作だった。
「はて、いったいなんのことでしょうか……あなたが何を聞きたがっているのか私には理解しかねますね、『晴嵐』様」
「あなたは……!」
「おっとと、その剣幕。ひょっとしてメサイス殿に何か不幸でもあったのでしょうか? そしてまさか、クラエル様はその原因が私にあると勘違いしてらっしゃる……? いやはや失礼、そんなことはあり得ませんね。会談の設立者ともあろうあなたがそれを支える仲間であるところの一人に対し、なんの根拠も確証もなくあらぬ疑いをかけるなどと──まるで思慮の足りない愚昧のような真似をするはずもない」
「……、」
この物言い。クラエルにとっては自供しているも同然であった。しかしそれを確信できている彼女からすればふざけた言い分だが、実際のところアーデラの言葉は論理的に正しい。証拠はないのだ。どこにも。メサイスが何かしら尋常でない事態に陥っていることは確かだが、現時点においてそれがどんなものか、また何者によって行われたことなのか、その全てが一切不明である。客観的な事実のみを述べるのであれば今の状況はただ単に、議場から去ろうとしている魔女に賢者が話しかけただけ。単にそれだけでしかなく。
けれど、それ故にクラエルもまた態度を迷う必要がなかった。
「なら私から言うことはひとつだけよ。そこを、どきなさい」
「おや、おや。引っ込み思案な私が勇気を出して声をかけたというのにちょっとしたお喋りを楽しむこともしてくれませんか、そうですか。随分とお急ぎのようで……いけませんね、魔女様がそうも余裕のないことでは」
憧れが薄れてしまうでしょう、と。その一言にだけ冷気を孕ませて吐き出した彼女の瞳は、口元のにこやかさとは裏腹にまったく笑っていなかった。……もっとも、それは今に限ったことではなくアーデラとは常にこの調子を崩さない、賢者らしからぬ異色の賢者である。それがクラエルの彼女に対する率直な感想であり、そしてようやくその本性の一端に触れられたことでもはやこの場での問答に意味はないと悟った。
「なんのつもりでそこに立っているのかは知らないけれど。押し通らせてもらうわよ。あなたがイデアの抑止力になろうとしないのなら、私からあなたに期待することはもう何もないわ」
賢者の処遇は軽い。それは決して替えの利かない存在である魔女と比較しての相対的なものではあるが、いざとなれば切り捨てることも選択肢に入れられる点においてはそうと表現するべきだろう──つまりは、処分に易い道具であると。
アーデラがイデアにとって都合のいいようにクラエル、引いては会談の邪魔をしたことはほぼ確定である。一番弟子として自分に次いでイデアの危険性を解している節のあった彼女が何故そんな行為をしたのか、どうしてそれをこの場で露呈させるようなことをしているのか、それはわからないが。しかしなんであれ、ここで素直に退くならそれで良し。追及は後々行うとして今はとにかくオラールへ急ぐ。武力を講じてまで足止めしようというのなら、それもまた良し。動機を明らかにできないのは惜しいがそのときは即、この手で消し去るまでだ。
明確な殺意を視線に乗せてアーデラを射貫く。イデアからエイドス魔法を授かっている彼女のこと、賢者と言えども油断のできる相手ではない……が、それでも魔女との力量差に関しては絶対のものがある。まずクラエルに敗北はなく、逆にアーデラに勝機はない。まともに戦えば生き残るのがどちらかは考えるまでもなく明らかなことである──なので、アーデラにも交戦する気などまったくないようで。
「クラエル様がどのような勘違いをされているのやら私のほうこそさっぱりですが、どうか誤解しないで頂きたい。私はただ単に付き添いで来たまでのこと。あなたに用があるのはこの方ですよ」
この方? とクラエルが訝しむのと同時に、アーデラは役者が演劇に興じているような大袈裟な身振りで横に一歩動くことで自身の背後にいる人物を披露した。そこに見えた彼女があまりに予想外だったために、クラエルは目を見開く。
「ディータ……?」
「ええ。『黒鉄の魔女』様であらせられます。どうもクラエル様に物申したいことがあるようで……そうですよね、ディータ様?」
「……そう」
間延びした肯定をひとつ。そしてアーデラに促されるままぎくしゃくとした動作で一歩前に出たディータは、その様子に戸惑うクラエルをじっと、やけに焦点の遠い目で見つめて言った。
「やめたほうが、いい。オラールに向かうのは……やめたほうがいい。あそこでの決着はもうついた。そして、もうひとつの決着もすぐ……私たちは手を出すべきではない。ただここで待てばいい。最後まで──イデアが円卓に座すそのときまで」
「……!?」
少し前に完全復調を果たしたばかりのディータ。彼女の容体を先日にも確かめたクラエルだが、だが今のディータはどう見てもおかしい。言っていることも、やっていることも。秩序一派の一人としてよく協力してくれている彼女だが、こんな風に自分に意見してきたことなど一度だってないのだ。ましてやアーデラと連れ立ってこのタイミングで、こんなことを言うとなれば──そこまで考えて、クラエルはぎょっとする。
「やめたほうがいい、やめたほうがいい、やめたほうがいい、やめたほうがいい、やめたほうがいい、やめたほうがいい、やめたほうがいい、やめたほうが……」
もごもごと。呂律の怪しい口調で同じ言葉を繰り返すディータの口内で、黒く蠢く何かが見えた。それは昆虫の脚のようでもあり、触手のようでもあり、邪悪な意思そのもののようでもあった。
「くっくく──くっはははははは!」
「アーデラ!!」
魔女たちの姿を見て我慢できないといった具合に哄笑するアーデラ。そんな彼女に今度こそ憤怒の全てを向けたクラエルは、自分でも気付かぬうちに攻撃を行っていた。




