02.異世界から来たもの
時刻はもう十七時になろうとしていた。
いつもならば、まだ夕明かりが残っていそうな時間帯だが、あいにくの暗雲に日差しは阻まれてしまい、外の様子は薄暗い。
突然のゲリラ豪雨。バケツをひっくり返すような雨音は激しく耳朶を打ち、その湿気混じりの空気が、春なのに実にさげぽよな気分にさせてくれる。
ルアノ=エルシア・ルクターレは古風な宿屋の玄関、その屋根の下で、仲間となったリュウの帰りを待っていた。
ルアノはこの日、ルネで待機しているはずのロイヤルガード、ヴァネッサ・メロードルと合流すべく、シロノを連れて街の中央部にある掲示板へと向かった。実際に会うためではなく、ヴァネッサの残したメモに返事を書き、ルアノの到着を知らせるためである。
余談になるが、そこでルアノはシロノの真の恐ろしさを、その身をもって味わってしまった。ナンパにちらほら遭ってしまうのだ。明らかに、ルアノが独りで旅をしていたときよりも多い。リュウ曰く、『シロノを一人にすると男女問わず絡まれて危険』なのだそうだが、別にルアノがいても男女問わずに絡まれてしまったではないか。
一方のリュウはシェイリス王国への旅券を発行しに、役所へと向かったはずだ。
リュウは身分証明になる書類等を持っていないので、手続きは相当時間が掛かってしまうだろう。申請するだけの今日一日でも、六時間ほどの拘束は見込まれる。ルネほどの大きい街の役所は、基本的に毎日混み合ってるせいもあるのだが。
そんなわけでルアノはシロノと共に、午前中に予約しておいた宿屋にリュウよりも早く着いたというわけである。
そして、その直後にこの大雨。
ルアノはリュウを心配し、シロノと共にその帰りを首を長くして待っているという運びである。
否、実はルアノにはもう一つ、リュウについて心配していることがある。
リュウは普通ではない。それはルアノがリュウと出会ったときから感づいていたことだが、彼が自分自身について語ったとき、正気を疑ってしまったほどだった。
ウルトラシングで発生したテロ事件の夜が明けた次の日のことだ。
ルアノ達は追っ手から逃れるため、海上警備隊の船の窓から飛び出し、ルネの外れにある沿岸部まで泳いだ。
その後、リュウの金を使って服を新調。ルアノの服は、もともとボロボロもいいところであったし、リュウとシロノは遠泳によって服を駄目にしてしまったからである。
リュウはルアノが出会ったときと変わらず、黒い革のジャンパーと赤のシャツ。そして薄いブルーのパンツとアーミーブーツといった、彼らしいワイルドな出で立ち。
シロノは半袖の黒いシャツ。そして黒のシャープなパンツと黒い手袋。色彩がない上に、本人のそもそもの体型が華奢なせいか、ボディラインが曖昧で普通に女性と見間違える。
かくいうルアノといえば、わりと変身を遂げたのではないかと自覚していた。
緑のアウターに白いシャツ。青の短パンとレンジャーがズボンの下に履くという頑丈な黒いレギンス。クレイモア等を背中に携えられるような、無骨な大ベルトが自分で格好いいと思うルアノである。
その日の夜、ルアノは何故リュウが本名であるウィルク・アルバーニアを名乗らなくなったのか、そして何故“摩天楼”と呼ばれる場所を求めて旅をしているのか、踏み込んだことを聞いてみた。
そして、リュウは答えたのだ。
自分はウィルク・アルバーニアではない、と。
――自分の正体は、この世界ではないはずの世界の人物だ、と。
ルアノは当然、リュウの言葉を真に受けることは出来なかった。
だが、その後に彼が言った摩天楼を探す理由。その経緯を聞いたところで、確かにウィルク・アルバーニアがハウネルの王国騎士の資格を棄ててまで旅に出かけた理由に、道理を感じてしまった。
――ウィルク・アルバーニアの肉体に、元の彼の意識を戻す。
それならば、彼があんなにも中途半端な状態で、上層を飛び出したのにも合点がいく。
否、合点がいくは言い過ぎだ。
そういうことなら、王国騎士を棄てて旅に出る理由に一応なる、が正しい。
例えば、ルアノが彼の立場であれば、ウィルクのことは諦めて、まず自分の居場所を保護することを考える。つまり、ずっとウィルクになりすまして、彼の元の人格を戻そうなどとは考えないだろう。
リュウのように、自分がどうなろうとウィルクを元に戻すなど、まともな人間の考えることではないと思った。
もっとも、それはルアノの感性であり、リュウが得体の知れない異世界人ならば、当然の感覚なのかもしれないが。
ひとしきり自分の身の上を説明した後、リュウはどこか気分を害したように席を立ち、そのまま戻ることはなかった。
ルアノもその日は流石に疲れており、翌朝一番に馬車に乗る予定もあったため、すっかりその後寝付いてしまった。
そして、そのリュウのカミングアウトのことなど、明朝の新聞の内容――サレイネが大量の株を買収したという事件が衝撃的で、すっかり頭から抜け落ちてしまっていたものである。
「ねえ、シロノ。昨日の夜にリュウが言ったことって本当なのかな?」
屋根の下でリュウを待ちながら、ルアノはシロノに見解を聞いてみた。
だが、シロノは何のことかを問い返すように首を捻るばかりである。
相変わらずのマイペースに、ルアノは少しばかり苦笑いをしてしまう。
「リュウがウィルクの身体を乗っ取った、異世界人だって話のこと」
「……」
沈黙。
だが、シロノは少し思案するように睫毛を伏せている。
そして、四、五秒ほど経ったとき、彼は口を開いた。
「ルアノと出会う前、リュウは私に対して不可思議な質問をしていた時期があった」
「不可思議って?」
妙な言い回しをするシロノに、今度はルアノの方が首を傾げてしまう。
あまり感情の変化が見受けられないシロノ。実際に、今も恐ろしいほど表情は透明であり、美しい神秘的な様相は変わらない。そんなシロノが、“不可思議”であるという感情を抱くことが、ルアノはどうしてか馴染めない。
この感覚は流石に失礼すぎるだろうか。
「養成学校にいた頃、自分と話したことがあっただろう? 一緒にハウネルの尾を昇ったことがあっただろう? 何の目的で自分と会っていたのか教えろ」
一拍おいて、シロノは再び言う。
「そんな質問ばかり。彼は自分が知っているはずのことに執着をみせていた。私はウィルク・アルバーニアに関する記憶を消していたから答えられなかったけど、あれらの質問を知りたくてしていたなら、ウィルクとしての記憶に欠落があると考えるのが自然」
ルアノは目をひん剥いてしまう。
シロノの言うとおりならば、リュウがウィルクを乗っ取ったという話にも説得力が増してくる。
リュウは自分の置かれている状況に、自分自身には全く身に覚えがないと言っていた。とするなら、その意味不明な状態の原因はウィルクの方にある可能性が高い、と考えるのが自然な筋だ。
なら、リュウの目的はウィルクが一体何に巻き込まれたのか、何をしてしまったのかを探ることも含まれるはず。
そのために、記憶を消す前のシロノとの関連性を訊ねた?
――よくわからん。
ルアノはますます混乱してしまう。
だが、一つだけわかることは、リュウの言っていることをいきなり真に受けることは出来ないにしろ、頭から妄言と軽んじることも出来ないということだ。
例えば、多くの研究者達が提唱している次元の彼方、ア・ケートではない世界、【リ・カーズ】の存在だ。魔物はリ・カーズより顕界するという逸説。そして、事実として≪赤の預言≫はリ・カーズからの魔神の襲来を提示したのだ。
リ・カーズという存在を認めるのであれば、リュウのようなケースも否定することは出来ないはずだ。
第一、ただでさえ奇手達の“奇跡”にどれほどの限界があるのか、その可能性は無限だとさえいわれている世の中である。ウィルクがとんでもない奇跡を起こした可能性も完全否定することは出来まい。
――考えてもしょうもないことか。
とルアノは首を振って、脳裏に次々に浮かんでくる疑問を振り払う。
たとえリュウが何処から来ようと、そして何者であろうと、そしてそれがわかろうがわかるまいが。
ルアノの中で彼は、――よくわからない変質者であることに、何の変わりもないのだ。
そう。リュウがまともな人物でないことは、彼のカミングアウトを聞くまでもなく、ウルトラシングでの立ち回りから充分に理解していたルアノである。
ただ、彼は何度もルアノの力になろうと必死だったし、これからルアノを貶めようとする様子は一切ない。ヴァネッサと合流するまでの金銭的な援助まで保証してくれた。
なら、ルアノは彼の助力に対して、誠意をみせずして筋が通るものか。
「あれ、リュウだね」
と、シロノがぽつり零した。
派手な音を撒き散らす豪雨が視界を奪う中、ルアノは目を懲らして先の先を視ようとする。
確かに、人影がこちらに近づいてくる。
その人物は傘も差さず、どうにも足取りも頼りない。前が見えているのかいないのか。
だが、その背格好には見覚えがある。黒いジャンパーと、腰に下げている剣。
――リュウで間違いないだろう。
シロノは傘を差すと、すいっと音もなく、リュウに近づくべく大雨の中に歩を踏み入れていく。
ルアノは宿の中に戻り、従業員にタオルを準備してもらうよう頼みに行った。




