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この異世界の救いよう  作者: 山葵たこぶつ
第二話 行き倒れ王女と信疑の鯨
88/182

)#.仄暗き青春

リアルでは光属性のモンクタイプの謙虚なナイトが雷属性の左をジョーにヒットさせて想像を絶する悲しみに襲われる話です。

苦手な方はお楽しみ下さい。

「ねえ。マジでアンタの薄ら笑いって何とかなんないの?」


 ふいに、微かに遠慮を滲ませるような声が、参考書の(ページ)を目で追っていた流の意識を現実へと引き戻す。


「あん?」


 流が顔を上げると、華麗な曲線を描く頬を右手の甲で潰すようにして頬杖をついた、アルフィ・アルバーニアの顔が視界に映る。

 いつもは強い意志で輝く蒼瞳(サファイア・アイズ)が、今は呆れを携えたドライで鈍い光を放っている。


 今はアルフィの座学の時間だった。


 とはいっても、アルフィ自身が説明することはそう多くないので、その後は基本的には説明に関連した書籍を適当に読み、締めくくりにアルフィによる口頭試験を受けるだけだ。

 そして、何か不明点や気になる点があれば、アルフィに補足的な説明をしてもらうという形式を取っている。


 こうして彼女に教えを請うのは、この養成学校で目覚めてもう何日目だったか。


 それはそうと、その顔の角度は可愛くみえるから止めて欲しい。

 止めないで欲しい。

 止めて欲しい。いや、止めないで――、いや――、


 ――日常を飛び越えて世界が逆に回転する?


「ンな変な顔してたか?」


 そう言って、流は自身(ウィルク)の頬に手のひらをあて、その口元の形を改める。


「いや、今じゃなくて。普段の話よ」

「あー……」


 アルフィの指摘を本当の意味で理解し、流は頬をつり上げた。


「それよ、それ。その厭味な笑い方。タイミングによってメチャクチャ神経に障るんだけど」

「ん、まあそうだよな。俺もこれについてはちょっと……」


 と言って、単なる記憶喪失ということにしてある以上、“これ”についてどう説明したものか、口に出しあぐねてしまう流である。


「『ちょっと』……、何?」

「格好悪いのはわかるが、やりやすい(・・・・・)んだよ」

「はあ?」


 呆れた声を出すアルフィに、流は今度は苦笑してしまったものだった。


 アルフィが指摘する“いやらしい笑い”は、流自身思うところがある。

 実は流がこのような軽薄な笑みを浮かべるようになったのは、ゲームタワーで勝負をしていたときからのことであり、おそらくまだ日が浅いはずである。


 それ以前の流は、同じような笑いを浮かべる人種に明確な嫌悪感を抱いており、たとえどのような事情があろうと漏れなく侮蔑の対象だった。


 あの頃の流は、徹頭徹尾、顔面を殺気で漲らせた仏頂面をしていた。


 それを思い出したとき、流の脳裏に頬を張ったときの景気のいい音が蘇る。


 そしてそれが、薄ら笑いを浮かべて絡んでくる馬鹿に向けて、自分が放った平手打ちによるものだと続けて思い出してしまった。





『この異世界(セカイ)の救いよう』

――番外編 仄暗き青春





 神坐流(かみざりゅう)、高校二年生の冬。


 前日の夜に突然降り出した大雪は、近年では珍しくも積もり、その名残は悪辣にも歩道に植付けられた面倒じみた障害となっている。残った雪は誰がかき分けたのだろうか、かろうじて道一本分だけは足の踏み場が出来ており、そこと車道以外は雪、雪、雪。


 それが銀世界と称せるほど美しければ、風情の一つでも楽しめることが出来ただろうか?


 この辺りの都内らしい不衛生な景観では、路上に集められているゴミ袋と黒ずみがかった雪の塊に、大きな違いを見出すことは出来なかった。


 流はその寒さの残滓に縮こまりそうになる巨躯を、コートとマフラーで包んで登校していた。


 駅から学校への道は基本的に一本道だが、実は通学路と外れたコースがあり、流はほぼ毎日そちらを通って登校する。正規の通学路よりもこちらのほうが短く済み、他の学生達は滅多に使わないため空いているのだ。


 そんなおいしい隠し通路を、何故(なにゆえ)に他の学生達が利用しないのか。それにはもちろん理由があった。

 この道は慣習的にガラの悪い阿呆共が我が物顔で利用するのだ。下手にこの道を通り、連中に絡まれたらただでは済まない。


 もっとも、この近辺の高校で流に手を出してくる骨のある輩は、めっきりといなくなったものなのだが。


 流が通うのは偏差値の高い国立だが、そんなところでも学校を“シメている”だの、臭いことを吹いて廻っていた上級生が存在した。

 だが、そんな彼らに喧嘩を売られた流がそれなりに(・・・・・)反抗する様をみて、卒業生を含めた多くの者が下手にちょっかいをかけることを躊躇うようになったらしい。

 流を含めて十名近くの学生が病院の世話になったある喧嘩を契機とし、“神坐流”の名は瞬く間にウツボのような尾ひれを付けて、近辺にタブーとして伝播した。そんな失笑ものの事件が起こったのが一年の五月のことである。


 ――まあ、ありがたいというべきか。


 流自身、あまり他人に干渉されるのを好まない性格だった。

 それは鬱陶しいだの、面倒臭いだの、排他的な理由からではない。どう接していいのかわからない、というコンプレックスが起因するものであり、すなわち流はコミュニケーション能力に著しい欠陥を持っていると自分で思い込んでいるのだ。


 もっとも、そのことを流は重大な問題だと意識していない。

 ゲームや勉強、読書、バイト、ジム。他人に余計な時間を割かずに、色々なことが出来るのだから。


 ただし、ごく希に流は他人の事情によって、多大な時間と労力が無為に費やされることがあった。


 そして、目前の光景をみて、久々にそのときが来たことを流は予感してしまう。


 ――朝っぱらの(だる)いときから、胸糞悪いものをみせられた。


 住宅街の往来とはいえ、ひっそりとした裏地めいた箇所で行われている蛮行を見咎め、流は心中で悪態を吐いてしまう。

 そして、そこに居る男子五人の集団に向けて、流は歩みを早めて近づいた。


 制服着用が二人、萌え袖の男子とツーブロックの男子。私服の男二人は、小太りだががっしりした頑丈そうな男と、この寒い時期に脚のタトゥーをみせびらかすようなハーフパンツの男。

 そして、制服二人に羽交い締めにされている男子が一人。


「ディスイズアペン! ディスイズアンアポォ! ウゥン! アポォペェン!」


 羽交い締めにされている男子が叫んでいる。一瞬だが声が裏返った。


 ――大まかに事情は理解した流である。


 おそらく、ピコ太郎は何を血迷ったかこの道を通ってしまい、馬鹿四人に絡まれたのだろう。あるいは、無理矢理ここまで連れてこられたか。

 そして、四人組から下らない無茶ぶりでもされたといったところだろう。多分だが。


「伝わんねぇーなぁー……」


 と小太りが頭を抱える素振りをみせた。

 そして、右手で拳をつくり、肘を引く。


 ――引かれた拳がまさに突き出されようという寸でに、


「あ? 何? 何?」


 そう呼び掛けて近づいた流に、ハーフパンツが小太りの肩を叩いて流の方に注意を促した。

 制服二人はピコ太郎を解放する。


「何?」


 もう一度、流が四人組に訊く。


 『神坐じゃね?』、と萌え袖がツーブロックに囁くのが耳に入った。

 それを聞き咎めたのか、ハーフパンツが『誰?』と萌え袖に訊く。


「いや、誰キミ?」

「おい。テメエ消えとけ」


 小太りの問いを無視し、流はピコ太郎に視線を向けて顎で逃げるように促す。

 ピコ太郎は地面に置かれている鞄を拾うと、駆け足でその場を去って行った。そして、四人の誰もそれを制止しない。


「今の友達?」


 そう小太りが流に訊いたが、流は答えずに振り返り、学校へ向かおうとした。

 しかし、流石にそれを許してくれるはずもなく。


 小太りが流のコートを掴んだ。


「シカトか? コラ」


 小太りを振り向くと、彼は剣呑な視線を流に向けていた。

 ハーフパンツがニタニタと笑い、流の顔を見上げる。


「かっこいぃ。てか、ガタイいいねキミ。ゲイ?」


 ――パァン。


 弾けるような音と共に、ハーフパンツの顔が一瞬歪む。

 流の右手が彼の頬を張っていた。


「ってえ、テメ――ッ!?」


 流のアッパーが右肋骨の真下に喰い込み、ハーフパンツは声も上げずに地べたに蹲った。


「ニヤニヤしてんじゃねえよ。気色ワリイ」


 こんな風にボクシングを使うことに、流は心のどこかで沈殿していた(にが)りが浮上して舞うような、怒りに近い興奮を覚えていた。


「茶化しながらじゃねえとロクにガンつけられねえのか? なあ?」


 右足でハーフパンツの背中を蹴る。

 一回、二回、


「甘えてんじゃねえぞ。立てよコラ」


 ――三回、四回。


 途中で小太りが邪魔しようとしたが、何か(わめ)き立てた瞬間にジャブで鼻を折ると、両手で顔面を覆って大人しくなった。


「何とか言えや」


 のたうちまわって逃げようとするハーフパンツを、流はサッカーボールのように蹴飛ばしてまわった。


 流の靴が、ズボンが、彼が吹き出した血で汚れていく。


 流は自分の蹴りが明らかに度を超しているのを理解している。

 制裁や自己防衛ではない。もはや流が一方的な加害者だった。


 それほどまでに暴力を浴びせられるハーフパンツを、他の三人はただ途方に暮れて見守ることしかしない。


 流にも覚えがある。

 リングで対峙した相手の拳が、流の動体視力でもよく見えなかったとき、流はテンポ良く跳ねてチョロチョロ回るしかなかった経験があった。それを情けないことだと分かっていながら、圧倒的な無力感が身体を動かさないのだ。


 暴力を行使している側である流からみても、それは異様な光景だったように思う。


 ――ハーフパンツが涙声で許しを請うていた。


 異様すぎて、頭がイカれているとしか思えない。


 どうして格闘技の一つもろくに納めずに暴力が振るえるのだろう?

 流はそんな彼らが、イカれているとしか思えなかった。


 ――萌え袖が控えめに制止する声が聞こえる。


 その力の使い方はどうであれ、流に喧嘩をふっかけてきた者は、何かしら格闘技の経験者だった。特に有段者が多く、流とて手酷い怪我を負わされたり、負けたりすることさえあった。


 ――靴底に伝わる、骨が折れる感触。


 それに比べて、目前のこの連中のザマは一体何だというのか?


 『お前らの先輩だって格闘技くらいやってただろ?』『自分もそれぐれーには強くなりたいとか思えないの?』『何で弱いヤツを狙ったわけ?』『どういう神経で弱いくせしてイキってられんだ?』『その墨オシャレか?』『テメエ(ツラ)の皮何センチだよ? なあ?』


 一通り、そんな疑問を流は蹴りと一緒にぶつけていた。


 ――気が付けばハーフパンツはぴくりとも動かなくなっている。


 流は三人を射竦めた。

 ツーブロックが『すいません』と、三回呟いた。


 完全に興味を失った流は、そのまま学校へと歩みを進めた。


 そしてまた、流の中でヘドロのような鬱憤とも虚無感とも呼べる“何か”が溜まったのを自覚する。

 “それ”は生きるために大切なものを萎えさせる類いのものであり、“それ”が流の中で一杯になり溢れ出すことなど、おそらくないのだろうと予感していた。


 “これ”は将来的に流をどうしてしまうのだろう?

 そんな漠然とした不安感は、遅刻が決定した憂鬱に比べれば、どうでもよかった。



***



 朝に一暴れした報復は、帰宅際に訪れた。


 流が登校時の道を逆戻りする形で下校していると、マスクをした小太りがスポーツジャージに帽子といった出で立ちの男数名を連れ、待ち構えていた。

 彼らの一人はバットを所持しているが、草野球の帰りにしては軽装過ぎる。

 わざわざ尋ねるまでもなく、流を半殺しにしてきたのだとわかった。


「剣星クン入院したんだわ。全治三ヶ月だってよ」


 喋り方に若干の違和感を覚える。上手に発音出来ていない。

 おそらく、鼻だけではなく歯も幾らか折ってしまったのだろう。


「テメエ、死んだぞこのイカレやろ――ッ!?」


 小太りは青いジャージの男に肩を掴まれ、頬にストレートを喰らった。

 ぶっ倒れた小太りを、青ジャージは狂ったように踏みつける。


「何でテメエが仕切ってんだコラ!」


 その喧噪を余所にして、ブランド物の服で佇まいを固めた長身の男が前に出た。

 彼は流の目を見て、静かに訊く。


「お前、何かやってる?」


 格闘技のことだろう。

 ああ、この男はヤバすぎる、と流は悟ってしまう。


 流がため息で答えると、彼は黒い帽子を脱ぎ捨て、ゆっくりと流との間合いを縮めた。



***



「で、お前はそのチンピラぁ、バットでボコボコにして、仕舞いに脚の骨折った」


 夕陽が窓から差し込む取調室で、パイプ椅子に座る流を三人の制服姿の男が囲っていた。

 目前の机に座っている背広姿の刑事が、流に問うている。


「そういうことだろうが!」


 グレーの背広の刑事は机から降り、そこに置かれていた電気スタンドを掴んで流の頭を殴った。


 ――激痛。


 視界が明滅するが、表情を歪めまいと流は歯を食いしばった。

 たらりと額から血が滴る不快感を感じる。


 ――勘弁して欲しい。


 ブランド男との喧嘩が熾烈を極め、流も顔中体中が腫れ上がっているのだ。

 とはいえ、あの男の脚を折るまで痛めつけた覚えなどない。


 治療のために診療所に寄った帰りに、流は生活安全課の警官に補導されてしまったのだ。

 そして、何故か知らないが、ブランド男が流が覚えもないような怪我をさせられており、流にその容疑が掛けられているというわけのわからない案配だった。


「知らねえよ」


 ――もっとも、一度拳を振るった以上、負わせた怪我の程度など関係ないのかもしれないが。


「大人ナメてんじゃねえぞ! クソガキが!」


 今度はスタンドが机の上に叩き付けられた。スタンドの頭が吹っ飛び、それに保護されていたはずの照明のガラスが割れた。


「テメエだろ! 他に誰がやるってんだ! アァ!?」


 背広刑事が机を蹴飛ばした。脚が持ち上がった机はバランスを崩し、派手な音を立ててひっくり返る。

 そして、二十代半ばであろう若い警官が、流の髪の毛を掴んで低い声を出してみせた。


「全部吐くまで出さねえぞオイ」


 隅で机にかじりつくようにしている警官が、サラサラと調書を書き進めているのがわかる。


 彼らは少年事件を専門とする警察官だが、流のように暴力沙汰を頻発する子供には、対応が四課のそれに近くなるのだ。

 少年係といってしまえば、彼らの生態は誤解されがちになるだろう。彼らはどんなに幼い子供だろうが、クズの性質を見抜くのに長け、その相手に更生などは一切期待しない。流には憎んでいる節さえ見受けられる。


 ――流はため息を吐いた。

 ――ここらが潮時か。


 身に覚えもないことを認めるつもりは毛頭ない。

 だが、このまま流は家裁送りにされることだろう。


 いつかこういうときが来ることを、流はわかっていた。

 もう自分は碌な人生を歩むことはない、と漠然と考える。どこか現実感がない。もっとも、最初からさしたる興味もない流ではあるのだが。


「オイ、調書サインしろ」

「だから知らねえって」


 差し出された調書のクリップボードで、流の頭が(はた)かれる。


 再び背広の刑事の怒号が部屋中に響こうとした、その間際である。

 扉からノック音が鳴り、中年の刑事が入室した。


「林さん、ちょっといい?」


 突然来訪した刑事は、グレーの刑事を顎で退室するように指示した。

 林と呼ばれた男はクリップボードを流の顔に投げつけ、取調室を後にする。


 入室した刑事は流の知っている人物だった。

 恰幅のいい体付き、そして白髪交じりのオールバック、出っ張った前頭骨。


 彼は流の対面にある、机に巻き添えを喰らって横転しているパイプ椅子を立て直して腰掛けた。


「オゥ、流。久しぶりだな。また身体デカくなったか」

「……ご無沙汰してます」


 野太い声で気安く話し掛ける目前の男に、流は頭を下げた。


 ――生活安全課の馬場だ。


 馬場は流が初めて補導された際に、取り調べを担当した刑事である。それ以来、何かと流がやらかした際に顔を合わせることが多かった。

 流が知る限りでは、唯一戦略的な聴取を行う警察官であり、“いい警官と悪い警官”を実践した好事家めいた人物でもある。


 そして、純粋な暴力に耐性がある流にとっては、先程の林よりもよほど質が悪い手合いだ。人の弱みに理解を示すふりをする。そんな馬場のやり口が好かなかった。


「お前、少しは真面目になれよ。こないだの実テで十番以内(ヒトケタ)とったんだろ? 流石にそいつに停学喰らわせたら、高校(ガッコ)も示しつかねえだろが」


 唐突な世間話。

 確かに流は秋に行われた実力テストは、総合で学年八位だった。


 だが、その言葉が意味する本当の意味――というよりも、馬場が意図する話の流れを推し量り、流は腹の底を無遠慮に土足で踏みつけにされたような屈辱を感じた。


「何のハナシすか?」

「荻窪先生にご足労いただいたからな。お前ちゃんと謝れよ。俺も頭下げて善処をお願いしといたからよ」


 荻窪は流のクラスの担任の教師である。


 ――要するに、流の身柄引受人として馬場が勝手に連絡して呼び出したのだ。


「送致すんじゃねえのかよ……」


 流は歯をきつく食いしばった。唸るように、声が漏れる。


「あれな。一課がちゃんとやってるから。目撃者がさっき見つかったんだよ。お前がやったんじゃねえって、キチンと俺から――」

「おちょくりやがって」


 そんな流に、馬場は上体を乗り出して手を組んだ。


「なあ、流。お前、さっきは流石に肝冷やしたろ。いい加減、将来のことまともに考えろ。お前は俺がしょっちゅう相手にするようなクズとは違うんだよ。分別がある。今日のだって、絡まれた子を助けに入ったからなんだろ?」


 そんな風に、馬場は諭す。

 眉を垂らし、真摯な表情で流の目を決して逸らすことなく。


「お前、頑張ってるじゃねえか。いい高校入って、バイトしてよ。そんなかでスゲえ成績とってんじゃねえか。並大抵の根性じゃねえ。ロクでもねえお袋さんで、要らねえ苦労してんのはわか――」


 馬場が母のことを口に出したとき、流は反射的に彼の顔面にストレートを叩き込んでいた。


「この野郎ッ!」


 若い警官が怒声を上げて流を掴み、引っ張り上げて鳩尾に一撃を入れる。

 倒れ込んだ流をもう一人の警官が蹴飛ばした。


 二人掛かりで何度も踏みつけにされる。


 ――痛い。


 アバラが折れ、内臓が破れたのではと錯覚するほど。


 視界が白黒し始め、徐々にわけがわからなくなる。鼓膜がいかれたのか耳鳴りが酷い。

 感度の悪いテレビやラジオのような知覚の故障。それは砂嵐を想起させ、流は嘔吐感を覚えた。


「おい。もういいよ」


 そんな馬場の声が聞こえた気がした。

 ベチャ、と頬に生ぬるい感触。それが吐き捨てられた唾であることに、かなり遅れて気が付いた。


 流は髪の毛を掴まれ、無理矢理にパイプ椅子に座らされる。

 視覚異常による世界が回転するような倒錯感の中、馬場が鼻から下をハンカチで拭っているのがわかる。


「黙って蹴られっぱなしか。お前の名前覚えて長えが、ちったあカドが取れてんのかもな」


 ――パンチも加減してんじゃねえか。


 と馬場は付け加えた。


 そんな馬場の言葉が、先程までと僅かに声色が違った気がした。

 どうしてか、彼はもう流の中に居る初めて会った頃の馬場とは違うと実感させたのだ。


「もう行っていいぞ。あんま先生の手ェ煩わせんなよ」


 黙って馬場を睨み付けていた流だが、後頭部を叩かれる。


「『はい』だろコラ!」


 そんな警官の怒鳴り声の残響が、流の頭でしばらく木霊(こだま)していた。



***



「オイ。馬場さんの言葉、真に受けんじゃねえぞカス」


 少年係の窓口――待機している荻窪の元に向かう廊下で、流の襟首を掴んで連れている警官がそう吐き捨てた。


「いつまでも学生のコスプレなんざしてんじゃねえよ」

「学生だっつの」

「周りに散々迷惑掛けてるクズが何様だコラ? けじめつけてさっさと辞めろや!」


 言い放ち、警官は流の背中に蹴りを入れて突き飛ばした。


「次来やがったらマジで年少行きじゃ済まさねえ。死ぬまでオトし技(カツ丼)喰わせっぞテメエ!」


 這いつくばる流は、警官が去って行く足音を、ただ呆然と聞いていた。

 ややあって、流は痛む身体に鞭を打ち、立ち上がった。


 廊下に身体を預けながら、流は待合コーナーへの扉を開く。


「神坐君!」


 少し歩き、待合席付近に辿り着いたところで、担任の荻窪と若い男が流に駆け寄ってきた。荻窪の声に微かに安堵した自分を叱責する流である。


「酷いな……。えぇ? 病院帰りだろ? 何でこんなにボロボロなの?」


 中年らしくほうれい線が目立つ荻窪は、眼鏡を片手で持ち上げて流の有様に目を剥いた。


「そこでやられたのか?」


 若い男が強張った顔で、静かに尋ねる。

 その男の表情をみて、流は彼が一年の頃にほんの一時期だけ数学を担当していた新人教師であることに気が付いた。流は中間で満点を取り、さっさとその彼のクラスを抜けてしまったが。


「ただのオトし(カツ丼)だろ」

「ふざけるな」


 数学教師の声は震えていた。


 ――チリ!


 と流の脳裏で軽い火花が弾ける。


 彼の言葉には何のケレン味もない。ただ、真っ直ぐに、捻りも含みも存在しない純粋な怒りが、流ではない誰かに向けられている。

 単なる直感だが、流には無根拠な確信があった。


 流の為だけに憤慨する、そんな数学教師の若いだけの熱意に、


 ――イライラする。


 流の身を案じるだけの荻窪に、


 ――どいつもこいつも。


 歳を取っただけになった馬場に、


 ――ピーチクパーチク。


 腹の底の黒い沈殿が渦を巻き、瘴気と化して沸き昇っていく錯覚を抱く。

 それらは一度舞い上がると、流から人間らしい活力を奪うのだ。組み直した砂の城を、あっさりと飲み込む波のように。


 ――どうして、何もできねえくせに、そんな風に生きてられる?


「被害届出しに行くぞ」

「いいよもう。お互い様だしよ」


 いきり立つ数学教師を、流は制止した。

 そして、あまりの虚無感に、自嘲気味に呟くほかなかった。


「もう帰らせてくれ。ありがとな、先生」



***



 もう一度診療所に寄り、手当を受けてから流は帰路についた。

 日に二度も来るなんて、とスタッフが呆れていたが、彼らの侮蔑の眼差しさえ流は慣れてしまっていた。


 ――どうでもいい。何もかもが。


 夜二十時を回り、ようやく家に帰り着いた流を待っていたのは、一人で住むにはいささか広いツーDKの安アパートだ。


 あまりの脱力感に、流は電気を付けることさえせず自分の部屋に入る。

 鞄とコートを放り出し、床にどっかりと腰を下ろした。そのまま壁に背を預け、後頭部をゴンと打ってみせる。


「死ねよ……」


 情けなさ、惨めさ。

 心の奥底に眠っていた怨嗟が、ただシンプルに流の口から吐き出される。


 それはもちろん、自分に向けたものであり、そしてこの世界に向けたものでもあった。

 強くなれば、もうこんな風に誰かに恨みを抱かなくて済むのだろうか?


 学生達の、大人達の蔑視。

 彼らは流に消えて欲しいはずだが、面と向かって『死ね』とは言わない。


 チンケな喧嘩でしか、流は殺意を向けられない。


 だから、流はもっと切に願って欲しかった。


 ――誰か。誰でもいい。


 こんな壊れ方をしてしまった自分に対して。


 ――『死んでくれ』と言ってくれ!

















 ――静寂。


 ただか細く聞こえたモスキート音が、どこかの誰かがテレビを付けたことを教えただけだった。


 当然のことだろう。

 そんなことを他の誰かに心で祈り、何かが叶うわけが――、


 ヴー……、ヴー……、


 諦観にため息を吐きそうになったとき、流の携帯電話が振動した。

 それは直ぐに止むことはなく、着信であることが覗える。


 画面をみやるが、登録されていない番号だ。バイト先ではない。


 無視しようかとも考えたが、流は一つの可能性に思い至る。

 沈みきった流の心を、暗雲めいた靄が包み込んだ。


 それは、まさかという不安感。


 不安感? 安堵感?


 流は通話受諾の緑色のボタンをスライドさせた。


「はい、神坐」

『もしもし、こちら芝大学附属病院です。神坐流さんのお電話でお間違いないですか?』







「はい……」


 その予感が的中したとわかったとき、流は自分でも気が抜けたような間抜けな返事をしているのを自覚する。


『ご本人様ですか?』

「――あぁ」


 漏れたのは肯定の呟きではなかった。


 感嘆だ。

 どこか消極性を携えた理解や受容、あるいは否定しようにも抗うことなど一切出来ない、問答無用の現実に対する平伏。


 まるで、流の呪詛が明後日の方向で反映されたかのようだった。



『お母様のご容態が急変されました――』



 いつもの火花が散るような炸裂など、花片(かけら)ほども起こらない。

 ただただ、流の頭の中が遅れてだんだんと白く染まっていく。


 ――思考が回らない。


 音量のバーをゆっくりと消音(ミュート)へと近づけるように、自身の心の声がボリュームを下げていき、やがて聞こえなくなってしまう。


 流の母はアルコール依存症だった。

 肝硬変を患い、それがやがて重度の症状をきたして、家とそう遠くない病院に入院したのが、まだ蝉が煩わしい季節のことだ。


 ――肝臓癌を告知された。


 母は流が見舞いに訪れるのを、好く思っていなかった様子だった。おそらく、ミイラのように死人に迫る、自分の在り様を見られたくなかったのだろう。

 最後に面会したのはもう忘れるほど前。そして、周期的に流はそろそろ見舞いの頃合いだろうと考えていたところだった。


 通話後、流は大きな図体を抱え膝で丸める。携帯を両手で包んで、その角を額で押さえつけた。

 ほんの少し、あと僅かな時間だけそうやっていたかった。


 いつ死んでもおかしくないということは、医師や本人からも聞かされており、流はもうその日を待つばかりと思っていたつもり(・・・)である。


 決めたはずの覚悟は、目前にして母の姿を見る勇気を与えてくれない。

 それが無慈悲なまでの現実だった。


 ややあって、流は我に返る。


 薬が効いたせいか、痛みは大分薄れた。引き換えにするように、今度は鈍い身体の重みを感じながら、流はおもむろにコートを羽織る。


 母を見送るかもしれない(ところ)に、こんなにも無様な姿で向かわなくてはならなかった。



***



 流は将来のことを、道中でおぼろげに考えていた。


 自分は何を期待して生きればいいのか?


 はっきりとした(こたえ)を出すことは出来ない。

 だが、それは“今は”の話だ、と己を諭す。


 こうして洒落にならない馬鹿をやっていても、流はまだ余裕で取り返しがつく状況だ。学生時代のやんちゃに目こぼしを受け、害して来た誰かや何かを省みることさえせずに幸せそうに生きている大人が、ごまんと居るような世の中だ。

 もしかすると、流に羨ましささえ覚える底辺中の底辺が、想像も出来ないくらい大勢いるかもしれない。


 例えば、今度は学年で成績一位を争ってみたり、バイトでより成果が出せるよう尽力したり、ボクシングでプロ入りを目指したり。もし助かったら、母にカーネーションでもプレゼントしたり。


 現実になるかは別として、心構え次第で色々と楽しみようがある。それが流の人生のはずだ。


 少なくとも、人に暴力を振るったりはもうすまいと思う。真っ当に生きようと思えば、目前で誰かが理不尽に傷つけられたりする胸糞の悪さを、相手にぶつけずに心中に抱え込む努力をしなければならない。


 ――街頭が壊れてら。

 ――どれも逝かれてるってことは、停電か?


 バス停までの道は暗闇だった。

 途方もなければ方向さえもない、果てしなく広がる虚空を想起させる。


 流はその道を流はひたすら歩いて行く。


 だが、流は心のどこかで、そんな世界を(あゆ)(のけ)ることは、己には出来ないだろうと悟っていた。


 どんなに真面目に生きても、どんなに腐って生きても。


 今後の人生において、劇的に感動する“何か”は決して起こり得ない。


 どう生きようと流は、与えられた果てしのない時間を、ただ持て余して、とどのつまり無為に、自分の中に巣くっている常に冷めた自分自身に監視されながら。


 まるで蹲るようにして、尽き果てるのを待つしかないのだ。


 今、心に思い描いた将来のことや、そのために改めなければならない己の素行など、もうしばらくしたら綺麗に忘れているのだろう。









 流は識っている。

 何故、自分がみるセカイは、こんなにもクソなのか。







 ――それは、流自身が救いようがない、ただの弱虫(クソ)野郎だからに他ならない。



 ――だから流は、もし赦されるなら、強くなりたい。









<番外編 仄暗き青春 了>





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