10.暴かれた素性
もう春を迎えたとはいえ、流石にこの時間になると、外も暗くなるものである。
などと考えながら、ルアノ=エルシア・ルクターレは途方に暮れていた。
「おなかすいた……」
昨日、親切な二人組に危ないところを助けられ、さらには昼食をがっつりとご馳走になったとき、確かにルアノはツイていた。
腹が満たされ元気を取り戻したときは、勢い任せで無一文でも何とかなると意気込んでいたものの、いざとなるとやはり駄目。軍資金を貯めようにも、適切な仕事が見つからないのだ。
長期のアルバイトの募集は沢山あったが、ルアノにはホガロに長居できない理由があった。からといって、短期のものとなると、この近辺ではなかなか見つからない。
一応、警備の仕事は幾らかあったが、小柄な少女であるルアノは面接で落とされてしまうのだ。
「あああああ。もうどうしよう……」
ルアノは道端のベンチに腰掛け、頭を抱えた。
寂しい。
ルアノは今まで自分がどれだけ恵まれていたのか、つくづく思い知った。
――ヴァネッサ、ヴォルガぁ……。
緊急時に役に立ってくれるはずの二人は、今は居ない。
ルアノが王城を抜け出した際、ほっぽり出してきたからだ。
仕方がないではないか。
≪赤の預言≫により、上層の人間には事情を話してはいけないという、厳しい制約が課せられたのだ。ヴォルガを連れてきてしまえば、彼の立場上、何も聞かずにというわけにはいかないだろう。ルアノはそんな板挟みに遭いたくなかったのだ。
「ママ、あのお姉ちゃん、なんか困ってるみたい」
「しっ。見ちゃいけません」
そんな親子の会話を聞き、ルアノは世間の冷たさに涙を流しそうになる。
しかし、それも当然のことだと思い直す。
人は、そう簡単に他人を信じることはできない。
よしんば相手に悪意がなくても、関わり合いになった瞬間に責任が発生してしまう。
表か裏か。ただそれだけの判断を下すことさえも、人は過ちを恐れて尻込みするものだ。
つまり、自分のようなみすぼらしい、面倒くさそうな少女に関わろうとすること自体、間違った判断なのだ。
――そんなことができるのは。
――できるのは。
ルアノの脳裏に、リュウと名乗った少年の顔が浮かんだ。
目付きが悪く、口も悪い。見るからにただのチンピラなのに、行き倒れた自分を救ってくれた。
ルアノはその理由を聞いてみたとき、彼は適当な理由を細々と並べ立てていたが、要は親切心なのだろう。
ルアノは街中に立つ時計を見た。
――十七時だ。
リュウが言っていた≪ウルトラシング≫の出航は、十八時。
彼はチケットが乗船券に換えられる時間いっぱいまで、ルアノのことを待っていると言ってくれた。
本当だろうか?
社交辞令ではないだろうか?
もし本当ならば、格好悪いが甘えてしまっていいのではないか?
ルネに着きさえすれば、ルアノは自分に付いている二人目のロイヤルガードである、ヴァネッサ・メロードルと連絡を取る手段がある。彼女は今頃、首を長くしてルアノの到着を待っているはずだった。
ルアノは立ち上がり、いやでもなあ、何て顔して頼めばいいかな、などと考えながら、波止場へと足を向けた。
自分でも今更何をほざいているのか、と自覚はしているが。
下らない思考を巡らせていると、視界の隅に青い髪の青年が映る。移民の多いハウネル王国では、青髪の者くらい珍しくないのだが、ルアノははてと心中で首を傾げた。
――今のは知っている人だったような?
そして、まるで電球が頭の上で光ったように、ルアノはその人物に思い至った。
しかし、そんなアハ体験に爽快感を覚えるのも、束の間のことである。
ルアノは胸の内で絶叫しながら、ぼろ臭いフードで持ち前の赤い髪を隠した。
――≪現身≫だ!
青髪の男は、クロード・ロイド。
ラアルのロイヤルガード、ハーゼ・ミストレイの部下だ。あの陰鬱とした顔は、上層で何度も見かけたことがある。
追っ手なのだろうか?
どうしてここがわかったのかは知らないが、おそらく間違いないだろう。
そもそも、今までルアノに誰も接触してこなかったのが奇跡的なくらいである。
これはもう、いよいよ四の五の言ってられない。
何があっても逃げ切らなければゲームは敗け。世の中の常識だ。
ルアノはクロードの視界に入る前に、小走りで波止場に向かった。
***
時刻は十七時十分になる。
リュウは懐中時計をポケットにしまい、ため息を吐いた。
もう間もなくタイムリミットだ。
≪ウルトラシング≫への乗船はあと二十分ほどで締め切られる。リュウの持つチケットを乗船券に換えることができる時間は、更に早い。
リュウは切符売り場前に並べられた、背もたれ付きのベンチから腰を上げた。
おそらく、エルシアは来ないのだろう。
どうするつもりか知らないが、リュウには彼女の健勝を祈るほかない。
と思ったとき、
「……来たよ」
未だに腰掛けているシロノがそう告げた。
彼と同じ方角に顔を向けると、確かに小柄な少女が小走りで近づいて来る。
頭をフードで隠しているが、昨日と同じ服装なのでエルシアで間違いない。
また追われているのだろうか?
「リュウさんリュウさんリュウさんリュウさん」
そんなリュウの推測を肯定するように、彼女は小さな早口でリュウを呼びながら寄って来た。
「よかった。ホントにいてくれて」
周囲を警戒するように、彼女はキョロキョロと辺りを見回している。
「ごめんなさい。やっぱり、わたしもクジラに乗せて」
「条件がある」
「何で!? 昨日はそんなこと言わなかったじゃん!」
冷たく言ったリュウに、彼女は目を縦楕円にして抗議した。
「さん付けを止めろ」
「ハイ止めます。リュウリュウリュウリュウリュウ。ハイ止めました」
リュウは無言でエルシアにチケットを差し出す。
それを受け取ると、彼女はリュウに礼を言って、切符売り場に駆け出した。
出航間際の時間ということもあり、行列もなく、彼女は待たせることなくリュウ達の元へと戻って来た。
「ホントにありがとね、リュウ」
「気にすんな。それより早く乗ろうぜ」
リュウは顎で切符売り場の出口を指した。
「オメー、また追われてんだろ? 昨日の連中か? 今度は家のモンか?」
「どうしてわかったのかは聞かないけど、ある意味もっと厄介な人だよ……」
ルアノは身震いして答える。
よほど緊迫しているということか。ならば、さっさと船に乗った方がいい。
そう考えながら、
「何じゃそりゃ?」
リュウはせせら笑って歩き出した。
賭場で踏み倒しをする少女が、一体何を恐れるというのか。
「いやいや、ホントなんだって」
そう言いながら、彼女はリュウとシロノに付いてきたものだった。
***
『新造客船、≪ウルトラシング≫のご乗船ありがとうございます。間もなく、本クジラはルネに向けて出港いたします』
ルアノ達は乗船後に、各人に割り当てられた客室に荷を降ろすと、プロムナードに配置されている円卓に腰掛けてくつろいでいた。
「うわー、お金かけてるねえ」
広々とした廊下、そして乗客のために窓際に設けられた、無数の机と椅子。
≪ウルトラシング≫はその名の通り、シロクジラの中でも最も大きな造りになっているはずだ。このような贅沢なスペースを提供できるのは、世界中を探しても、そう多くはないだろう。
「珍しいのか?」
「え? そりゃ、珍しいでしょ……」
しかしながら、リュウはいまいちピンときていない様子で首を傾げた。
おかしいな。と心中不安になるルアノである。クジラに対する認識を誤っているほど、浮き世離れしているつもりはないのだが。
「ね? シロノさん」
ルアノは向かいに座っているシロノに振るが、彼女は窓の外の景色に釘付けになっているようだった。
「諦めろ。コイツはなかなか口を開きやがらねーんだよ」
リュウはそう言って、手を横に振った。
本当に不思議なカップルである。ルアノは苦笑いを浮かべてしまう。
「んなことより、自分の部屋に隠れてなくていいのかよ?」
そんなリュウの指摘に、ルアノはその身を震わせるほどの緊張を思い出す。
だが、流石にもう追っ手は撒いただろうと信じたい。いくらなんでも、処女航海のクジラに乗船しているとは思わないだろう。
「マジで大丈夫だと思うなら、何で獲物を持ってるんだ?」
ルアノは心臓が跳ね上がったような錯覚に陥った。
まるで、ルアノが平静を保とうとしていることを、見透かしたようなリュウの声。
彼はきっと気が付いている。ルアノが奥底で抱いている恐怖心に。
――クロード・ロイド。
≪剣竜の現身≫である彼は、冗談ではなく危険な存在だ。
少なくとも、ルアノが知っている彼はハーゼの部下であり、そういう意味では安全かもしれない。
だが、それはもう一年も前の話だ。異動になっていることもあり得る。
――もし、彼にサレイネの息がかかっていたら?
ルアノは背負っているアレを自分の身体に結びつけているベルトを、ぎゅっと握りしめた。
「癖、直したらどうだ?」
ふと、リュウが言った。
何のことかわからず、ルアノはリュウを見た。
彼は自分の首の後ろに、右手を当てている。
「コレだよ、エルシアさん。自信のなさ、恥ずかしさを感じているとき、後ろ首に手をやるだろ」
ああ、とルアノは思い至った。
確かに、自分にはそんな癖を持っている。ラアルやヴォルガに、指摘されたことが度々あった。
「ああ、コレ? わかってるんだけど、なかなか直せなくてさ」
『あと、わたしにも“さん”付けしなくていいよ』。そう言って、自らの後ろ首に手をやりながら誤魔化すように笑う。
リュウは口元に笑みを浮かべて、『それわかるわ』と相づちを打ってくれた。
そんな彼をみて、ルアノは少し気が紛れるのを自覚する。
――リュウがいてくれて良かった。
ルアノは心からそう思う。
自分一人の状態でクロードを見ていたら、ルアノは心細さから、どうにかなってしまっていたかもしれない。
実は、ルアノが自分の客室に隠れていないのは、誰かと一緒にいたいからだった。
悪人顔で意地悪な少年だが、彼には返しきれないほどの恩を受けた。人は見かけによらないものだ。
そもそも、ルアノは最初にリュウを見たとき、どうしてか初めて会った気がしなかったのだ。
そこでルアノは、再び既視感を覚えた。
どこかで会ったことがある。これは最近、別の人にも思ったことだ。
――そうだ、クロードだ。
先程クロードを見かけたときに、どっかで見たことあるなあ、などと悠長なことを考えたものである。
そう思い至ったが、まだルアノの中で、何かが引っかかっている。
気になるのは、クロード・ロイドの青い髪だ。
――ロイド?
――ロイド、ロイド。
そうルアノは頭の中で繰り返した。
ロイド。最近、どこかで聞いた名前なのだ。
――そうだ、これか。
まさにこれが、ルアノが抱いている違和感だ。
「難しい顔しやがって。そんなに心配なら、やっぱ部屋に戻った方がよくねえか?」
「いや、違くて……。人の名前を思い出そうとしてるんだよ」
いつの間にか、うんうんと首を捻っていたのか、リュウは見かねた様子で声を掛けてきた。
「何だよ、知り合いか?」
「んー、違うと思う」
「じゃ有名人か?」
「有名人? 有名人かなあ……」
有名人。
何となく、そうかも知れないと思った。
“ロイド”という名で、ルアノが直接会った人物は、クロード以外でいないはずだ。何となく、名前だけ知っている人物のような気がした。
いや違う。ルアノはその人物を見た覚えがある。
ロイドは青い髪。
「あ、あ」
ルアノは思い出した。思わず声を零してしまう。
――ロイド。
それは、先日行われた≪剣竜の現身≫最終選抜試験で、≪決戦≫の監督官だった男だ。彼もロイドという姓だ。
そして、ルアノは二人が同姓であることが、偶然ではないことを思い出す。
監督官の方のロイドが呼ばれたのは、確かクロードの兄だったという些細な理由で、王国騎士団の試験官達が採用したのだ。
「思い出したのか?」
「うん。いやー、スッキリしたー」
ルアノはあははと笑う。
――≪剣竜の現身≫最終選抜試験。
そんなものがあったなあ、とルアノは遠い昔のことのように思いを馳せた。
あの≪決戦≫は選抜試験の歴史上、前代未聞な勝負になったものである。
一人のとんでもない馬鹿な参加者が、行われた≪決戦≫の根幹を揺るがすような行動を起こしたのである。
――!?
ルアノは目をひん剥いて、リュウの顔を改めた。
「何だよ?」
「!? ……!?」
「おかしいな。突発性難聴にでもなったか?」
リュウはルアノをコケにするような笑みを浮かべながら、自分の耳をポンポンと叩いている。
その悪い目付き、いやらしい口元。
ルアノはようやく思い出す。やはり、リュウのことを知っていたのだ。
彼は、あの≪決戦≫で幼馴染みの女の子の足下を見て、最終的にグレード5の生徒達から大金をかっさらったクソ野郎――、
「――ウィング!」
「ウィングねぇ。まあ当たり前だが、俺は知らねーや。シロノはどうだ?」
「……」
「……違うよ!」
未だにすっとぼけたことを言うリュウに、思わずルアノは叫んでしまう。
その反応に、リュウは眉を垂らした。
周囲の乗客達が、ルアノに注目していることに気が付いた。
――マズイ。
ルアノは縮こまって、声を抑た。
こそっと、秘密の話のように彼に顔を少し寄せ、本当のところを確認する。
「……ねえ、リュウって本当はウィングって名前じゃないの?」
「……あー、なるほどねえ」
得心がいったように、リュウは呟く
彼は椅子の背もたれに、思い切り寄りかかった。
「さて、どうだろうな?」
余裕の笑みでリュウはとぼける。今度は確信的に。
そんな意地悪な態度に、ルアノはついムキになってしまう。
「いーや、しっかり思い出した。その外道面、間違いなくウィングだ。ウィング・アルナントカ」
ルアノはびしっとリュウに人差し指を向ける。
「思い出せてねえし」
『なんだよ、“アルナントカ”って』。そう彼はくつくつと笑っている。
しまいには腹を抱えだした。
そんなリュウの態度に、ルアノは右手を首の後ろに当ててしまう。
確かに、彼の姓を思い出せない。徐々に自信がなくなっていくのを自覚した。
――あれ、名前の方も“ウィング”で合ってたっけ?
もしかして、自分は今、すごく失礼な間違いを自信満々に言ったのではないか?
「いや待て、待てよ……」
とリュウはまだ笑いながら、ルアノに手のひらを向けて制止を促す。
「もし俺が、そのウィング? とかいうヤツだったとして、どうしてオメーがそれを知ってる?」
「え?」
まさかのカウンターに、ルアノは自らの失敗を自覚した。これは、定食屋でも指摘を受けたことだが、すっかりと忘れてしまっていた。
彼は最近まで王国騎士団の養成学校の学生だったのだ。つまり、彼のことを知り得るのは、上層の人間だけだ。
すなわち、ルアノは今、自分が上層の出身であることを自らバラしたことになる。
「そーいや、お前の名前も実は気になってたんだよなあ。エルシア……、エルシアねえ……。俺もどっかで聞いたことあったっけかなあ? シロノはどうだ?」
リュウはニヤニヤと笑いながら、顎に手を当てている。
その眼は、まるでネズミをいたぶる蛇のよう。
――マズイマズイマズイ。
ルアノは背中に冷や汗を掻いているのを自覚した。
確かに、ルアノは≪現身≫の最終選抜試験を観戦した際に、王国騎士団の団長であるゴルドーから、あの場の全員に名前を紹介されている。
しかし、実のところルアノの名は、そこまで知名度は高くないのだ。国民が関心を持っているのは、せいぜい国王、そして国務大臣といった政に関わる大物だけ。第一王女の名前の一般正答率はかなり低い。
ルアノ=エルシア・ルクターレ。
大丈夫……。そうそう思い出せる名前ではな――、
「ハウネル王国第一王女、ルアノ=エルシア・ルクターレ」
今まで無反応だったシロノが、その名を呟いた。彼女らしい綺麗な声である。
――何でこのタイミングに限って発言するのおおぉ!?
「そう、それそれ」
とリュウは軽く手を叩いた。
「いや、意外だな。まさかお姫様とはビックリだ」
ルアノはショックで灰と化した。
いや、わかっていた。
リュウの発言から、彼にルアノが上層出身であるという可能性を抱かせていることは、わかっていたのだ。
――しかし、こうまで簡単に正体を言い当てられてしまうとは。
安易に先代の名を使うのではなかった。
ルアノは自分の身体が、サラサラと風化していくのを自覚したものだった。




