09.ヒールの魔女
リュウは指先に小さな水球を浮かせていた。
アルフィの師事から外れて二週間ほど、訓練は欠かしたことがない。一応、こんな芸当は成せるようにはなったものの、これでは宴会芸にさえ使えない。
かつてアルフィから指導を受けていた頃と比べ、奇手としての成長速度が激減した気がしてならない。リュウにはよくわからないが、それは彼女の指導が的確だったからなのだろうか。
そして、ウィルクの能力である≪振り直し≫は、未だに使うことができない。
アルフィの言った通り、≪振り直し≫には秘密の発動条件が存在するのか、あるいは単純にウィルクの身体を神坐流が乗っ取ってしまったのが原因なのか。
とやかく考えていても仕方がない。
リュウは大きく息を吸い込んだ。外から体内にヴェノを取り込むには、結合している酸素を吸うのが一番手っ取り早い。そして、それ以外の方法をリュウは知らない。
今度は取り込んだヴェノを消費して、空気中のヴェノに干渉する。
指先の水の魔弾は、ほんの僅かにその体積を大きくさせた。
リュウは最近、ようやくここまでを意識的にできるようになった。
ウィルクの身体が、徐々に思い出してきたのかもしれない。そう考えると、少しばかり気味が悪いが。
「お」
などと考えていると、水球はパチンと弾けてなくなってしまった。
少し気を逸らすとこれである。アルフィやレティシアはまるで手足のように魔弾を扱っていたが、あの領域に辿り着くのに、どれだけの時間を掛けたのだろう。
ウィルクの友人であるタオイェンは、アルフィなら将来的にア・ケートで五本の指に入る奇手――、【五大神術士】の一人にカウントされるようになるだろう、と言っていた。
ウィルク共々、つくづく化け物じみている。
もしかすると、アルバーニア孤児院は引き取った少年少女に魔改造を施して、人工的に天才を造り上げる謎の施設なのだろうか?
馬鹿げた考えだが、異世界の別人格に意識が乗っ取られるような世界だ。天才を生み出す奇跡が起こせる奇手がいてもおかしくはない。
リュウは首を横に振った。
こういう下らない話は、誰かとしてこそ面白い。
リュウは養成学校でウィルクの友人達と過ごすことで、それを識ることができた。
あとでシロノにでも話してみようか。彼がまともに相手をしてくれるとは思えないが、黙って聞くぐらいはしてくれるはずだ。
――してくれる、か。
――弱くなっちまったのかもしれないな。
そう心中でごちる。
孤独だった神坐流の頃が懐かしい。
あのときは、誰かと会話をしなくても平気だった。もっとも、バイトの時間に業務連絡くらいはしたが。
もし、自分が再び元の世界に戻ることができたなら、どうやってか友達の一人でも作る努力くらい、きっとするべきなのだろう。
リュウは公園に備えられている大時計をチラリと見た。
もうそろそろ三十分ほど経ってしまう。
もしかすると、シロノがリュウを探して徘徊してしまうかもしれない。またナンパ地獄を処理するのは御免だ。
リュウは宿に戻ることに決めた。
公園を出て宿に戻る道の最中、急勾配の下り坂が待ち受けている。
場合によっては登りよりも厳しいそれを、リュウは難なく降っていく。
その途中で――、
目を引くウェーブの金髪。肩周りの露出が多く、セクシーな漆黒のドレス。
引き締まった輪郭と綺麗な目鼻立ちで、その身長に比して小さい顔。
そんな女が坂を登ってくるのが視界に入る。
彼女はその背中に、数人の男をずらずらと従えている。彼女の真後ろを歩く二人に至っては、黒いダークスーツを身に纏っている。
黒服組だ。
特別珍しいわけではない、とリュウは最近になって知るようになった。ガリバー傘下の企業など田舎を含めてそこら中にあり、ときに黒服組がそこに顔を出すことがあるらしい。
特に今日はこの町から≪ウルトラシング≫が出航する日だ。
黒服組や制服組がそこらにいても不思議なことはない。
彼らの先頭が、意味不明な色気を醸し出しているゴージャスな女であること以外、特に気にとめることなくすれ違ったリュウである。
だが、そこである違和感に気が付く。
リュウは通り過ぎた一団を振り返った。
そのとき、彼女の足下は確認することができなかったが、リュウがすれ違った瞬間に目に入り、耳に届いた事実に、もしかすると戦慄するべきなのかもしれない。
高級そうな黒のドレスに、何の不自然もなく合ってしまう靴だった。
そして、その靴が鳴らす、カツカツという高い足音。
この急勾配の坂で、彼女はヒールを履いたまま歩いていたのだ。
***
地方公安局、≪ウルトラシング≫警護チーム。
ハウネル国立兵によるこの警護班は、要するに本日十八時より出航する、シロクジラ≪ウルトラシング≫の出航、ひいてはその処女航海を記念した≪シーリング≫と港町ホガロ主催のパーティーの犯罪防止を目的とし、上層から派遣された公安局の王国騎士が主導となって構成したチームである。
この警護班は地方勤務の正規兵と王国騎士が大半を占める。かくいうクロード・ロイドも、ホガロに常駐する王国騎士の一人である。
「クロード。お土産っ、お土産よろしくねっ」
「何か面白いものがあればな」
クロードにまとわりつき、『土産土産』と連呼するのは同僚の女性騎士であるセーラだ。一年程前、クロードがホガロに赴任してきてからの付き合いで、そこそこ慣れ親しんだ仲だった。
彼女の仕事は≪ウルトラシング≫の出航を見届けるまでであり、パーティーの警護までは管轄外なのだ。一方で、クロードのスケジュールには、≪ウルトラシング≫内の警らと、目的地であるルネでの一泊が含まれている。
そこで彼女は、ルネの特産品をクロードにねだっているというわけだ。
「ああー、いいなー。≪シーリング≫の気合い入ったパーティ……、羨ましいなぁ」
「恐るべきことに、手当が付かないがな」
編成はずっと前から決まっているというのに、いまだに恨めしそうにするセーラである。そんな彼女に、クロードは見向きもせずに世知辛い現実を突き付けた。
「ロイド、ちょっといいか?」
そうクロードに声を掛けたのは、彼の上司に当たる騎士だった。今回の護衛チームの乗船班のリーダーを任されている。
「セーラ。先に警らを始めていろ」
リーダーはセーラにそう告げ、ロイドに近づいてくる。ロイドは彼の話の内容に当たりをつけ、彼女に小声で『土産は買ってやる』と言い追い払った。
彼女は『はーい』と間延びした返事を返し、二人の元を離れていく。
彼女が完全に離れたのを確認し、リーダーはクロードに問いかける。
「大丈夫か? 辛気くさい顔が、今日は一段と酷いぞ」
確かにそうなのだ。
クロードは今、ある難題と任務の板挟みにあっていた。
「セーラに土産を頼まれただけだ」
「なら、少しは浮かれた顔をしろ」
適当に誤魔化したクロードを、リーダーは軽く小突いた。
そんな軽い雰囲気も一瞬のことで、リーダーは気を引き締めたように口調を改めた。
「今回は黒服組と連携して、任務に当たることになる」
「管轄の分担はしているはずだ。向こうからふっかけない限り、トラブルは起きないだろう?」
「ああ、俺達はな」
リーダーは腰のベルトを両手で押さえて言う。
彼の言いたいことは、クロードも十分わかっているつもりである。
「だが、お前の任務は違う。もしかすると、黒服組の連中が一枚噛んでいるか、良くても競合する可能性があるだろ?」
このクルーズの護衛には、大きく分けると二つの勢力が同時に行うことになる。
すなわち、≪シーリング≫のパートナー企業である警備会社と、上層公安局がホガロのために用意した、クロード達が配属されている護衛チームだ。
両者は十分な打ち合わせの末、それぞれの管轄を決め、各班のスケジュールを組んでいる。書面にもした。故に本来であれば、ブッキングによるトラブルは発生しない。
だが、クロードだけは別なのだ。
クロードには特別な任務があり、それを与えたのは全く別の組織である。
それを知っているのは、クロードが常駐している地方公安局でも、リーダーを含めて数名しか存在しない。
「お前にだけは黒服組と揉めるなとは言えん。死ぬなよ」
そう言って、リーダーはクロードの肩を叩いた。
「死ぬつもりはない。揉め事の責任をとるつもりもな」
「コノヤロウ」
軽口を叩いたクロードを、リーダーは再び小突いた。
クロードは僅かに口元を緩める。
≪ウルトラシング≫に麻薬が積まれているというネタがあった。
潜入捜査。
それが≪剣竜の現身≫である、クロードに与えられた本当の任務なのだ。
リーダーはクロードに、なるべく自分の事後処理の仕事を増やさないように注意すると、そのまま去って行った。彼なりにクロードを心配してくれているのだろう。
だが、“運び”の情報が事実であるなら、クロードは無茶をしないわけにはいかない。
クロードはそのために、ただの国立兵を辞め、王国騎士の密偵となったのだから。
だが、そんな決意を固めたクロードに、伝書鳩を用いた厄介な報せが今朝方届いたのだ。
これはクロードの本当の上司から彼宛への直通便であり、重要度と緊急度がいずれも高い任務が課せられる際に届くものだ。
それが、クロードの表情を暗くしている理由である。
しかも、内容が実に馬鹿馬鹿しい。その書面を読んだ後の印象としては、驚愕よりも呆れの方が勝ってしまったほどである。
ハウネル王国第一王女であるルアノ=エルシア・ルクターレが王城から抜け出た。ホガロ経由でルネに向かう可能性が高い。警らをし、見つけ次第保護せよ。
ざっくりと要約すると、そんな信じられない内容だった。
クロードは晴れた空を見上げて、この指令を下したハーゼ・ミストレイを、ぶちのめしたい衝動に駆られたものだった。




