21.姉弟の相談事(前篇)
時刻は零時をとうに過ぎた頃。
≪フロアセブン≫、王女のプライベートルームである“紅姫”で、ルアノ=エルシア・ルクターレは読書にいそしんでいた。
屋根付きの巨大なベッドに寝っ転がり、高級なシルクに包まれたダブルクッションの感触を楽しみながら読んでいるのは、ルアノの年のころの間で流行している幻想科学小説だ。
ごろん、と寝返りをうってうつ伏せになり、両脚をバタバタと交互に上下させる。
横になりながらの読書。その凶器じみた至福が、人間を駄目にしていくのだ。
そんな訳のわからないことを思いつつ、止められないルアノである。
「プフ……、くだらな……」
馬鹿みたいなギャグシーンで笑みを零す。
いい加減にして寝なければ美容にも良くないし、何より明日に差し支えるのだが、この本に飽きることができない。
――コンコン。
カーテン越しに、バルコニーのガラス戸を叩く音が聞こえたのは、そんな折だ。
どうやら、来客のようだった。それも、表からは入りたくない者の。
ルアノは本を開いたままベッドに置くと、カーテンの方を見る。
ノックはリズミカルに続いている。そのテンポが符丁であることに気付き、ルアノは来客の正体を認識した。
カーテンに近づいていき、一気に開ける。
バルコニーにはルアノの腹違いの弟である、ラアル・ルクターレが立っていた。
ラアルは笑顔でルアノに手を振っている。
黒いシャツに白いジーンズというラフな出で立ちから、ルアノは彼が超個人的な用事で訪れたことを察する。
例えば、『お姉ちゃんと一緒に寝たい』とか、そういうレベルの話だ。
――お前は何を言っているんだ?
そう、ルアノは自戒した。
「珍しいじゃん。どうしたの? こんな時間に」
そう言って、ルアノはラアルを招き入れる。
「ちょっとした相談事ですよ。失礼します、姉上」
ラアルは畏まった様子で部屋に上がった。
「お茶でも入れる?」
「こんな時間ですし、遠慮しておきましょう」
とラアルは優美な笑みを浮かべた。
――似合う。
後ろで束ねられているラアルの長髪は、サラサラとしたストレート。色もルアノの明るめの赤色とは違い、輝くような金色をしている。
気品のある雰囲気は、まさに王子のお手本だとルアノは思う。
「何? 恋愛相談?」
そう茶化して訊きながら、ルアノは長方形のテーブルに付いているソファに腰掛けた。
「いえ、私はそのようなことは――」
とラアルが言いかけると、ルアノは面倒くささを顔に出し、彼に腰掛けるよう促した。
「――俺ならそんな大事なこと、姉上にだけは絶対しませんよ」
そう彼はルアノの正面に座りながら言った。
「そこまで大事な話じゃないです」
「コイツ……」
弟がようやく口調を崩したと思ったらこれだ。少しイラッとした姉である。
「最近、王城内の空気がピリピリして、穏やかじゃないでしょう? 忌憚ない意見を、姉上から聞きたいなと思いまして」
ルアノの瞼がぴくっと反応した。
「あー、ちょっとした相談事かあ」
そう言うと、ルアノは立ち上がる。
「やっぱ、わたしソーダ飲む」
「俺の分も、お願いします」
「黒服組が何してるんだー、って話?」
ルアノはグラスに注がれたソーダにちびりと口を付けた。
ラアルは手でグラスを弄びながら、ゆっくりと喋る。
「三ヶ月前からです。最初は気にも止めなかったんですけどね」
三ヶ月も前からだっただろうか。珍しく、黒服組が上層内を出入りし始めたのは。
最初は週に一、二回だけ、ぽつぽつと一人や二人の来客があった程度だった、とルアノは記憶している。
しかし、ルアノ達が知らないところで、何やら大きなプロジェクトが動いているらしく、黒服組の出入りは徐々に多くなっていった。今では日に何度も、数人で王城にさえ登城している。このようなことは初めてだった。
おかげさまで、王城内の空気はかなり悪い。なんといっても、上層はハウネル制服組の本拠地なのだから。王国騎士や閣僚を始めとした役人達からしてみれば、自分達の縄張りを荒らされているような気分になるはずだ。
ロイヤルガード達でさえ何も聞かされていないようで、ルアノがお付きの一人であるヴォルガに事情を尋ねても、面白い情報は落ちてこなかった。
ヴォルガは言った。
彼らを動かしているのは数人の高級官僚であり、この件をちゃんと把握できているのは、王国騎士でも管理畑のごく一部の者のみ。
のんきなルアノは、今ラアルが相談に来るまで大して気にしていなかった。じきに彼らも姿を消していくのだろう。そう思っていた。
その見解に、
「それは間違いない……、と俺も思います」
とラアル。
「放っておけば、彼らはいなくなるでしょう」
「問題は何をしているのか、ってこと?」
ラアルは頷くと、グラスに口を付ける。
確かに彼らの正体は気になるところだ、何のために上層に来ているのか。
あれだけ堂々と黒スーツで動いているということは、官僚が個人で飼っている駒ではないはずだ。
彼らに対して、上層のどこかの組織が、正式に仕事を依頼したことになる。
「うーん。わかんないなあ。まず、ここで民間企業を使うメリットって何? ハンコいくつかもらわなきゃなんないんでしょ? 高級官僚とか王族とか。メッチャあちこち回らないとなんないじゃん。そうまでして、何させたいの? ていうか、何だったら承認下りるの?」
「ここ二年間、何回も議会を通じて、複数機関の主要人物から承認を得たそうです」
あっさりと答えるラアル。
「どうやってパスしたのかは未だにわかりませんが、彼らの依頼主と正体、業務内容はわかっています」
「へ? 誰が知ってたの? そんなの」
「ハーゼに調べさせました」
ルアノはソーダを吹き出しそうになった。
ハーゼ・ミストレイはラアル付きのロイヤルガードの一人だ。
国王を始めとした王族――ラアルやルアノ、さらに王国騎士であるロイヤルガードにも、本来は官僚達の業務に口出しする権限がない。
同じ上層――国の中核であっても、全く別の組織だからだ。
当然、余所の守秘事項を探ることは、重い刑罰に値する犯罪行為である。
各機関を見張るのは監査員、監察官達の仕事なのだ。
しかし、何事にも例外は存在する。よくフィクションの世界で見かける“密偵”である。
まず、それぞれの組織の情報をかき集める【王国調査局】。
彼らは秘密裏に各機関の裏側まで調べ上げる諜報員を、随所に忍ばせている。活動拠点がどこであるのか、知っている者はほんの一握りであり、組織体制も不明瞭である。それはルアノの父である、ハウネル王国の国王でさえ知らない。調査局は主席をはじめとした国務大臣の直属であり、王族達には調査局を使う権限がないからだ。
そして、もう一つの組織。
書類、記録上は存在しないことになっているが、実は王族達も調査局に似たような組織を持っている。
彼らに名は無く、上層のほとんどの者が存在すら認識していない密偵だ。
政権を持たない王族達の、見えない目と耳――、ときに手足となるその存在には、ロイヤルガードが何人か籍を置いている。存在しないはずの組織であるため、籍という表現は適切ではないが。
ハーゼ・ミストレイは後者の内の一人だ。
彼らのような密偵は、多くの権限を持つオールマイティカードであり、王族はその濫用を自重している。
それを、ラアルは使ったというのだ。
「そこまでする?」
ルアノは目を縦楕円に広げて、呆れかえった。
「いえ、こういう事態でない限り、我々から彼らに命じる機会なんてありませんから」
ラアルは涼しい顔でソーダを飲んだ。
確かに、ルアノに付くロイヤルガードにも一人密偵がいるが、あちらからの報告は滅多にない上に、あっても目を瞑るしかないショボいチクりばかりである。
もっとも、そこまで平和的なのは、ルアノが≪赤の預言≫を賜る巫女として、しっかり機能している証だが。




