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六章ー17話

 唐突な話の転換に少々面喰ったのか、答えはやや間を空けて返ってきた。


「……さて。どのようだったかな」


 とぼけた内容だ。気を遣ったのかもしれないが、続いた乙葉の声は固い。


「あの時惺壽、わたしの初恋なんて、幼稚すぎて恋とは呼べないって言ったのよ」


 話を聞き終えた彼が漏らしたのは、そんな言葉だったはずだ。



 視界の端で広い肩がわずかに上下する。


「今さらながらに恨み言かい。少々の経験則から物を言ったまでなんだがね」

「知ってるわ。べつに責めたいわけじゃない。あれが惺壽なりの励ましだったってことも分かってる」

「それは失敬」


 飄々とした言葉だ。なにを考えているのか、胸の底は読み取れない。


 乙葉は腕で抱えた両脚に視線を落とした。自分の膝頭を見つめながら言う。


「たしかに惺壽から見たら、わたしの初恋なんておままごとみたいよね。告白さえしてない。ただ、ライバ……ええと、恋敵がいるってだけであっさり引き下がったくらいだし。それに、新しい恋をすれば前の恋を忘れるっていうのも……本当だと思うから」


 淡く火照った頬を、さらりと耳から零れた長い猫っ毛が覆い隠す。


 新しい恋――そう途切れ途切れに紡いだことをどう受け取っただろう。


 惺壽はもう茶々も入れてこなかった。

 乙葉も返事は待っていない。


「ただ、……ただね。だからって、それが恋じゃなかったなんて、どうして決められるの」

 区切るように息をつく。

「たしかにわたし、森野くんの前では大きな猫被ってたわ。お淑やかなふりしたし、そんなに本好きじゃないけど、彼に会いたいから毎日図書室にも通った。……そういうわたしを見て、仲のいい友達は無理してるっていつも笑ってたけど」


 幼馴染の志保と凪沙は、たおやかな美少女を演じようと四苦八苦する乙葉を見て呆れ交じりに笑っていた。いわく「背伸びしすぎなんじゃないの」と。

 

 たしかにそうかもしれない。

 どうしても届かない場所に触れようとして、無理に爪先立ちをしていたのかもしれない。


「でもわたしは、そういう自分は嫌いじゃなかった。森野くんが好きだったし、……わたしを、好きになってほしかったから」


 吐息を零すように言った。両頬に掛かった髪が、その横顔をほのかに透かす。



「――なにが言いたい?」


 低い声は静かに尋ねてきた。


 たしかに我ながら支離滅裂だ。この先をうまく伝えられるかも不安だった。

 それでも、ここで引き下がるわけにいかない。



「恋じゃなかったなんて、言わないで」



 声は月明かりの中にか細く響いた。



 返事はない。だからこちらも続ける。


「惺壽から見たらおままごとみたいでも、わたしにとっては本物だった。……だって、たとえうまくいかなくても、恋じゃなかったなんて言ったら、そのために足掻いた自分まで否定することになっちゃう。――その間の想いごと」


 初めての恋を叶えたくて、自分なりに頑張ったのだ。

 必死の努力だったけれど、辛いと思ったことはない。

 頑張った。けれど実らなかった。ただそれだけの結果だ。


 その時間を駆け抜けた自分を、胸に積もった想い出を、恋じゃなかったという一言で、なかったことにしたくない。


 しばらく沈黙が落ちる。やがて、丸まった乙葉の背中にため息が降りかかった。


「……話の繋がりが不明なんだがね。俺は、この先見えることのない相手を気に掛ける、その意義を問いかけただけだ。初恋について惚気られる筋合いがどこに?」


「そうだけど……!」


 乙葉はたまらずに顔を上げた。


 たしかに惺壽の問いかけから逸れたことを言っている自覚はある。

 それでも伝えたいのだ。

 二度と会えない、繋がることのない相手を想うことを「時間の無駄」なんて一言で終わらせたくないと。



 半身を捻るように振り仰いだ乙葉の、すぐ間近から、惺壽はこちらを見下ろしている。精悍な美貌は平坦だ。

 その薄青の双眸に、頑なな表情の自分の顔が映り込んでいた。

 なんだか今にも壊れそうなほど脆く、張りつめた表情だ。


 そんな情けない顔を見られたくなくて、乙葉は振り返った態勢のまま、すこし顔を俯ける。


「……初めて鈿女さんの屋敷に行った時、惺壽が蕾の枝をくれたことが嬉しかった」


 下げた視線は中途半端に、彼の白い装束の胸元をさ迷っている。

 

「無理して背伸びしてたわたしも、素のままの私も、どっちも認められた気がしたの」


 目を閉じなくても、脳裏には、純白の花をたわわにつけた李並木の風景が鮮やかに甦る。

 雪片のような花びらが舞い散る中、惺壽が乙葉に差し出したのは、まだ固く閉じた李ばかりをつける一枝だった。


 そうして言った。

 ――満開と咲き誇る大輪はまだ早い、と。


「蕾はいつか花を咲かせる。――その時まで、わたしなりに待ってればいい、惺壽はそう言ってくれたのよね?」


 決して、空回り気味に飾り立てたことを否定したわけではない。

 彼はただ、乙葉はまだ蕾だと教えただけだ。

 そうして、その蕾はいつか必ず咲き綻ぶと。

 

 その一言に深い意味なんてなかったのかもしれない。

 けれど乙葉にとって、それは、始まる前に終わってしまった恋の赦しに思えた。

 そのために歯を食いしばった自分ごと認められて、また新しい巡り合いに目を向けるよう優しく促された気がした。

 


 だからこそ、失恋の真相を惺壽に打ち明ける気になった。

 本当なら幼馴染たちにも話すつもりのなかった話だ。

 出会って日も浅い他人に話すはずなんてないのに、それでも、そう言ってくれる惺壽になら話してもいいと思った。


 そうして、彼はやはり、それを静かに受け流してくれた。

 その痛みをことさら憐れむわけでも、くだらないと笑ったわけでもない。

 ただ、彼らしく、未熟すぎて恋とも呼べないと慰めてくれただけだ。


 そのことに戸惑いを感じはしても、反発を覚えたわけでもない。

 取るに足りない戸惑いだった。ここで蒸し返さずに受け流してもいい話だ。

 

 それでも、今、こうして彼に拙い言葉を重ねているのは――


(いつか、わたしのことも、恋じゃなかった相手になるの?)


 

 会えない相手を想うのは無駄だと彼は言う。

 その相手に、今はこんなにも胸が痛むのに、――その事実ごと、惺壽はいつか否定してしまうのだろうか。恋とは呼べなかったと。


(じゃあ、今、ここにいるわたしたちは、なに?)


 あの白い花吹雪の中で胸が高鳴ったことも。

 月明かりの湖畔で時空の嵐を必ず守り抜くという誓いに声を失ったことも。

 

 すべて、恋とは呼べない、ただの想い出の一つとして片づけられてしまうのだろうか。

 やがてまた、新しい恋を知るうちに。


(違う)


 忘却の彼方に遠ざかることはあるだろう。

 それはちょうど、乙葉が惺壽と巡り合って、失った恋の痛みを忘れたみたいに。 

 けれど、それは無じゃない。


 恋とは呼べないと、この想いを否定する根拠にはなり得ないはずだ。

   

 “今”、この時、この感情が、胸の中にたしかに芽生えているのは事実だから。


(これを、情熱って呼ぶんでしょう)



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