記憶の中の面影
フレデリック視点です。
「今……何とおっしゃいましたか……?」
驚きを隠しきれず、大きく目を見開いたまま、硬直していると、目の前のワインレッドに染められた唇が大きな弧を描き、鮮やかな青緑色の瞳が細められた。
「あなたの婚約者はアイリーン・ロードナイト伯爵令嬢だと言ったのよ」
豪奢なソファーにもたれ掛かった母は燃えるような真紅のドレスを身に纏い、ギラギラと存在感を際立たせている。美しい緑の髪と青緑色の瞳とは対極のコーディネートは威圧感すら与える。
「し、しかし……彼女にはすでに婚約者が――」
突然、ピシャリと扇子を閉じる大きな音が室内に響き渡り、目の前に浮かんでいた笑みが一瞬にして消え去った。
背中に嫌な汗がツゥと流れるのを感じる。
「ジルコニア公爵令嬢がいなくなったのだから、何の問題もないわ」
(いや。だからこそ、問題なんだ……)
愛する婚約者を失って間もないというのに、その次を、などとまだ考えたくもない。
しかし、一人息子である自分が王子として次期王妃候補をいつまでも決めないわけにはいかないことも理解している。
ただ、母の発言は理解できない。
アイリーン・ロードナイト伯爵令嬢は、すでにレオナルド・ガーネット伯爵令息と婚約している。それを破棄させてまで結婚させるなど、いくら王族でも許されることではない。
「言ったでしょう? 私があなたにふさわしいとっておきの婚約者を用意してあげる、って。だから、あなたは何の心配もしなくていいわ」
確かに前々から母はディアとの婚約を認めておらず、婚約者は自分が決めると言っていた。
そういえば、ロードナイト伯爵令嬢を王妃の茶会に誘っていた。その時は自分たちが犯してしまった失態を補ってくれたのかと思っていたが――まさか、その茶会で彼女のことを気に入り、婚約者にと考えたのだろうか。
とはいえ、あの時点で彼女はすでにガーネット伯爵令息と婚約していた。
母がどうしてそこまで彼女にこだわるのか。それも理解できない。
ある日を境に変わってしまった母。
記憶の中の母と、今目の前にいる母の姿が重ならない。春の陽射しのような柔らかい微笑みも、おっとりとした話し方も、鈴を転がしたような声も、すべてが病とともに消え去ってしまった。
母が病を克服できたことは嬉しい。しかし――
「フレディ」
胸の奥が、どくりと大きな音を立てた。
もう、何年もその呼び方をされていない。
対面に座り、両膝の上で拳をぎゅうと握りしめていた私は久しぶりに聞いたその優しい声色と呼び方に、落としていた視線を上げた。
「――っ!!」
見覚えのあるふわりと綻んだ表情が、瞳の中に飛び込んできた。
「あなたには幸せになってもらいたいのよ」
艶やかな装いが似合わない、柔らかな微笑み。
「私が生んだ可愛い息子だもの」
「母上……」
そうか。母は、落ち込んでいる私を黙って見ていることなどできなかったのだ。だから、早く次の婚約者を決めようと――
「そうだ、あなたに渡したいものがあったの」
「……?」
母は徐に立ち上がり、私の隣に腰掛けた。
こんな近くに座るのは幼少期以来だ。何だかくすぐったいようなソワソワした感覚がする。
「横を向いてくれるかしら?」
耳元で優しく囁かれた言葉に幸せを噛み締め、素直に顔を横に向けた。
母が私の耳に触れる。その手の冷たさに一瞬ビクリと肩を揺らすが、耳元でカチリという音が聞こえたのを最後に――意識がぷつりと途切れた。
「あ、れ……? 私は一体、ここで何を……?」
ふと気がつくと、自室のソファーにもたれ掛かっていた。
先ほどまで母の部屋で話をしていたはず。
久しぶりに見た母のあの姿は、やはり私が抱く幻想だったのか――と、夢の中で母が触れた所にそっと手をやった。
「……っ!!」
私は慌てて立ち上がり、鏡台の前に移動した。そして、鏡に顔を近づける。
「夢、ではなかった……」
私の右耳に青緑の鉱石がはめ込まれた金色のピアスがキラリと光っている。
「綺麗な色だ」
その石は、まるで――母の瞳のようだった。




