不穏な日々の憂鬱③
前半ディアーナ視点、後半がフレデリック視点です。
「えっ、婚約?」
フレディやディルク、そしてカイルスがアイリーンに謝罪してから割とすぐのことだった。
アイリーンがガーネット伯爵家の令息と婚約したという話を聞いた。
「ああ。ロードナイト伯爵令嬢はとても幸せそうだったよ。だから、ディアはもう何も心配しなくていい」
隣にピタリと密着して腰掛けた王子様が、物語さながらのとろけるような甘い笑みを私に向ける。
私の理想である初恋の彼が今、目の前にいる。こんなに幸せでいいのだろうか。私はこの物語の悪役令嬢なのに。
いつも不安になる。
幸せな瞬間を手に入れる直前で失った過去の記憶が常に付き纏う。
前の世界での“死”の感覚が抜けない。あの時の恐怖が忘れられない。目の前で飛び散った黒く赤い色が。
私がこの世界で最も恐れているのは――断罪による“死”だ。
今の私は、昔のディアーナとは違う。
それでも、物語が軌道修正をするかのごとく迫ってくる。
幼い子どもでも読めるように、ぼんやりとした描写ではあったが、物語の中のディアーナは亡くなっている。あれは、自業自得なのだけど。
でも、ここにきてアイリーンが他の令息と婚約するなんて。しかも、相手は物語に出てこない家柄。
本来ならディアーナの死後、アイリーンはフレディと婚約するために王妃の遠縁に養子として籍を置くことになるのだが、今の相手は同じ伯爵家で家格も同等。誰も何も文句を言えない婚約だ。今後、それを破棄してまで王家と婚約を結ぶことなど、ほぼないと言っていい。
これでやっと安心して、ずっと夢見ていた大好きな王子様と婚約できる。彼に断罪され、婚約破棄されてしまう未来が薄れたのだから。
でも。本当に大丈夫――?
「父上には許可を得たよ」
不安が顔に出ていたのだろう。心優しい私の王子様は何もかも見透かしたような瞳で私に微笑みかける。
「だから――ディア、私と正式に婚約してくれるかい?」
フレディが私の両手を包み込むように握りしめた。
私は彼の美しい碧眼を見つめる。そこに映っているのは、私が同情し、共鳴したディアーナの姿だ。
大好きな婚約者が主人公に心奪われていくのを一番近くで見ている未来はきっと来ないだろう。
「はい」
私は小さく返事をし、コクリと頷いた。
「よかった……」
フレディは力が抜けたのか、私の肩に額を乗せる。
私の身体がビクリと反応した。彼の呼吸が私の首筋を撫でる。心臓が大きく跳ねて、収まりそうにない。
(フレディに聞こえてしまいそう……)
私がギュッと目を瞑ると、耳元にクスリと笑い声が聞こえた。
「大丈夫。私の鼓動もディアと同じくらい速いから」
そう言うとフレディは包みこんでいた私の手を自分の胸に引き寄せた。
「あ……」
ドクドクという鼓動は私のものか彼のものか、わからないくらい同じ速度で脈打っている。
私たちは顔を見合わせると、笑い合った。
ただ――そんな幸せな時間は、やはり長くは続かなかった。
◇
「何故ですか、母上!」
先日、ロードナイト伯爵令嬢に王妃主催の茶会の招待状を渡し、その後、彼女が出席したと報告を受けてから、母に呼び出された。
私の抗議にまったく動じる様子を見せず、母はただソファに腰掛け、優雅に扇子を揺らしている。
「フレデリック。私はあなたとジルコニア公爵令嬢の婚約を認めません、と言っているのです」
「ですから、何故――」
母がパシンと扇子を勢いよく閉じた。私はその音の大きさにビクッと肩を揺らす。
ある日を境に、母は変わってしまった。
私が幼かった頃は、ふわりと柔らかい微笑みを浮かべる心優しい母だった。体調を崩し、高熱が続いて、生死の境を彷徨ってから、豊富だった表情はごっそりと跡形もなく消えた。
「彼女に王太子妃が務まると思うの?」
「それは……」
ディアは表舞台に出てこない。確かに、今のままでは難しいかもしれない。でも、やっと「はい」という返事をもらえたのだ。婚約すれば、王太子妃の教育が待っていることもディアは理解している。学園に入学しなくても問題ないくらいに彼女は優秀なのだから。
無表情が常になってしまった母が、美しい青緑の瞳をキラリと輝かせ、ゆっくりと口角を上げる。
「大丈夫よ、心配しないで。私があなたにふさわしいとっておきの婚約者を用意してあげる」
久しぶりに見ることができた母の笑みにはもう昔のような優しさも美しさも何も――感じられなかった。




