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第59話 エルマさんお怒り

 騎士団は氷の壁外、ポルタリア近辺の平原に展開している宿営地にまで撤退(てったい)していた。

 平原の宿営地に面するように、水の澄んだ湖が広がっている。


 静かにたたずむ湖とは裏腹(うらはら)に、宿営地の様子は慌ただしい。

 エルマさんのもとに次々と傷ついた兵士や龍が担ぎこまれ、懸命(けんめい)の治療が行われていたからだ。


治癒の波動(コンソリオンデュ)


 エルマさんとセレンの共鳴音が鳴りひびき、サクラの花のような淡く柔らかな光が、彼女たちを包みこんだ。

 彼女が龍の御技(みわざ)を発動すると、たちまち兵士たちの傷が()えていく。


 最重要戦力であるレゼル、シュフェルをはじめ、エルマさんは死の(ふち)におちいった兵士たちを救いあげていった。

 彼女が以前、重度のやけどを治療していたのは見たことがあるが、エルマさんは真逆の凍傷(とうしょう)もなんなく治癒(ちゆ)へと導いていく。


 彼女の(いや)しのちからは万能のようだ。

 氷のように冷たくなっていたレゼルとシュフェルのからだも、少しずつ暖かみを取りもどしているようだった。


 しかし、エルマさんがこれだけ多くの兵士たちを処置しているのは俺も初めて見た。

 エルマさんは命の危機に瀕している兵士や龍を的確に見極め、優先的に応急処置を行い、危機を脱した時点で手早く次の者の治療へとうつっている。


 だが、エルマさんのもとまでたどり着けず、搬送(はんそう)の途中で息絶(いきた)える者たちもいた。

 ここでもまた、数多くの死者がでた。 



「ふぅっ……」


 エルマさんが一時的な応急処置を終え、大きなため息をついた。


 彼女は最後まで一貫して手際よく処置を行っていたが、すべての治療を終えるころには日が暮れかかっていた。

 さすがのエルマさんとセレンにも疲労の色が見られる。


「エルマさん、お疲れさまでした」


 俺は彼女のそばまで行き、声をかけた。

 彼女はややぼんやりしながらも、俺のほうを振りむく。


「あら、グレイスさん」

「これだけの数の傷病者の手当、大変でしたよね。ほんとうにありがとうございました」


 俺は心からの感謝をこめて、彼女に頭をさげた。


「いいえ、レゼルたちが負った痛みや苦労に比べれば、大したことはありませんわ。兵士たちの治療は私の務めですもの。

 ……それにしても、気に食わないですわね」


 治療を終えたエルマさんは、一度はほっと安堵(あんど)したような表情を見せていたが、今は珍しく険しい表情を見せていた。


 俺は彼女のこんな表情を見たことがない。

 そっと触れるだけで指先が切れてしまう、刃先のような鋭さ。


 ……エルマさんが怒りをあらわにするのも仕方ないことだろう。

 氷銀(ひょうぎん)の狐やミネスポネの圧倒的なちからを見せつけられ、これだけの犠牲者がでてしまったのだから。

 あのレゼルとシュフェルですら、ふたりがかりでもミネスポネにはまったく太刀打ちできなかった。


「じつに気に食わないですわ。

 あのお方(ミネスポネ)……私とちょっと風体被(キャラかぶ)りしてましたわね」


 ……え、そこ!? 


 兵士たちの衣服にこびりついていた氷の欠片(かけら)がそちこちに落ちてまだ解けのこっていたらしい。

 俺の視界の端で誰かがスベって転んでいた。


「……という冗談はさておき。

 氷銀の狐たちは命を捧げて戦ってくれた兵士たちはもちろん、私の可愛いレゼルとシュフェルをこんなにも痛めつけてくれました。

 とても許すわけにはいきませんわ」


 冗談でよかった。


 エルマさんが、自分の膝もとで眠っていたレゼルとシュフェルの頭をなでた。

 ふたりはほんとうの姉妹のように頭を寄せあって、スゥスゥと眠っている。


 龍の御技の発動は使用者のからだにとてつもない負担をかけているうえ、彼女たちはミネスポネが発する強烈な冷気を浴びている。

 死闘からかろうじて生還し、ふたりとも疲弊(ひへい)しきっているのだろう。


「グレイスさん。

 この子たちはまた、オスヴァルトのような高い壁にぶつかり、そして乗りこえようとしています」


 俺がレゼルとシュフェルの寝顔を眺めていると、エルマさんが顔をあげ、俺のほうを見つめた。


「この子たちを、支えてあげてくださいね」


 エルマさんはもう、いつもの微笑を浮かべていた。


 俺はこの顔でお願いされると断ることができないし、彼女もそのことをよく知っている。

 彼女の言葉に、俺は深くうなずいた。


「はい」


 ……そうだ、俺は帝国を倒すために諸国をめぐって学び、考えつづけてきた。


 俺も、氷の壁内に侵入して氷銀の狐を目のあたりにするのは初めてだった。

 十年前に壁がつくりあげられて以来、奴らは壁内に潜んでいたため、世界的にも情報が乏しかったのだ。


 現時点ではどうすればあの強大な敵の軍勢を倒し、ミネスポネを倒すことができるのが、まるで見当がつかない。

 それでも頭を働かせて、レゼルたちを勝利に導くこと。

 それこそが、俺がここにいる意味じゃないか。


 あたりが暗くなりはじめ、動ける兵士たちがかがり火に火を灯しはじめていた。

 俺はその火を見つめ、思考をめぐらせた。




 次回投稿は2022/8/6の19時以降にアップ予定です。何とぞよろしくお願いいたします。

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