第234話 融けて消えゆく雪の華
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俺はからだを動かせないレゼルを抱きかかえ、ただ懸命に逃げていた。
帝国皇帝に背を向けて、『上板』から落ちてくる瓦礫のなかをかいくぐりながら。
「グレイスさん! お願い、戻って!!
お母さまはまだあそこにいるのっ!!」
「ダメだ!
君を生かして連れて帰るのがエルマさんが俺に残した最後の指令だ!
……それに戻ってももう、あそこにエルマさんはいないんだよ……っ!!」
レゼルは俺の胸のなかに抱えられながら、かろうじて動かせるようになった手を必死に伸ばしている。
彼女の目からあふれる涙が、俺の首筋にポタポタと零れおちた。
俺も胸が張りさけて、もう涙をこらえられそうにない……!
「……いやっ! いやっ!
そんなのいやあああああぁ゛っ!!」
最後にそう叫んだところで、レゼルは気を失った。
極度の疲労と精神的な衝撃で、意識が保てなくなったのだ。
涙を流しながら眠る彼女の様子は痛ましい限りだが、逃げるのに専念しなければならない今の状況にあっては好都合。
エルマさんが乗っているときのセレンを除けば、数多の龍を保有する騎士団のなかでももっとも回避技術に優れたヒュードと、もっとも飛行速度の速いエウロの二匹だ。
移動速度としては申し分がなく、これ以上は望みようがない。
だが、あの帝国皇帝からはたしてほんとうに逃げきれるかどうか……!
帝国皇帝は再び闇のちからを練りあげ、レヴァスキュリテの刀身に蓄えはじめた。
『余から逃げられるとでも思っているのか、愚かなる人と龍どもよ……!』
そうして、皇帝はレヴァスキュリテを振るった。
刀身から放たれた闇の塊は、一匹の烏へと姿を変えて羽ばたきはじめた。
しっとり濡れたように艶めく羽毛を、優美に羽ばたかせる烏。
……しかし、烏などと可愛らしいものにたとえるのはふさわしくないのかもしれない。
その烏は、小島をまるまる飲みこんでしまいそうなほど巨大な闇のちからの塊だったのだから!
『濡羽烏』!!
烏は落ちてくる瓦礫をその身に飲みこみ、消滅させながら突き進んでくる。
しかも、俺たちが方向を転換しても追尾して迫ってくる!
ヒュードとエウロは全力で飛んでいたが、限界までちからを振りしぼり、さらに速度をあげた。
二匹の速力はすばらしいものであった。
だが、烏のほうがわずかに速い……!
――どうする?
レゼルをエウロに託してふた手に別れるか?
だが、レゼルのほうを追われたらお終いだし、なにより彼女をエウロに乗せかえてる時間すらない!
少しずつ、少しずつ俺たちは距離を詰められていって……。
――ダメだ! やられる!!
……すべての終焉。
待っているのは無の世界だけ。
俺はレゼルとともに消える覚悟を決め、目をつむった。
――すみません、エルマさん。
ごめん、レゼル。
俺にはやっぱり、君を支えてあげるだけのちからがなかった……。
「主様っ!!!」
「ネイジュ!?」
俺たちと烏のあいだに立つように現れたのは、瓦礫を飛びつたってやってきたネイジュだった!
消息不明だった彼女が、こんなところに現れるだなんて……。
しかもエルマさんのように、左腕を失いながら!
「ネイジュ、なんでこんなところに……!」
「主様を護るためならっ、どこにでも馳せ参じるでありんすっ!!」
そうして、ネイジュは漆黒の烏の前に立ちふさがった。
……普通に考えれば、どうやっても今のネイジュにその巨大な闇の塊を食いとめる手立てはない。
だが彼女は、自身に残されたわずかなちからのすべてを次の一撃へとつぎ込むと決めていた。
そして、皇帝の一撃をくいとめることができるだけの出力を実現しうる技を、彼女はひとつしか知らない。
……それは母、ミネスポネの最大最強の技。
ネイジュは今まで一度たりともその技を成功させたことはなく、水氷の神剣エインスレーゲンの加護もない。
だが彼女は、自身の命も顧みずにそのちからのすべてを解きはなった!
『万物停止の華』!!
振りかざされた彼女の手から万物を凍てつかせる冷気が解きはなたれ、極大の氷の華が咲く!!
しかし巨大な漆黒の烏も、氷の華ごと彼女を飲みこもうと迫りきている!
「とまれっ、とまれっ……!」
ネイジュもまた、闇に飲みこまれまいと懸命に氷を供給しつづけていた。
だが……!
彼女のからだは小さな氷の欠片となって、徐々に崩れていく。
それでも烏の勢いが、とまらない!
「とまれえええええええぇっ!!」
最後まであきらめずに、ネイジュはちからを振りしぼりつづけた。
……そしてついに彼女の願いが天へと届いたのか、漆黒の烏は氷の華とともに消えていく。
しかし、ネイジュのからだも崩壊がとまらなかった。
俺は起こりえない奇跡が起こることを願うように、必死に彼女のほうへと手を伸ばした。
「ネイジュっ……ネイジュネイジュネイジュ!」
ネイジュのからだはさらさらと崩れていき、細かな雪の結晶へと姿を変えていく。
「頼む消えないでくれ、お願いだ……!」
消えゆく彼女は宙で身を翻し、俺のほうへと振りむいた。
彼女が見せた最後の顔は……。
笑っていた。
「そんなに泣かないでくれなんし。
氷銀の狐は神様の気まぐれで雪の結晶に命が宿り、ただかたちを成しただけのもの。
また自然へと還り、空をめぐって、いつも主様のそばにいるでありんす」
そうして彼女は小さな雪の華となり、融けて消えていった。
「ネイジュうううううぅっ!!」
次回投稿は明日の19時に予約投稿の予定です。余裕があれば少し早めに手動投稿します。何とぞよろしくお願いいたします。




