第232話 本能
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「はぁっ……! はぁっ……! はぁっ……!」
地にひざまずき、息をきらしているネイジュ。その彼女の周囲に倒れ伏しているのは――。
息絶えたケルベロスたち、その数二十七匹!!
地獄の番犬たちは皆、氷棘を突き刺され、氷漬けにされて死んでいた。
もちろん、ノアたち兄妹には傷ひとつついていない。
たったひとりで絶望的な状況を覆し、見事勝利をおさめたネイジュ。
だが、しかし――。
「おねえちゃん!
ごめんね、わたしたちがいたせいで、ごめんね……!」
「ネイジュさん、しっかりしてください!」
しかし、その代償は大きく。
ネイジュの左肩から先は、完全に溶けてなくなっていた。
……茂みから襲ってきたケルベロスをうち倒し、ノアたち兄妹をかろうじて助けたネイジュ。
だが、限界を超える動きを見せた反動は大きく、次の動作に移るまでに隙を生じてしまった。
その隙を突かれ、追いかけてきた別の個体に『地獄の業火』で左腕を焼かれてしまったのだ。
彼女の肩の切り口では、まだ炎がくすぶっている。
……本来なら、燃えうつったものの魂を焼きつくすまで消えない炎。
ネイジュは水氷の自然素で炎の広がりに抗っているものの、火は消えず、傷口がふさがらない。
彼女の傷口からの、自然素の流出がとまらない……!
「おねえちゃん、おねえちゃん……!
死なないで……!」
「……大丈夫、あちきは大丈夫でありんすよ、ノア殿。
おふたりが無事で、ほんとうによかった……」
ネイジュは静かに兄妹に語りかけた。
彼女は疲れきっていたが、その表情はノアとの約束を果たしたという安堵に包まれていた。
しかし、大地がきしむような音が鳴り、突如としてあたりの地面に亀裂が走った!
「!!」
「今度は、なに!?」
帝国皇帝とシュバイツァーの強大なちからにより、シャティユモンが島としての寿命を迎えたのだ。
崩壊は島の中枢から起こっている。
『支柱』の周囲から、穴を穿つように大地が崩れはじめていた。
――このままでは、ノアたちも崩壊に巻きこまれてしまう。
そう判断したネイジュは残されたちからを振りしぼり、島の辺縁へと続く氷の道と、その上を滑るソリをつくりだした。
幸いにも先ほど濃厚に満ちていた瘴気はうすれており、『下板』にいる死霊兵たちの気配も停滞している。
「ノア殿、兄君とこれに乗って島のはずれまで行きなんし。
ここはもう間もなく、崩れおちてしまうでありんす」
「そんな……でも、おねえちゃんは!?」
「あちきは、まだここに残ってやることがあるでありんす。
ノア殿は先に行っててくれなんし」
「怪我したおねえちゃんを置いてなんていけないよ。
わたしもおねえちゃんといっしょにいる!」
このノアの答えに、ネイジュは血相を変えて彼女を叱りつけた。
「ここにいたら、あちきたち全員死んでしまうのでありんすよ?
ノア殿はあちきの頑張りをすべて無駄にするつもりでありんすか!?」
「でも、でも……!」
「ノア、ネイジュさんの言うとおりだ。
僕たちがここにいてもネイジュさんの邪魔になるだけだよ。先に行こう」
兄にも諭され、ノアはやっとのことでソリに乗りこんだ。
「さ……行くでありんす」
「ぐすっ、ひぐっ。うぅ……」
ネイジュがそっと押すと、ゆっくりとソリは前に進みだした。
ソリは徐々に速度をあげ、だんだんとネイジュのもとを離れていく。
名残惜しそうにノアたち兄妹が後ろを振りかえる。
そんなふたりを、ネイジュはあたたかいほほえみで見送った。
「笑って生きてくでありんすよ」
「おねえちゃん……」
ソリは速度をあげて前に進みつづけ、とうとう小さくなって見えなくなってしまった。
崩れゆく大地のなか、ひとり墓地に残ったネイジュ。
「はぁっ……。はぁっ……。はぁっ……」
……ほんとうは、残ってやることなどなかった。
すべては、ノアを護るために戦って死ぬことを彼女に悟らせぬための方便。
ネイジュにはもう、一歩たりとも動くちからは残っていなかったのだから。
左肩の傷口から漏れでる自然素の流出は依然としてとまらず、彼女が消滅するのは時間の問題だった。
このまま自然素が尽きて消滅するのが先か、はたまた大地の崩落に巻きこまれて無限の空に投げだされるのが先か。
そんなのは、今のネイジュにとってはどちらでもいいこと。
彼女は、自分の死にざまに満足していたのだ。
そんな自分を称えるように、彼女は笑顔でひとり言をつぶやいた。
「誰かの役に立てて死ねるなら、あちきも生まれてきた甲斐があったというものでありんすかねぇ」
――ほんとうにそうか?
ほんとうにそれでいいのか?
「主様みたいなお人にも出会えて、あちきは幸せ者であったでありんす」
――もう会えなくてもいいの?
「あれ……?」
彼女の目から、涙がひと粒の氷の結晶となって零れおちた。
……ノアたちを無事に送りだし、自身の死に直面して。
他者のために命を賭して戦ったという経験が、彼女をかつてないほどに深い内省へと導いていた。
――自分に残された時間はあとわずか。
その残された時間に、自分はなにを望むのか?
自分がほんとうにやりたかったこととはなにか?
……そんなの、たったひとつに決まってる。
それは、愛した人のそばにいること!
愛する者をそばに置いておくこと――。
いや、愛する者のそばにいることこそが、人のかたちをなした氷銀の狐の本能。
たとえそれが、一方通行のかなわぬ恋だったとしても関係ない。
愛した人のもとへ馳せ参ずることこそ、死を目前にした彼女が今なによりも望んでいたことであった。
……自分が勝手に愛した人間のそばにいたいだなんて、ご先祖の罪を償うために生きるのよりもくだらないかもしれない。
でも、それでも!
「自分が生まれてきた意味は、自分で決めるでありんす!!」
ネイジュは顔をあげた。
いまだかつて感じたことのないちからの塊を感じるほうへ。
必ずいる……あの人も、その近くに!
ネイジュはちからの波動を感じる方向へと意識を向け、気配をたぐりはじめた――
次回投稿は明日の19時に予約投稿の予定です。余裕があれば少し早めに手動投稿します。何とぞよろしくお願いいたします。




