第224話 穿たれた虚無の穴
前回の場面の続きです。
◇
そして、皇帝は俺たちの前で『共鳴』を始めた。
その共鳴音は、『無音』……いや、周囲の音を吸収し、消滅させていっているのであった。
それは物音ひとつない、静かな闇夜のように。
真なる静けさへの強制的な誘いであり、虚無の世界へと誘われているようでもあった。
空間ごと押しつぶすかのように迫りくる皇帝のちからの波動。
皇帝が戦闘態勢へと入っただけで、レゼルとエルマさんは敵の絶望的なほどの強大さを思い知っていた。
―――皇帝の、闇の龍神のちからとは、これほどまでに凄まじいものだというの……!?
――これが私が……レゼルが越えていかなければならない壁……!
否応なく突きつけられる『敗北』の二文字。
無に帰すことへの恐怖。
……だが、レゼルとエルマさんはひきさがらない。
目の前の最後の壁を越えなければ、彼女たちの悲願を果たすことはできないのだから!
「レゼル、絶対にこの壁を乗り越えるわよ!!」
「はいっ、お母さま!!」
レゼルとエルマさんも『共鳴』した。
サクラの花びらのような生命力の塊が、巻きおこされた風に乗って舞いあがる。
母娘が並び、絶望へと立ちむかっていく!
『貴様らがいくらあがこうが無駄だ。
我が絶対なる帝国に楯突いたことを、心の底から悔いるがいい!』
そうして帝国皇帝は、レゼルたちへと手を振りかざした。
「ッ!!」
瞬間、エルマさんは全身に怖気が走るのを感じていた。
帝国皇帝の振りかざされた手はわずかにだが、レゼルではなくエルマさんとセレンのほうへと向けられていた。
レゼルより一歩前にでた位置におり、いち早く動きだそうとしていたエルマさんのほうへと。
どんな攻撃が来るか予測できていたわけではない。
だが、皇帝の振りあげた手がただの構えでないことだけはわかる。
とにかく長年の経験と本能が、全力で彼女に警鐘を鳴らしていたのだ!
エルマさんはセレンの背上で右に大きく身をねじった。
先に述べたとおり、どんな攻撃が来るか予測できていたわけではない。
ただ本能的に、左胸にある心の臓を護ろうとしただけである。
しかしその回避行動が、結果として彼女の命を救うこととなった。
エルマさんの左胸があった場所に、突如として暗黒の球体が出現した。
彼女が身をねじったために即死は免れたが、彼女の左肩から先が飲みこまれ、完全に消滅してしまった!
「うぅっ!!」
「お母さま!!」
「エルマさん!!」
――『涅槃の黒橡』!!
それはかつてコトハリを葬った……いや、消滅させた技。
虚無の穴を空間に自在に穿つことができる。
冥門に似ているが違いは平坦な円ではなく、球体であること。
そしてその先につながるのは死後の世界などという生易しいものではない。
あるのは完全なる虚無のみである。
「あ……ぐっ……!!」
エルマさんの左肩の断面は鋭利な刃物で切りとられたかのよう……いや、まるで最初からその先にはなにもなかったかのようであった。
彼女は自己治癒で傷の断面に薄皮を張って止血したが、それ以上の再生は進まない。
そして、彼女は左肩を押さえて苦しみつづけていた。
『苦しいだろう?
それは肉体とともに切りとられた魂の苦しみだ。
そして腕を再生することも不可能。
切りとられた肉体と魂はこの世界との因果ごと消滅し、生と死の輪廻からはずれるのだからな』
……切りとられた者は肉体の痛みだけではなく、魂の苦しみをも味わうこととなる。
そして、切りとられた肉体と魂は存在ごと消滅させられる。
なんと恐ろしく、残酷な技なのであろうか!
俺とレゼルはエルマさんのもとへと駆けよる。
「お母さまっ……!」
「エルマさん!」
彼女は左肩を押さえながら苦痛に顔をゆがませていた。
しかし俺たちが駆けよると彼女は、大量の汗をかき、息をあがらせながらも、いつもどおりのほほえみを浮かべてみせた。
「大丈夫……大丈夫よ。私はまだ戦える」
「お母さま……」
彼女が無理をしているのは誰が見ても明らかだ。
そして、俺とレゼルは動揺を抑えることができなかった。
……あれだけ強かったエルマさんが、一撃で重傷を負わされるだなんて!
圧倒的な絶望を突きつけられて身動きが取れずにいる俺たちに、再び神の言葉が投げかけられた。
『どうした? なにを立ちどまっている?
貴様らはまだ入り口に足をかけたばかりだぞ。
真なる闇への入り口にな!』
※『涅槃の黒橡』(ねはん の くろつるばみ)……涅槃とは、繰りかえす再生の輪廻から解放された状態のこと。
橡とはトチノキ、またはその実のことです。
黒橡色はどんぐりの煎汁を鉄媒服で染めた青みがかった黒色のことで、かつては凶服に用いられました。
皇帝は空間に木の実をならすかのごとく、自由自在に暗黒の球体を出現させることができます。
次回投稿は明日の19時に予約投稿の予定です。余裕があれば少し早めに手動投稿します。何とぞよろしくお願いいたします。




