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第196話 知の戦い


 前回の場面の続きです。


 いよいよ本格的に始まった新薬の開発研究。

 今までも熱心に研究に取り組んできたふたりだが、よりいっそう研究に打ちこむようになり、ともに何日も研究所に泊まりこむことが多くなった。


 ――アズフォードの役に立てるのは、うれしかった。

 理論どおりに行けば『不治の病』だったはずの病気も、完全に治癒(ちゆ)に導けるはずだ。


 からだはつらかったが、オルカにとってはなによりも幸せな時間。

 こんな時間が、ずっと続けばいいと思った。


 ……しかし、『新薬』が完成すればこの時間も終わってしまう。

 婚約者の病が治れば、アズフォードたちは結婚してしまうだろう。

 そうしたら、自分は……。



 当時を振りかえり、オルカは語る。


「私はいっさい手を抜くことなく、全身全霊で『新薬』の開発に取り組んだつもりだ。

 だが……。

 心のどこかで、完成を望んでいなかった。

 そんな私に、天罰がくだったのかもしれないな」



 ――オルカとアズフォードの身を削るような努力が実り、とうとう『新薬』は完成した。


「博士!

 ……ついに、ついにやりましたね!」

「オルカ君、ありがとう。

 ほんとうに、ありがとう……!

 この薬が完成したのは、君のおかげだ……!」


 アルフォードはオルカの手をにぎりしめ、涙を流しながら感謝を述べた。


 開発を進めているあいだにも、彼の婚約者の病状はどんどん進行していた。

 これ以上治療を待つわけにはいかず、『新薬』の人間への初回投与試験に参加してもらうこととなった。


 ――すべては、うまくいくはずだった。


 病んだ人間の細胞を移植した動物への投与実験では、病変は消滅し、動物への副作用もほとんど見られなかった。

 実験動物よりからだが強く大きい人間で、致命的な副作用が起こるとはとうてい考えられなかった。


 ……しかし、待ち受けていた現実はあまりにも残酷であった。


『新薬』を投与された被験者たちは皆、病が嘘のように消えてなくなり、家族とともに涙を流して喜びを分かちあった。

 だが喜んだのもつかの間、数日後には激烈な副作用が彼女たちを襲うこととなる。


 アズフォードの婚約者もまた、脳が破壊され、狂人と化した。

 性的倒錯(とうさく)により複数の男と乱れるように交わったのち、最後は獣のように自身の首をかきむしって息絶えた。


 アズフォードが研究機械の電線コードで首を吊ったのは、婚約者が亡くなった次の日のことだ。

 遺体は心身の苦痛に顔をゆがませ、糞便(ふんべん)を垂れながしにしていた。


 オルカは上司の変わりはてた姿を前にして震え、愕然(がくぜん)とした。

 今までの努力がすべて否定され、自身の存在そのものがなにか、おぞましく罪深いものであるかのように感じられた。



 当時の研究所長は年老い、引退間際であったが、惨憺(さんたん)たる投与試験の結果におおいに怒った。

 彼はオルカに、全被験者を解剖(かいぼう)し、原因の究明を行うように命じた。


 暗い『最下層区画』の『解剖室』で。

 オルカは自身もどのように命を断つか考えながら、被験者たちの亡骸(なきがら)をナイフの刃で(さば)いていく。

 亡骸のなかには、見たことのある顔の貴婦人もいて……。


 ――責任を取って、被験者たちの解剖を終えたら私もこの世を去ろう。

 そして、すべてを終わらせよう。


 そう思い、心を無にしてオルカは作業を進めた。

 亡くなった者たちからの精いっぱいの報復であるかのように、返り血がオルカの頬にはねかかる。


 ……しかし、オルカは気がついた。

 気がついてしまったのだ。


 多くの亡骸を解剖し、手で触れるなかで、その『異変』に。

 ……いや、正確には『()()()()()()()()


 全身のありとあらゆる臓器が破壊されているなかで、唯一変化を起こさない臓器があった。


『心臓』だ。


『新薬』は実験動物には害を及ぼさないが、人間には猛烈な副作用を起こす。

 そしてその人間の体内で、心臓だけが副作用をまぬがれている。


 では、人間の心臓を分析すれば、『新薬』の毒素を中和する成分を抽出できるのではないか?

 そうオルカは考えついたのだ。


 彼女は、一度は死を決意していた。

 だが、ここで研究をやめたら、それこそアズフォード博士や被検者たちの死が無駄になってしまう。

 研究を完成させ、『新薬』を完全なる治療薬へと昇華させることこそが、罪の償いになるのではないか?


 オルカは顔をあげた。

 さらなる知の戦いへと、その身を投じるために。


 ……しかし、それが新たな苦悩の始まりであることを、彼女は知る由もなかったのであった。




 次回投稿は明日の19時に予約投稿の予定です。余裕があれば少し早めに手動投稿します。何とぞよろしくお願いいたします。

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