第196話 知の戦い
前回の場面の続きです。
◇
いよいよ本格的に始まった新薬の開発研究。
今までも熱心に研究に取り組んできたふたりだが、よりいっそう研究に打ちこむようになり、ともに何日も研究所に泊まりこむことが多くなった。
――アズフォードの役に立てるのは、うれしかった。
理論どおりに行けば『不治の病』だったはずの病気も、完全に治癒に導けるはずだ。
からだはつらかったが、オルカにとってはなによりも幸せな時間。
こんな時間が、ずっと続けばいいと思った。
……しかし、『新薬』が完成すればこの時間も終わってしまう。
婚約者の病が治れば、アズフォードたちは結婚してしまうだろう。
そうしたら、自分は……。
当時を振りかえり、オルカは語る。
「私はいっさい手を抜くことなく、全身全霊で『新薬』の開発に取り組んだつもりだ。
だが……。
心のどこかで、完成を望んでいなかった。
そんな私に、天罰がくだったのかもしれないな」
――オルカとアズフォードの身を削るような努力が実り、とうとう『新薬』は完成した。
「博士!
……ついに、ついにやりましたね!」
「オルカ君、ありがとう。
ほんとうに、ありがとう……!
この薬が完成したのは、君のおかげだ……!」
アルフォードはオルカの手をにぎりしめ、涙を流しながら感謝を述べた。
開発を進めているあいだにも、彼の婚約者の病状はどんどん進行していた。
これ以上治療を待つわけにはいかず、『新薬』の人間への初回投与試験に参加してもらうこととなった。
――すべては、うまくいくはずだった。
病んだ人間の細胞を移植した動物への投与実験では、病変は消滅し、動物への副作用もほとんど見られなかった。
実験動物よりからだが強く大きい人間で、致命的な副作用が起こるとはとうてい考えられなかった。
……しかし、待ち受けていた現実はあまりにも残酷であった。
『新薬』を投与された被験者たちは皆、病が嘘のように消えてなくなり、家族とともに涙を流して喜びを分かちあった。
だが喜んだのもつかの間、数日後には激烈な副作用が彼女たちを襲うこととなる。
アズフォードの婚約者もまた、脳が破壊され、狂人と化した。
性的倒錯により複数の男と乱れるように交わったのち、最後は獣のように自身の首をかきむしって息絶えた。
アズフォードが研究機械の電線コードで首を吊ったのは、婚約者が亡くなった次の日のことだ。
遺体は心身の苦痛に顔をゆがませ、糞便を垂れながしにしていた。
オルカは上司の変わりはてた姿を前にして震え、愕然とした。
今までの努力がすべて否定され、自身の存在そのものがなにか、おぞましく罪深いものであるかのように感じられた。
当時の研究所長は年老い、引退間際であったが、惨憺たる投与試験の結果におおいに怒った。
彼はオルカに、全被験者を解剖し、原因の究明を行うように命じた。
暗い『最下層区画』の『解剖室』で。
オルカは自身もどのように命を断つか考えながら、被験者たちの亡骸をナイフの刃で捌いていく。
亡骸のなかには、見たことのある顔の貴婦人もいて……。
――責任を取って、被験者たちの解剖を終えたら私もこの世を去ろう。
そして、すべてを終わらせよう。
そう思い、心を無にしてオルカは作業を進めた。
亡くなった者たちからの精いっぱいの報復であるかのように、返り血がオルカの頬にはねかかる。
……しかし、オルカは気がついた。
気がついてしまったのだ。
多くの亡骸を解剖し、手で触れるなかで、その『異変』に。
……いや、正確には『異変』がないことに。
全身のありとあらゆる臓器が破壊されているなかで、唯一変化を起こさない臓器があった。
『心臓』だ。
『新薬』は実験動物には害を及ぼさないが、人間には猛烈な副作用を起こす。
そしてその人間の体内で、心臓だけが副作用をまぬがれている。
では、人間の心臓を分析すれば、『新薬』の毒素を中和する成分を抽出できるのではないか?
そうオルカは考えついたのだ。
彼女は、一度は死を決意していた。
だが、ここで研究をやめたら、それこそアズフォード博士や被検者たちの死が無駄になってしまう。
研究を完成させ、『新薬』を完全なる治療薬へと昇華させることこそが、罪の償いになるのではないか?
オルカは顔をあげた。
さらなる知の戦いへと、その身を投じるために。
……しかし、それが新たな苦悩の始まりであることを、彼女は知る由もなかったのであった。
次回投稿は明日の19時に予約投稿の予定です。余裕があれば少し早めに手動投稿します。何とぞよろしくお願いいたします。




