第186話 『贖(あがな)い』
物語は再び、『ネイジュ・ノア』パートへと戻ります。
◆
ネイジュが村に滞在するようになって、数日が過ぎたころ。
彼女はとくに大きな事件に巻きこまれることもなく、平穏な日々を過ごしていた。
羊の世話にも慣れてきていた。
しかし、ネイジュは羊たちの毛を櫛でとかしながら、ため息をつく。
ノアたち一家の手伝いをしていることや、羊の世話をしていることが嫌なわけではない。
むしろノアたち一家はネイジュをほんとうの家族の一員であるかのように迎えいれてくれているし、羊たちも懐いてきてよりいっそう可愛く見えてきていた。
最初はどの羊も同じに見えていたが、よくよく見るとみんな顔つきが違うのである。
性格もお茶目だったり、恥ずかしがりだったり個性があって面白い。
また、羊も懐いてくるとかなり甘えん坊になるようで、自分の胸に顔を埋めてきたり、ずっと膝にスリスリしてくる。
なでなでしてあげるとあからさまに喜ぶので、可愛げがあるのだ。
そういうところも母親から伝え聞いていた人間(の男)の話とそっくりである。
グレイスはやってくれないけれど。
……そう、ネイジュの本懐はグレイスのそばにいること。
そして彼と愛を結び、同意のうえで氷漬けとなってもらうことなのである。
それが今はどうだろう。
もう数日も彼とは会っていない。
自分がいないあいだに突っ走ってしまい、いよいよレゼルを手籠めにしてしまっていたらどうしよう。
自分をここに落とした奴、許すまじ。
ネイジュは『上板』の下から覗く空を見つめながら、ひとり言をつぶやいた。
宙には相変わらず濃い霧がただよっていて、うす暗い。
「主様、迎えに来ないでありんすねぇ……」
ときどきこうして空を見あげているが、いっこうに戦いが再開される気配はない。
しかし、『上板』のほうでは日々着実に死霊兵の禍々しい気配が増しているのを感じる。
騎士団のほうの気配は遠すぎてわからないが、決戦の日は近いのであろう。
とは言え、『下板』に龍はいないというのだし、どうしようもないものは仕方がない。
「お姉ちゃん、川にいっしょに水汲みにいこ?」
「うい、了解でありんす~」
ネイジュはノアに誘われるがまま、桶を担いで彼女とともに、家々のあいだを走る川のほうへと向かっていった。
村のなかの川は静かに、よどみなく流れ、淡く光を放っている。
川の底でコケが光っているわけなのだが、このコケは水の穢れを浄化するちからをもっているらしく、水質は非常によい。
毒性をもつ動植物が数多くいるこの地において、村人が安心して水を飲むことができる所以である。
むしろこれだけ水質のよい水を得られるのは故郷のファルウルくらいであり、ネイジュも大満足なのであった。
清らかな水が流れる場所には、良質な水の自然素も多く集まるものなのだ。
「あちきはこの村を流れる川の水が好きでありんす♪」
「ふふふ。
お姉ちゃんにこの村のことを気に入ってもらえて、よかった」
――と、ネイジュとノアがもうすぐで水汲み場にたどり着くというところで。
物静かな人々が住むこの村において、異例ともいえる騒ぎが起こっていた。
「ん? なんの騒ぎでありんす?
お祭りでも始めるでありんすか?」
ネイジュはヴュスターデでの戦勝後のお祭りの日々を思いだす。
最初は人間たちはなにをこんなに馬鹿騒ぎしてるのかと思ったものだが、いっしょになって騒いでみたら、たしかに面白かった。
「お祭りの予定なんてないよ?
あんなに人が集まるのは珍しいな……」
川のそばに建つ家の前に、人だかりができている。
どうやら、人だかりの中心で誰かが叫び声をあげているらしい。
若い、女の人の声だ。
ネイジュとノアも近寄り、背伸びしてなにが起こっているのか覗き見ようとする。
……人だかりの中央には、赤子を抱えた若い女性と、その夫らしき男性がひざまずいていた。
赤子はまだ生まれて数カ月も経っていないように見える。
そして、黒装束をまとった男が数人立っていて、彼女を取りかこんでいた。
女性は赤子を守るように抱きかかえながら、泣き叫んでいる。
「お願いしますお願いします!
いずれ必ず、『贖い』には向かいます。
だからせめて、この子がもう少し大きくなるまでは……!」
女性が見せたのは悲痛な、あたかも狂ってしまったかのような激しい感情の動き。
この村の人々は感情の起伏に乏しいが、こうして泣き叫ぶこともある。
心はちゃんとあるのだ。
……しかし女性がすがるように懇願するも、男たちは冷酷かつ無慈悲に答えるのみ。
「『贖い』に向かう人物は神の宣託によって選出される。
例外は許されん。
あきらめてその赤子は置いていけ」
「あまりに聞き分けが悪いようであれば、武力に頼ることもやむを得んぞ」
そう言って、黒装束の男のひとりが、ナイフの刃をチラつかせた。
ネイジュはノアのほうを振りむき、訊ねた。
「ノア殿、どういうことでありんすか?」
「『贖い』だよ。わたしのお母さんとおんなじ。
選ばれた村人は、ああやって連れていかれなければならないの。
連れていかれた人は、二度と村には戻ってこれないんだよ」
「ノア殿の母君と同じ?
二度と、戻ってこれない……!?」
ネイジュは再び顔をあげ、人だかりの中心へと視線を向けた。
女性は観念したのか、男たちに連れていかれるところだった。
しかし、そのからだは悲しみでガタガタと震えている。
「オギャア!! オギャア!!」
夫らしき男性は赤子を託され、為すすべなくその場に座りこんでしまった。
赤子は母親とむりやり離されて、ひきつけを起こしそうになるほど泣いている。
――誰がどう見ても、あまりにも哀れな家族の光景。
……人間たちが勝手に騒いで傷つけあおうが、かつてのネイジュであればなにも感じることはなかっただろう。
だが、今の彼女は自身でも不思議に感じるほどの怒りを覚えていた。
互いを信じ、尊重し、支えあって戦う騎士団の人々と比べ、あの黒装束の男たちはなんと身勝手な連中なのだろう。
どんなに偉い奴らなのかは知らないが、なんの大義があってまだ幼い赤子から母親を奪うというのだろうか。
ネイジュの氷のからだに、熱い感情が宿る。
……そして気がついたとき、彼女のからだはすでに動きだしていた。
今回の話は、次回に続きます。
次回投稿は明日19時に予約投稿します。余裕があったら早めに手動投稿します。何とぞよろしくお願いいたします。




