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第178話 ネイジュと羊

 ネイジュとノアは、羊を飼っている野原へとたどり着いた。


 野原にはふたりの男性が立っていて、羊の世話をしていた。

 羊に水をあげたり、(ひづめ)の手入れをしていたり……。


 さらに羊の群れのまわりには牧羊犬が一匹走りまわっていて、群れからはずれそうな羊がいるとはぐれないように先回りして誘導している。

 群れの誘導や見張りは、牧羊犬の大事な役割なのだ。


 遠くからそんな羊の放牧の様子を眺めていたらこちらに気づいたのか、群れのなかに立っていた男性ふたりが手を振っている。

 ノアも手を振って駆けよっていくので、ネイジュもあとを追いかけていく。


 ノアたちがたどり着くと、男性ふたりは彼女に声をかけた。


「やぁ、ノア。今日も遅かったね。

 大丈夫かい?」

「……あれ? ノア、その人は?」

「うん、今日も遅くなってごめんね、お父さん。

 この人はネイジュお姉ちゃんだよ、お兄ちゃん。村の外からやってきた人で、わたしとお友達になってくれたの」

「あなたさまがたがノア殿の父君と兄君でありんすね。

 お友達のネイジュでありんす!

 以後お見知りおきを~」

「はは、なんだか愉快なお姉さんだね」

「ノアのお友達なんですね。

 妹のノアを、よろしくお願いします」

「こちらこそ、よろしくでありんす~♪」


 ネイジュがひらひらと舞うようにしてご挨拶をすると、控えめながらもノアの父と兄はほほえみを返してくれた。

 先ほど会った村人たちよりは反応が見られて、思わずうれしくなる。


 ネイジュに気をつかっているというよりは、娘や妹が可愛くて仕方がないのだろうけども。


「ところで、あなたさまがたは羊なんか飼ってどうするつもりなのでありんすか?」

「ん? 羊を飼う理由かい?

 羊ほど、いろんな役に立つ動物はいないんだよ。

 毛は衣類の材料に使われるのはもちろん、角、皮、肉、乳、はては(ふん)まで……。羊には余すところなんてないと言われているんだ」

「それに性格もおとなしいし、見てて可愛いしね。僕らは羊が大好きなんです」

「ほほぉ~」


 ノアの父と兄が羊について教えてくれるので、ネイジュは感心してうなずく。


 ……このふたりはともに淡い栗色の髪と瞳をしていて、表情は少し乏しいものの、とても優しそうな顔をしている。


 父親は少し白髪が混ざりはじめているころで、兄はレゼルと同じくらいの年のころだろう。

 ふたりはひと目見ただけで親子とわかるほどにそっくりである。

 背格好も似ていて、身長もまあまあ高い。


 一方で、父や兄と比べてノアは面白いほど似ていない。

 父や兄の器量が悪いわけではないのだが、どうしてこの血筋から小さくて妖精のようなノアが生まれるのだろうか?


 そう言えば母親は亡くなってしまったと言っていたが、彼女はよほど母親似なのだろうか?


 母親(ミネスポネ)からそっくりな自分たち(ネイジュとクラハ)が生まれる氷銀の狐とは、大違いである。

 やはり、人間とは興味深いものだ。


 ネイジュがそんなことを考えながらノアの美しい横顔を眺めていたら、不意に彼女が振りむいた。


「ねぇ、ネイジュお姉ちゃん。

 わたしたちも、羊と遊んでこ?」

「んお、いいでありんすねぇ」


 ……とはノリで言ってみたものの。


 グレイスたちと行動をともにするようになってからというもの、ネイジュは戦いの日々に明け暮れていたのだ。

 もちろん、のんびり家畜と(たわむ)れたことなどあろうはずもない。

 はたしてほんとうに大丈夫だろうか。


「メェ~、メェ~」

「アハハ、ウフフ」


 ノアは羊を抱きしめて、うれしそうに笑っている。ふわふわの毛に包まれて、幸せそうだ。

 羊もノアに(なつ)いているのか、彼女のところに集まってくる。


 羊と戯れている彼女の姿はなんともほほえましく、見ているだけで心がなごむ。

 何をしても絵になる少女である。


 どれ、自分も。

 そう思い、ネイジュは一匹の羊の前で(かが)み、顔を覗きこんでみた。


「ほほぉ~、フムフム」

「メェ~、メェ~」


 白いふわふわの毛玉から縦長な顔がつきだし、つぶらな瞳をネイジュへと向けている。


 なるほど、たしかによく見るとなかなか愛くるしい顔をしている。

 ノアたち一家が可愛がるのもわかる。


 ファルウルにももちろん羊はいたが、ネイジュたち氷銀の狐が住まう北の山脈にはいなかった。

 こうしてまじまじと観察するのは初めてなのである。


「んん~?」

「メェ~、メェ~……メ?」


 ……しかしまぁ、なんと無防備な獣だろうか。

 自分以外の生物に立ちむかおうという気概(きがい)がまったく感じられない。

 これでは捕食者の格好の標的である。


 ネイジュが眉根を寄せて顔を近づけると、羊は困惑の色を浮かべた。


 ――そのときである。

 羊の困り顔に嗜虐心(しぎゃくしん)をくすぐられ、ネイジュの狩猟者としての本能が呼びおこされてしまった。


「ヌヒヒ(ニタァ)」

「メ、メェェ……」


 ネイジュは羊の眼前であやしい笑みを浮かべた。


 べつに取って食おうというわけではない。

 ただ、ちょっとおどかして羊が怯えるさまを見てみたくなっただけなのである。


「がぉ~!!」

「メェ~!!」


「ネイジュお姉ちゃん!?」


 ネイジュは両手を振りあげ、牙を()きだしにして吠えた。

 羊はたちまち背中を見せて逃げだす。


 一匹が逃げだすと、それにつられて群れで動こうとする。

 牧羊犬があわてて追いかけ、群れがばらけないように先頭に立ちはだかった。


「ネイジュお姉ちゃん、どうしちゃったの!?」

「……ハッ! しまった、思わずつい……」


 ノアにからだをつかんで揺さぶられ、ネイジュは我に返った。


「お姉ちゃん、羊のことが嫌いになっちゃったの……?」

「あ、いや……」


 ノアの悲しげな顔を見て、ネイジュはなんだかとても悪いことをしてしまったと後悔しはじめる。


「ノア殿、許してくれなんし。

 可愛いからつい、イタズラしてみたくなってしまって……」


 弱い者を見て、虐めたくなってしまったとはとてもじゃないが言えない。


「羊さんは怖がりだから、ビックリさせちゃダメだよ?」

「ごめんなさい、でありんす……」


 ネイジュは今では、自分の行いを心の底から反省していた。

 しかし、羊たちは怯えてもうネイジュには近寄ってこようとはしない。


 彼女は、遠まきにこちらを警戒している羊のことを悲しげに見やった。


 ……それにしても、羊とはなんと人間にそっくりな生きものなのであろうか。

 群れで動き、からだにはろくな武器を持たなくて弱く、そして臆病だ。


 ――自分はグレイス(ぬしさま)を追いかけてやってきて、人間の世界に溶けこもうとしてきたけれど。

 所詮、自分は命を狩る側の者。

 やはり羊や人間たちとは相容れない存在なのかもしれない。


 愛する人間を氷漬けにしてむりやりそばに置くことはできても、心から振りむいてもらえることはないのだろう。

 だから、グレイス(ぬしさま)も……。


 雪山にいたころはそんなこと少しも考えなかったし、気づいたとしてもなんとも思わなかったことだろう。

 だが今は、そんな自分の立ち位置がとても寂しく、もの悲しいものであるように感じられた。



「……ネイジュお姉ちゃん?」


 黙って突っ立っていたら、下からノアが顔を覗きこんでいた。

 ネイジュのことを、心から心配してくれているのを感じる。


 ネイジュはそんな優しい彼女に、問いかけてみた。


「……ノア殿は、あちきが怖い人だとは思わないのでありんすか?

 じつはオバケよりも怖い怪物で、いきなり襲ってノア殿を食べちゃうかもしれないでありんすよ? がぉ~、がぉ~! ……って」


 ネイジュはノアに向かって、再び両手を振りあげ、牙を剥きだす。

 ……そして最後に、寂しげに笑ってみせた。


 ノアは少しだけ驚いて目を丸くしたものの、怖がる様子はない。


「う~ん……」


 彼女はなにやら考えこんでいたが、やがて答えを見つけたのか、ネイジュにほほえみかえした。

 あどけない少女の顔に浮かぶのは、すべての悲しみを受けいれる慈愛(じあい)の表情。


「じゃあ、わたしもお姉ちゃんに食べられてオバケになって、いっしょに怖い怪物になってあげる」


 ネイジュは呆気にとられた。


 まったく予想していなかった答え。

 狩る側の存在である彼女には、決してたどり着かない発想であると言ってもいい。


 ネイジュはたまらず、再びノアに問いかける。

 ネイジュからの問いかけに、ノアはほほえみながらうなずいていた。


「あちきと、いっしょに……?」

「うん、いっしょに」


「怖くないのでありんすか?

 食べられたら、きっと痛いでありんすよ?」

「ちょっと怖いけど……。

 ほかの生きものの(かて)になるのも、生きものとしての役目だもの」


「父君と兄君とも、会えなくなっちゃうでありんすよ?」

「そしたら、お父さんとお兄ちゃんも食べて仲間にしちゃお?」


「でも、どうして……?」

「だって、なんだかお姉ちゃんが寂しそうに見えたから」


 ネイジュはノアの言葉を聞いているうちに、なんともいえない不思議な気持ちになった。

 この気持ちは、どう表現したらよいのだろう。


 自分は冷たいほうが好きだけど、ノアのことを想うと胸のなかが暖かくて、くすぐったくて、仕方がなくなる気持ち。


 ……よくよく思いかえしてみれば、騎士団の人々から冷たくされていたわけではない。

 むしろ最近では、厄介者であるはずの自分を仲間として暖かく迎えてくれるようになっていた。


 今までいっしょにいたグレイス(ぬしさま)や騎士団の人々から離れて、急に心細くなってしまっていただけなのかもしれない。

 しかし、ノアがネイジュのことを心から(おもんばか)って言ってくれた言葉であるということは、痛いほどにちゃんと伝わってくるのであった。


 ネイジュは屈みこみ、からだが小さいノアの視線と高さを合わせた。


「ありがとでありんす、ノア殿。

 じゃああちきも、お礼に約束。

 ノア殿たちがほかの怪物に食べられそうになったら、あちきが守ってあげるでありんす」


「ほんと? ネイジュお姉ちゃん」

「ほんとでありんす。

 あちきはこう見えて、とっても怖~い怪物なのでありんすよ?」

「あはは。

 ネイジュお姉ちゃんったら、おかしい。

 じゃあ、お願いするね?」

「ふふ、約束でありんす」


 そう言って、ふたりは小指と小指をからめあった。

 それは、人間どうしが約束を結ぶときに行う誓いの儀式。


「ほら、羊さんたちも来るでありんす。

 もう怖がらせたりしないでありんすから」


 ネイジュがノアと仲良くしているのを見て羊も心を許したのか、「メェ~、メェ~」と鳴いてまたふたりのまわりに集まってくる。

 小指をからめたまま、ネイジュとノアは互いにほほえみあった。


 ネイジュはノアたち一家とともに、日が暮れるまで羊の世話をして過ごした。

 羊の毛づくろいをしながら、ネイジュはノアのことを見やる。


 ――それにしても、このノアという少女はどうしてこうも死に対して達観(たっかん)しているのだろうか?


 戦場に身を置いている者ならともかく。

 先ほどの返答など、十代の少女の死生観で思いつく答えではないだろう。


 ……もっとこの少女のことを知れば、なにかわかるかもしれない。

 自分にとっても、大きな意味のあるなにかが。


 いつの間にかネイジュはノアに興味を抱くようになっており、もう少しこのままいっしょに、彼女と過ごしてみることにしたのであった。




※キリスト教で羊は人間の象徴です。

 とくに、『神の子羊』はイエス・キリストを指します。


 本作ではたびたびキリスト教のモチーフが登場しますが、あくまで純粋なエンターテイメント作品であり、特定の宗教を批判したり贔屓する意図はまったくありませんことを表明いたします。


 次回投稿は2023/11/6の19時に予約投稿の予定です。何とぞよろしくお願いいたします。

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