第174話 不運のあとの僥倖
前回の場面の続きです。
◇
茂みから俺とヒュードを喰らおうと飛びだしてきた、三つ子の獣の頭。
「これは……!」
よどんだ沼のよう濁った緑色の眼に、獲物を噛み殺さんと皺を寄せた鼻。
荒く息を吐きだせば、死人のような腐臭がただよってくる。
――『地獄の番犬』、ケルベロス。
世界の伝承に登場する怪物。
生前に罪を犯した死者の魂は冥界へと送りこまれるが、亡者が冥界から逃げだそうとすると彼らが捕らえてむさぼり食うとされている。
まさしく、地獄の番犬である。
全身は黒く硬い毛に覆われており、龍に似た尾をもつ。
犬のような外見ではあるが、肉体の大きさと強さは龍と同等以上である。
……『下板』には死霊がうろついているという話ではあったが、『地獄の番犬』までもがいるという話は聞いたことがない!
恐らくはこの度の戦いに備え、島の警備を強めるためにヴィレオラが冥界から呼びだしたものだろう。
しかも、そのような怪物が……。
「二頭、三頭……いや、四頭いるぞ!
気をつけるんだ、ヒュード!」
「ガルっ!」
茂みのなかを逃げながら、俺は追いかけてくるケルベロスの数を数えた。
さすがのヒュードといえど、同等の機動力をもつ怪物四頭に襲われては分が悪い。
一頭が見失ってもほかの三頭が追跡しつづけているので、奴らも思いきりよくガンガン突っこんでくる。
こちらとしては息つく暇すらない。
――さらに!
「ヒュード、伏せろぉっ!!」
「ガルっ!!」
四頭のうち一頭が、口から炎を吐きだしてきた!
ただの炎ではない。
どす黒い憎しみのように燃えさかる、漆黒の炎。
――『地獄の業火』。
ケルベロスをはじめとした、冥界の住人が操るとされる炎だ。
その炎はひとたび身に燃えうつれば消えることはなく、魂まで残さずに焼きつくされてしまうという。
『地獄の業火』は俺たちの頭上をかすめたが、またしても紙一重で事なきを得た。
代わりに俺たちが向かう先に立っていた木が跡形もなく燃やしつくされ、危うく地獄の瘴気を含む煙を吸いこみそうになる。
「……ぷはっ! あぶねぇっ……!」
……しかし、茂みのなかを転がるようにして逃げまわっているうちに、ヒュードはからだのあちこちを傷つけ、体力を奪われていってしまっている。
このままではいずれ追いつめられて、俺たちは殺されてしまうだろう。
――走って逃げられないのであれば、空へ逃げるか?
奴らは速く走り、炎を吐きだすことはできるが、飛ぶことはできない。
空高く飛べば逃げられるだろう。
……いや、上空へとでて多数の敵に見つかったら、いよいよシャティユモンの探索どころではなくなってしまう。
ここで、なんとかして撒くしかないのだ。
敵の加勢が現れる前に……!
そうこうしているうちに、また四頭のうちの一頭が踊りでて、飛びかかってきた。
「……っの野郎ぉ。
あまり俺とヒュードをナメるんじゃないぜ!」
不恰好な『共鳴音』を鳴らし、俺とヒュードは共鳴した。
ヒュードの足もとから、人間ほどの大きさの氷棘を発生させた。
後ろから迫るケルベロスからは、ヒュードのからだが邪魔になって見えていない。
そしてヒュードが駆けぬけ、ケルベロスが直上に到達したところで、氷棘がその腹を貫く!!
「ギャアウンッ!!」
腹を貫かれたケルベロスが、断末魔の叫びをあげた。
――決まった!
やはり、『自然素』による攻撃は冥界の住人にも有効……!
だが、今際の際でケルベロスが伸ばした爪が、俺の背中をえぐる!
「ぐっ……!!」
背中に激烈な痛みが走る。
痛みで頭がおかしくなりそうだが、かろうじて意識をつなぎ留めた。
「ガルぅっ」
ヒュードが俺の身を案じ、首を伸ばして後ろを仰ぎ見ようとしている。
「俺は大丈夫だ、ヒュード。
今は逃げることに専念してくれ……!」
ヒュードは再び前を向いて、加速する。
……気がつけば、もう『支柱』が目の前のところにまできていた。
どこかに隠れる場所があればよいのだが……。
そのときケルベロスたちが立ちどまり、思わぬ反撃を見せた俺たちに腹いせをするかのように、いっせいに遠吠えをあげた。
仲間に俺たちの存在を知らせたのだ。
――いよいよまずい。
仲間を呼ばれたら潜入は失敗だ。
……いや、潜入どころか、最悪逃げることすらできなくなるかもしれない!
俺はヒュードに飛びたたせ、『支柱』の岩壁に沿って曲がっていった。
ケルベロスたちが見逃すまいと、また後ろから追いかけてきている。
万事休すか……!
俺たちがあきらめかけた、そのときだった。
「こっちだ!」
「!?」
『支柱』の岩肌に隠されていた扉がひらき、俺たちを呼ぶ声が聞こえた。
考える余裕があるはずもなく、俺とヒュードは開けはなたれた扉のなかへと飛びこむ。
俺たちが滑りこむのと同時に、扉は音もなく閉まった。
「アウウゥン……?」
突然に標的を見失い、『支柱』の崖下でケルベロスたちは不思議そうにうろつきまわっていた。
だが、グレイスたちが見つからないことがわかるとそれぞれの方向にばらけ、標的を探しに駆けだしていった。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ……!」
俺は背中の痛みで、ヒュードは全力で逃げまわっていた疲労で息があがっていた。
あたりはうす暗い、無機質な白色の廊下になっていて、俺たちはそこに寝そべるようにして転がりこんでいた。
……そして、腕を組み、高慢な視線で俺たちを見おろす者がひとり。
長い黒髪に、白衣からスラリと伸びた脚。
彼女は目をみはるほどの美貌をニタリとゆがませ、俺を嘲った。
「ククク、とんだありさまだな?
グレイスよ。
久しぶりに会うのだから、もっと身なりを整えてやってきたらどうなんだ?」
「ああ。お恥ずかしい限りだよ、まったく。
……だが、あんたに会えてうれしいぜ、オルカ!」
シャティユモンに潜入するやいなやケルベロスに見つかるとは、じつにツイてないと思ったものだ。
しかし、結果としてこんなにも早く彼女と再会できるとは、思いもよらぬ僥倖……!
シャティユモンが誇る世界最大の薬学研究所。
名だたる研究者たちを押しのけ、若くしてその頂点に立った者。
――そう、『天才科学者』オルカ!
彼女こそ、俺が探し求めていた人物なのだから!
次回投稿は2023/10/21の19時に予約投稿の予定です。何とぞよろしくお願いいたします。




