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第120話 歌姫の懊悩


◇グレイスの視点です

◆神の視点です


 ミカエリスはその日の夕食を終え、父に連れられて自室に戻るところだった。

 自室の前にまでたどり着くと、父の取りまきが扉をひらき、深々と頭をさげている。


 マレローは心配そうなまなざしで、娘のほうを見やった。


「大丈夫か、ミカエリス。

 最近はとくに食が細く、声にも元気がないようだが……」

「ええ……大丈夫です、父上」

「この不安定な世情(せじょう)で、落ちつかないのであろう。

 だが案ずるな、ミカエリス。

 ワガハイは必ずや王でありつづけ、お前が望むものはすべて与えつづけてやるからな」


 そう言い残して、父とその取りまきたちは去っていった。



 ミカエリスは自室にひとり残される。


 ――走りまわれるほどに広い部屋。

 なかに置かれた調度品(ちょうどひん)はいずれも国内で……いや、世界的に見ても最高級のものばかり。


 たしかになにひとつ不自由はなかったが、そんなものでミカエリスの心は満たされはしない。

 彼女にとっては、人形に与えられたおもちゃのお(うち)となにも変わらないように見えた。



 ミカエリスは深いため息をつき、部屋の奥にある窓辺の椅子に腰かけた。

 窓の外は夜の暗闇に閉ざされており、はるか遠くに月の光に照らされたエミントスの街並みが見える。


 ほんとうなら今すぐこの部屋をでてエミントスまで走っていきたかったが、そんな望みがかなうはずもない。

 彼女は窓の外を見るのをやめ、うつむいた。


 ――父は変わってしまった。

 ……いや、自分が()()()()()()()()()


 母を早くに亡くしてから、父は過剰(かじょう)ともいえるほどに自分のことを溺愛(できあい)していたことは知っている。

 それが時にはわずらわしく感じられることはあったものの、彼女は幸せだった。

 たしかに、以前から財や権威に対して重きをおくところはあったが。


 ……今の父には、こうして悲しみに暮れる自分の姿など見えてはいない。


 すべての歯車が狂ってしまったのは、()()()がこの国を訪れてからだ。

 父に取り入り、国に寄生するあの男。


 ミカエリスは知っている。


 コトハリが父に知られぬよう、密かに宮廷の女官たちを毎夜のごとく(はべ)らせ、淫乱(いんらん)のかぎりを尽くしていることを。


 私欲を満たすだけではない。

 シャレイドラの楼宮内で日々動かされる莫大な資金を横領(おうりょう)し、自身が管轄(かんかつ)する私設軍隊を増強させていっているのだ。

 自身の軍隊を増強させて、いったいなにを(たくら)んでいるというのか。


 コトハリの暗躍(あんやく)に気づいたほんとうの忠臣たちは皆、消された。

 まわりに残っているのは奴の傀儡(かいらい)となったお飾りの家臣ばかりだ。


 ……ミカエリス自身も、常にコトハリによって監視されている。

 表だって事を起こせば、父もろともあっさり殺されてしまうことだろう。

 あの卑劣にして強大なちからをもった、恐ろしい男に。


 懊悩(おうのう)(さいな)まれて、つらい日々を過ごすミカエリス。

 あまりのつらさに、何度みずから命を断とうと思ったことか、彼女自身でもわからなかった。


 ……かろうじて彼女に死を思いとどまらせていたのは、唯一心を支えるものがあるからだった。

 うつむいていた視界の片隅(かたすみ)で小さな光がまたたき、彼女は再び窓から外をながめ見た。


 ――もうひとつの楼宮から、今夜も白い月がのぼり出でる。




 次回投稿は2023/2/16の19時に予約投稿の予定です。何とぞよろしくお願いいたします。

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